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閉じ開き(『君たちはどう生きるか』ネタバレ感想 3)

 機会を得て二回目を観ることができました。

「境域」「結界」は、児童文学ではよく出てくるものだと思います。例えば家、例えば庭は、それ自体が一つの結界をなしていて、その圏域のなかで何かが育まれるということ。守りであり、魔法のかかる領域であると言えます。

作品の中で煙草ー「火」と関係づけられるキリコさんは、とりわけ結界や境界に関係づけられているように思います。扉を閉じ、石の悪意に晒されそうになる主人公に結界を張ることですね。
また同時に、「仕事としての殺生」を表す存在でもありそうです。それは決して悪意に染まったものではない。

境界づける行為は、実際には線引きされた両者の領域を、むしろ輪郭づける行為によって交流させるものであるはずです。己の傷を笑い飛ばし、相手を認める力を含むのですね。キリコさんのように。

しかし、この作品には、もう一つの非常に強力な魔法が掛かっています。それはむしろ外部の世界との暴力的な切断です。主人公が石を持って自分の体を傷つけること、明治維新という大きな時代のうねりを目の当たりにしたであろう大叔父が、塔(隕石)の周りに塔を建てた行為がそれにあたると思います。

それは、外側の悪意に満ちた世界から引きこもり、自分にとって理想の閉じた世界をつくるということでありましょう。
大叔父は主人公に、この閉じた世界を継がせたかった。彼はこの世界にも時と共に虫や悪意がはびこるようになった、と語っています。しかしそれは真実なのでしょうか。

Twitter上の友人から(キタローさん、そう言ってもお許しいただけますでしょうか?)ペリカンが語る「飢えと呪い」について注意を促されました。彼等がワラワラを食すのは、飢えによるものであり、彼等がここから出ることができないのは、呪いなのだと語ります。これは大叔父の発言と真っ向から食い違うものでしょう。ペリカンもインコも、大叔父によって塔のなかに連れてこられたのだと。

つまり、この強力な魔法は、ペリカンやインコの犠牲の上に成り立っていることになります。外部の世界の不条理に瞋り、そこから切り離された閉じた世界を作り出す行為は、実際は外部への憎悪と、少なからぬ犠牲の上に成り立っている。インコやペリカンは、「工事の際に起きた死者や怪我人」「主人公が自らを傷つけることで傷つけたかった相手」の、変形なのかもしれません。

なので結局のところインコ大王が、この閉じた魔法の世界を破壊することになったのは、彼だけがその権能を持っていたということなのではないでしょうか。

このインコの生活シーンは、どことなくユーモラスで、作品の中でさらに一つ戯画化、誇張されているように思います。インコが「籠の中の鳥」であり、ペットであるからかもしれません。(作家論的に理解したくなるところではあります、がここではあえてそのような読みを取りません。)

主人公もまた自分の傷が、自分によって付けられたものであることを認めることによって、魔法を解くこと、この閉じた世界を開き帰っていったのだと思います。

ペリカンが産まれくる命を奪い、インコが人間である輪の中から、ペリカンがペリカンであり、インコがインコである世界へ。

次は、産屋と墓、ナツコ母さんに掛けられた呪いについて?書けたら書きます。