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友情について(『君たちはどう生きるか』ネタバレ感想5)


我に返って思うのですが、前々回あたりから、読解が思い入れの強い感じになってますね。読みを補填する根拠も、想像でつなぐものが多い感じになってきております。

児童文学者・宮崎駿

その中でも今回は特に、主観性の強い読みになっております。自分の中の強い仮説は、宮崎駿監督が「児童文学」をアニメにおいて遂行しようとする希有な児童文学者であり、私小説的な作家ではない、ということにあります。つまり、作品はすべてどこかしらのところで、「子ども宛に作る」という、宛先を中心に作られていると言っていい。私小説的に、宮崎駿自身のことが組み込まれていたとしても、自身が中心になることはなく、「子ども宛の作品」を作るという目的に寄与する形で使われていると考えます。なので本作が遺言だとしたら、「宮崎駿の」遺言なのではなく、「子供に向けた」遺言であるということに中心がある。

では、宮崎駿が子どもたちに伝えたい、いやモチーフとして作品のなかで体験してもらいたいプロセスはなんでしょうか。それは「この世界で生きていくことの肯定と力の経験」ではないでしょうか。(宮崎駿『風の帰る場所』などより)
だからこそこの作品は、あの最後の「家族」となった4人の姿に向かって進んでいく。大叔父がもし宮崎駿の自画像であるならば、自身の積み上げてきた仕事や作品を否定し乗り越えることをすら、自己批判的に肯定していると言うこともできるのではないでしょうか。

乗り越えられるべき課題

 さて、しかしマヒトの前にある現実は、非常にシビアなことです。激しい自他への憎悪にさらされ、犠牲を強いられた存在である義母ナツコを前にして、彼女を現実に連れ戻さなければならない。

 何という課題でしょうか。類似した構造をもつ「思い出のマーニー」と比較するとその違いが際だつように思います。マーニーにおいては、義母とのあいだで生じている距離感や壁は、基本的に主人公が自分で作り出しているものです。彼女には、義母が自分に向ける思いを受け取るための器がない。彼女がマーニーとのあいだで交わした孤独な心の接触は、それが実際は「実の家族との接触」であったという推理小説的な解決を経て、心の器として主人公に定着します。

 しかし『君たちはどう生きるか』はそうではない。前回に触れたように、義母は「血脈」「家系」によって、母親になることそれ自体によって実際に傷つけられている存在です。その憎悪を真っ向からぶつけられ、どうやって彼女の生を肯定することができるのでしょうか。

ここでもう一つ、Taröさんのツイートを引用したいと思います。前回の文章に対して私信で精確なコメントをくださったのですが、Taröさんのこのツイートにも圧縮されたかたちで読解が載せられています。

"すすはらいさんとのやりとりで考えが整理されてきた。一つ所に留まらない世界の万象を概念に分節・固定化するという人間の営為は、大叔父の世界を丸ごと理解し理想化するという「欲望」とも表裏一体。概念の固定化は家族の呪縛にも繋がり夏子を苦しめる。しかし友であり家族である存在は希望にも。"

どうでしょうか。ノマド性を概念化と対置させ、かつ大叔父の過ちを「家族の呪縛」として切り取っておられます。血脈的な役割の固定、と言ってもいいかもしれません。このお考えに自分も同意するものです。

 言い換えるならば、ナツコの苦しみは、「家系の役割と名」による縛りであるといえます。母であることを要請されそれに応えようとしながら、母であることを憎悪する。それがマヒトが目の当たりにしているナツコの苦悩であり、冥界に臥す理由であると思えます。


「呼びかけとしての名」

 イザナミのようなナツコの苦悩に対してマヒトはどのように返していたでしょう。これもまた、児童文学の古い規則に従って「名を呼ぶことによって」です。「お母さん、ナツコ母さん」と。いったいなぜそれがナツコを冥界から呼び戻す力と成りうるのでしょうか。

おそらくここに、「役割としての名」と、「呼びかけとしての名」の対置が存在しています。ただ母という役割として名ざすのではなく、お母さんと呼びかける。

三人称ではなく二人称として、哲学者ブーバーの言う〈それ〉ではなく、〈なんじ〉として、と言い換えてもいいでしょうか。

「何者でもない」という領域

名指し、命名が成立するための与件として、塔の世界、魔法の世界にもう一つ規則があるとしたら、呼びかけられるまで「何者でもない」ということなのではないでしょうか。つまり〈それ〉、外部において役割、名前のある存在が、変容し、役割的なものが外されて名のない存在になるというところから、名を呼ばれることを経て初めて〈なんじ〉としての「お母さん」となる。(ここは、一連のツイートでTaröさんが、「夏子の繭の中の変容」と呼んだこととも重なっています。)

主人公は若い女性に向かって別れ際に「キリコさん」と呼びかけます。名を明らかにし、その証をお守りとしてもらうのです。同様に、臥した女性はあの瞬間まで「お母さん」でも「ナツコさん」でもなく、マヒトが呼びかけることによって母親になる。

ボルヘスの作品に、「Everything and Nothing」というシェイクスピアをモチーフにした短編があります。この作品の最後に神が、シェイクスピアにこう語りかけるのです。

「わたしもまた、わたしではない。シェイクスピアよ、お前がその作品を夢みたように、わたしも世界を夢みた。わたしの夢に現れるさまざまな形象のなかに、確かにお前もある。お前はわたしと同様、多くの人間でありながら何者でもないのだ。」

ボルヘス「Everything and Nothing」『創造者』


この「何者でもない」領域、変容の領域こそが、児童文学の扱う領域ではないでしょうか。そこでは両親も豚になるし、少年も竜になる。両親は豚ではないと名指すことによってはじめて、魔法は解け、彼らを元の世界に返すことができる。

友達という無名性

さて、このような無名性の場において名指しを可能にする、主人公の成長はどのようにして支えられているのでしょうか。

ひとつの見方としては、「実母」であるヒミの助力によって、となるのかもしれません。『マーニー』において祖母との交流が義母の関係の支えになっていくのと同様に、母との繋がりが確かになったために、義母との関係が成立したのだと。

しかし、自分はそうではないと考えます。理由のひとつは、実は母との和解は、主人公が塔に入る前に、『君たちはどう生きるか』を母からの贈り物として読むことによって成立しているという描写があることです。

 もうひとつは、一度もマヒトが、塔の中のヒミを「お母さん」とは呼んでいないらしいことです。児童文学の規則の通り、呼んでいないならば、彼女は母親ではない。(ここは、自分はかなり気になって二回目鑑賞時に注意して観ていました。二回みたというキタローさんや妻にも尋ねました。呼ばれていない、という前提で話を進めます。)

 ではマヒトはヒミをなんと呼んでいるのでしょうか。終盤の大叔父との対話の中で、「血塗られた外の世界に行くというのか」という大叔父に彼は答えます。「自分には友達ができました、キリコさん、ヒミ、アオサギです。」と。
 そう、彼女はあくまでも、マヒトの母親ではなく、友達なのです。(この辺りは、キタローさんとやりとりをしていてはっきりしてきたところです。)

 友達とは何でしょうか、子どもたちの友達作りを見ていて常々思うのは、友人関係にとって必要なのは「誰々の誰さん」という役割でも、立場でもなく、「その場に居合わせていること」と「一緒に遊べること」だと言うことです。むしろ遊べるという関係が、逆に友達を作ると言っていい。何者でもないものたちが遊べること、それを通して友達になったということが、根底から主人公を支えているのではないでしょうか。

 そして同時に、この物語の帰着するところは、お母さんではないヒミ、「お母さん」という役割を負う前の彼女が、その死を予感しながら生を肯定し選び取ったということでもあります。

この作品の中で、主人公がヒミが友達だというのは、自分にとっては実母であったある一人の女性の人生を、その総体として肯定する、ということなのではないでしょうか。哲学の言葉に「このもの性」という言葉があるそうですが、換えの利かない「このもの性」としてのヒミの肯定は、同時に換えの利かない「このもの性」としてのナツコを肯定することでもありましょう。だからこそ実母は、あの塔の中では、お母さんであってはならなかったと言えるでしょうか。

ヒミが別れ際にいう、「火は平気、大好きなあなたが産まれてくるなんて楽しみだわ」という台詞が成立するような、そんな場所がある、と考えます。ベタな実母であっては絶対に言えない、言ってはならない言葉だけれど、そのような変換が起こる場所だからこそ、決して癒えないような傷も取り扱うことができる。なぜならここでは火は、これから主人公が帰っていくだろう世界そのもののことでもあるからです。

 友情についての思惟は例えば、『ハウルの動く城』においてソフィーが、カルシファーに与えた愛情であり、荒野の魔女を説得した力でもあるように思えます。後期の宮崎駿の作品の中で中核にあるような肯定の力であり、宮崎駿が子ども達に伝えていることのキーであると思えます。

 長々とお付き合いありがとうございました。
さて、次回は「遊び」について考えてみたいと思います。書けるのかしら?