見出し画像

レヴィ=ストロースについてのメモ3

檜垣立哉「レヴィ=ストロースの哲学的文脈」(『構造と自然』所収)におけるいくつかの論点

・サルトルの『弁証法的理性批判』との対比

「人間中心主義者」サルトルとその弁証法的理性による革命への志向に対比されて、レヴィ=ストロースは「非人間中心主義者」、人間の「溶解」を語る論者となっている。人間の溶解とは、

自然と文化の関係性がつねに自然をベースにしながら出現しつづけることであると断じていく。

檜垣立哉「レヴィ=ストロースの哲学的文脈」『構造と自然』p.193

これは、図式としてそのまま『構造人類学』における歴史学と人類学の区分に、そして『今日のトーテミスム』におけるベルクソンについての議論と「同型」であるとされる。

歴史学やサルトル的実践があつかう「出来事」は、すでに「構造」のなかに自然とともに含まれている。まさにチューリンガという「先祖の身体」のひきつぎがそうであるように、「歴史認識はすでに野生の思考のなかに深く根を下ろしている」(Lévi-Strauss 2008:841)。歴史学と区分される「無時間性」とは、「野生の思考」が「世界と同時に共時的通時的全体として把握しようとする」ために現出するものなのである(Lévi-Strauss 2008:841)。それは幾枚かの鏡に映った部屋の認識に類似しているともレヴィ=ストロースはのべる。
 かくしてレヴィ=ストロースの構造主義は、その根幹から共時性と通時性との交錯として取り出される。そこで「出来事」と「構造」とは対立するものではなく、デリダやドゥルーズ がのちにとりあげる出来事=構造という場面は、そもそもチューリンガにおいて、同時的にあらかじめ埋めこまれて描かれているのである。

同上

・ ドゥルーズによるレヴィ=ストロース読解について

ドゥルーズはレヴィ=ストロースをラカンと並行的にとらえており、「隠喩」と「換喩」という主題、そして「マナ」=「浮遊するシュニフィアン」という主題について論じるとされる。

「浮遊するシュニフィアン」の重視においては、ドゥルーズもデリダも、レヴィ=ストロースを、リジッドな構造主義者というよりも、むしろ構造に絶えざる変動をもたらす思考を提示した思想家として捉えている。出来事と構造の相互的な絡み合いという問題は、ドゥルーズにおいても(以下で論じる『意味の論理学』(一九六九年)のいくつかのセリーで)、(中略)重視されている。

p.195

「マナ」とは何であろうか。それはモースにおいて呪術と関連づけられて想定される「何か」である。レヴィ=ストロースは「マルセル・モースの著作集への序文」の冒頭近くから、構造主義的記号学における無意識概念との連関においてこれをあつかうが、それはおおもとはシャーマンのもつ霊力であり、「あれ」(truc)や「あいつ」(machin)と同様に、「いわば代数の記号のようなもので、それ自身は意味をもたず、それだけにまたどんな意味でもかまわずにうけいれることができるので、意味的に不定な価値を表象する」(Lévi-Strauss, 2012(1950):48)ものとして提示される。

p.195

ここでは「マナ」に該当するものは、構造主義的な記号論におけるシュニフィアンとシュニフィエのあいだのズレ、つねにシニフィエに対する余剰として不均衡的にはいりこみ、記号それ自身を出来事的にくみかえる何かであることが示される。

p.196

檜垣立哉のこの文章は、ドゥルーズのいささか難解なテクストの理解には良い補助線のように思うし、レヴィ=ストロースの初期作を読む際に、「出来事」と「構造」、「通時」と「共時」というラインで読むという方向性を与えてくれた。