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漫画みたいな毎日。「子どもの〈お手伝い〉に対価を支払いますか?」

書き終える前から、この事に関して、私の思考は、まだまとまっていないのです、ということをお伝えしておきたい。

〈子どものお手伝いと、それに対してお金を支払うか、ということ。〉

皆さんはどう考え、家庭でどのように取り入れているのだろう?


海外では、当たり前のように、お手伝いに対して対価が支払われていることが多い様子。それは、労働に対しての対価でもあり、お金の価値・管理を身につける為などとも言われている。

日本でも、家庭によっては、「お風呂洗い50円」とか、「買い物のお遣い100円」とか、「ゴミ出し30円」とか、家事の価値を数値化してお小遣い制度を取り入れている家庭もある。身近にもそういう風にしているよ、という話を聞いたこともあり、ふむふむ、考え方は色々だよなぁ、と聞いていた。

我が家では、多くはないが、長男と二男には、定額のお小遣いを毎月渡している。自分で管理して、何に使うかは、自分で考え、貯めるなり、使うなりするようにと話し合っている。

お小遣いで買えないが、欲しい物、必要なもの(本や学びに関するものなど)がある場合には、話し合って、今、必要なのか、もし買うとなれば、どういったものであれば良いかなどを一緒に検討する、という形だ。

家事に関しては、子どもたちが手伝っても、特にそれに対して報酬制度を取り入れていない。

夫と私の中では、「家のことは、みんなのこと」と思っており、生活を組み立てるということは、皆で協力して暮らすということ。だから、そこにお金を介在させることには、違和感があるよね、と話している。

私も、夫も、子どもたちにお手伝いを強要することはない。

子どもたちが、自分で考えたり、「手伝おう」と思って自発的に手伝ってくれることに対しては、「助かる、ありがとう。」と感謝を伝えて受け入れている。

子どもたちは、日々、私が家事をしていると「何か手伝うことはある?」と聞いてくれる。実際、手伝ってもらえることがあれば、お願いすることもあるし、「今は何もないから大丈夫だよ。」と答えることもある。

しかし、このことについて、考えるタイミングがあった。

ある大雪の日のこと。
長男は、いつものように、雪掻きをしてくれていた。
雪掻きにも慣れているし、身体も大きくなり、力もついて、すっかり雪掻きのときにはすっかり頼れる存在となっている。

私は、特に深く考えず、長男の働きっぷりにただただ感心し、「雪掻きのアルバイトがあったら、アナタの働きっぷりは、喜ばれるだろうねぇ。」と言ったところ、長男が、「じゃあ、アルバイト代ちょうだい。」と冗談交じりにいった。

この長男の一言に、なんとなく違和感を覚えた。

それは、家の仕事としてではなく、他での労働報酬としてであれば、そのくらい価値がある働きを長男がしてくれている、という意味で言ったつもりだった。

「アルバイト代くれないんなら、やらない~!」と、おそらく冗談だったのだろうけれど、そういった長男に、私は苛立ちを覚え、思わず、「じゃ、手伝わないくていいよ。」と言ってしまった。

家のことは、私のことでもあるが、長男のことでもある。私は、家事とは、家族全員の「自分事」だと思っている。だからそれに対して対価が発生するのはおかしいと思ったのだ。

もし、家事や育児に関わることのすべてに対して報酬が発生するのであれば、私が長男に対して行う家事などに対しても、支払いが必要になる、となってしまうのではないか?家族の中でそういった気持ちが生じるのは、居心地が悪いではないか。

長男の一言から、思い出した記憶がいくつかある。

私も幼少期は、お買い物のお駄賃、などといって、母の煙草を買いにいっておつりをお小遣いにもらっていた。まぁ、そのくらいは可愛いもので、父が肩を揉んで欲しい、揉んでくれたらお小遣いをあげるよ、などと言い、お小遣い欲しさに肩や背中をマッサージした。

父のマッサージをするのは、「お小遣いが欲しいから」であって、「父が疲れているから」という気持ちからでは決してなかった。〈思いやり〉〈いたわり〉などという言葉からは、相当掛け離れている〈肩揉み〉であった。それを思い出すと、私は今でも居心地が悪くなる。

他にも、母が、仕事から帰ってきて、台所に洗い物が残っていたり、部屋が散らかっている、洗濯物を取り込んで畳んでいない状態であったなら、母は、物凄い勢いで不機嫌になった。

私は、〈母が不機嫌になるから〉という理由で家事をしなければならないという気持ちになった。そして、家事が〈自分のことである〉という意識も持てなかった。

しかし、手伝っても母の不機嫌が止むことはなく、「ありがとう」という言葉も記憶にない。もしかしたら、「ありがとう」と言ってもらっていたのかもしれない。でも、私の心には届いていなかったのだろう。

畳んだ洗濯物を「畳み方が汚い」と目の前で畳み直された時には深く傷付いた。母の畳み方は恐ろしく綺麗だった。私は洗濯物を畳むことが好きではなくなった。

子どもだった時の自分の姿を長男の発言に重ね、私は苛々を募らせたのだ。

私と長男は、自分と父や母との関係性と何ら変わりないのではないだろうか?と。

お手伝いとは何か。
家事とは何か。
家族とは何か。
お互いに暮らすとはどういうことなのか。

このようにして、家族とは?暮らしとは?家事や手伝い、お小遣いとは何か?と考えるきっかけが山のように降り積もっていったのだな、と思った。

そこから、様々な考えを巡らせてみた。

もし、家庭内で、私以外が家事をせず、夫も「家事は主婦の仕事」として自分の範疇から切り捨て、「自分は外で働いているのだから家事は自分の仕事ではない」と家事に一切関わらないという家庭であったらどうだろう?

多分、私は、「家事とは、賃金こそ発生しないが、労働としては、対価を払われるべき事柄である」と、子どもたちが将来家庭を築く場合に、家事を軽んじることがないようにと、家事の労働価値を金額化して伝えようと思ったかもしれない。「家事とは、価値のある労働だよ」と。

しかし、それは、伝え方が一歩違えば、「お金がもらえないのであれば、家事を手伝う必要がない」という考えにも繋がる気がする。

少なくとも、私はそう感じて育ってしまった。

相手を思いやる気持ちよりも、お小遣いの為であったり、相手を不機嫌にさせないための行為でしかなかった。

そして、その様に思ったまま「専業主婦として、家事に従事するのだから、対価を払われるべきだ」という思いを秘めつつ家事に向かう可能性もあるのかもしれない。

例えば、家事分担を各人にしっかりと振り分けたら、どうなるのだろうか。
自分の分担以外の家事を本来の担当者の都合や体調などで引き受けねばならなくなった場合、「負担」に感じる可能性はないだろうか。

できるときもあれば、できないときもある。
できないところは、フォローし合う。
そのような姿勢や気持ち、ちょっとした余白が無くなってしまう気がする。

家事、とはそういうことではないだろうと私は思っている。

家事とは、生きる上で行われる営み。家政である。家政については、以前、こんなことを書いた。

知の体系として、家事を理解することは大事だとしても、そこに賃金を発生させるということは、また違う話である気がするのだ。


誰かと暮らすこと、
その中で育つ生命があること、
その中で育まれる関係性があること。

これがおそらく、
「生きている」ことでもあるのだろうなぁ、とぼんやり考える。
そして、これを支えるのが、「家事」ではないかなぁ。
大変でも、面倒でも、時には、手を抜きつつも、毎日、何かしらの家事が私の暮らしにある。
それらを呼吸するのと同じように、していく。

暮らしを共にする者同士、お互いに、さりげなく気にかけあったり、
補い合って暮らしていきたい。

強制や、対価や、そういったことを間に差し挟むことは、現在は、「同じ船に乗り、旅をしている者同士」である家族の中では、無粋な気がしている。
少なくとも、今の私が〈家族〉と思っている関係性の中では。

意地っ張りの長男と、意地っ張りの私。
その日は暫く、険悪なムードだった。

夕飯に餃子を作っているときも、なんとなく気にして台所にくる長男。いつもなら「手伝う?」と彼から言ってくる場面だ。なるべく平静を装い、「皮作り、やる?」と聞いても、「お母さんが手伝わなくてもいいって言ったからやらない。」と背を向ける。私もそれにつられてプリプリと怒りが増し、「何よ!まだ根に持って!」と餃子を黙々と包む。

お互いに和解するタイミングが掴めない。
THE・意地っ張り遺伝子。

夕飯を食べながらもなんとなく険悪な雰囲気。そんな中、夫が「今日は、タダで雪掻きしてくれてありがとね。」と笑って、長男に声を掛けると、「しょうがねぇな。明日もタダでやってやるか。」と、私の方に視線を向けた。

私も意地っ張りを解除し、「いつもありがとね。」と手を差し出し、長男と握手した。

家事とは、家族みんなの〈自分事〉。
だから、お金をやりとりしたくはないと思うのだ。
できるひとが、できるときに、できるぶんだけ。
どこか〈お互い様〉の気持ちを感じていたい。


家事もお手伝いも、お互いに乗り合わせた船を心地よくするためのものであったらいいなと思った出来事だった。




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