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漫画みたいな毎日。「家政とは、家のまつりごと。」

今日は、勤労感謝の日。

これは、いったい誰に感謝していいものか?というのが、子どもの頃からの疑問なのだけれど、未だにわからないでいたので、調べてみた。

国民の祝日に関する法律の条文には、「勤労をたっとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう日」とあります。 この条文が示す通り、勤労感謝の日とは、広く働く人々の勤労に向けて感謝を示す日だということがわかります。 働くことや仕事そのものを大切な習慣として重んじ、国民同士が互いに感謝を示し合う日として制定された祝日です。

なるほど。

誰かに対して特定に感謝しようとかではなく、お互いに、というのは、いいなと思う。誰しも、何かしらの事柄に仕えている。大人も、子どもも。

そんな勤労感謝の日に、「家事」について書いてみようと思う。

一日24時間、一年365日。

家事とは、決して縁を切ることができない。

やや話が逸れるが、家のまつりごと、と書いて家政ってなんだか凄い表現だな、と思う。

家政 かせい house hold; house economy
一家の生活にかかわる諸事を処理し,治めること。現在の日本では主婦の仕事の範疇と考えられがちであるが,旧民法下では家長 (男性) によるものであった。また,ギリシア語で家政を意味するオイコノモス oikonomosは,家と秩序を意味する言葉の結合語で,経済 economyの語源となっている。このように家政は民族階層,時代の違いなど,家のさまざまな形態によって異なるもので,新しい家政のあり方を模索することは単に生活学だけでなく全地球的課題といえる。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典より 

〈一家の生活に関わる諸事を処理し治めること〉とは、まさに、政治。
一国の主のようだ。それで、旧民法下では、男性の仕事としていたのか?と思いを巡らす。

私は、現代において、というか、個人的な考えで、家事をするのを性別で判断するなど、ナンセンスだと思うし、「家の営み」をするものが、お互いに話し合い、協力していくものだと考えている。まぁ、得意不得意もあるだろうけれども。

我が家は、たまたま、夫も同じ様な考え方であるので、その事で、争うこともなく、平穏であるが、それは、まだまだ一般的な考えではない部分もあるのだろう。仕事に加え、家事・育児を担う方々にしてみれば、〈家事は大変なものである〉という認識になるのも納得できるなぁ、と思う。

今年の2月にスープ作家の有賀薫さんの記事を読ませていただき、紹介されていた本、〈家政学の思想〉に興味が湧いた。この記事を何度も読み返したいと思い、自分のマガジンに追加し、何度も読んで、その意味合いを考えている。そして、この記事をはじまりだけ書いて、ずっと下書きのままになっていた。寝かせること、9ヶ月。春が来て、また冬を迎えようとしている。

家事は大変だとみんなが言います。でも世の中の仕事で大変でないものなんてないですよね。その中でなぜ家事が疎まれるかといえば、家事の社会的な価値が低いということに起因しているのだろうと思います。ただ、それを解決する方法は、家事をむやみに軽量化することでもないし、家事を経済活動に組み込むことでもない。

有賀薫さんnoteより

確かに、家事は大変なのかもしれない。社会的に家事の価値が向上すれば、もっと人は家事の負担を感じないのだろうか。

そして、思う。

すべてが便利になって、家電がすべてを補ってくれたり、家事を全部外注することになったりしたら、私はそれによってできた時間やエネルギーを何に充てるのだろう。多分、結局、何もできないし、しないのではないだろうかと思っている。

家事をすること、生活を組み立てる基礎の営みの中で、自分の中で構築される何かがあり、満たされることもある。

例えば、家族が心地よく、毎日を過ごす姿から、人の基盤が家事にあると感じる時。

大変だと思っていた家事がいつの間にか負担でなく出来るようになっていることに気がついた時。

これは、家事を繰り返すことでだけ、感じられることがある気がしている。

他にも生み出されるものは、工夫であったり、発見であったりするかもしれない。

日々の営みを繰り返すなかで、自分自身がいつのまにか変化したり、成長していることを感じるのが〈家事〉である気がしている。

藤原さんは、非常に変数の多い中から最適解を導き出す家庭科は、ひとつの領域を超えて学問全体の体系であるべきだとおっしゃっていました。
家庭科が知の体系として見られるようになれば家事の価値は上がります。もっと進化させていこうという空気も醸成されていくし、そうなってはじめて、学校の家庭科の履修時間をもっと増やそうといった議論が俎上に載るのかもしれません。
また、阿古さんの「(家事は)グレーゾーンも多く、家事代行サービスだけで賄うことは難しい。そしてそのプラスアルファこそが人間を人間たらしめている基盤だと思います。そのプラスアルファに宿るものは、言ってみれば「愛」だと思うんですよね」という発言に大きく共感。


「家庭科が知の体系として見られるようになれば家事の価値は上がります。」という一文に、なるほど、という気持ちと、そうなのかな?という気持ちが同時に湧き上がった。

そもそも、家事とは、暮らしの中の営みである。
子どもや大人がその家庭の中で育っていく過程の営み。

それを学校で系統立て、家庭科として習得することは、もちろん悪くはないと思う。技術としての家事は学校で学べるかもしれない。系統立てた学問となれば、多くの人(特に家事に携わること無く育って来た男性たちにとって)に〈家事とはなんであるか〉が理解しやすいものかもしれない。

一方で、それだけでは、決して感じることのできない営みでもあると思えるのだ。家事ってもっと肌で感じる部分が多くある感じがする。

匂いとか、
味とか、
触れる感触とか、
そこに流れる空気、というのだろうか。

それを系統立てることは、きっと難しいだろうな。

対談の記事に書かれているように、家事のプラスアルファに何か宿るとしたら、それは、ひとそれぞれであるかもしれない。愛であったり、愛というものとは違う何かかもしれない。愛ってなに?と言われたら、私は言葉として語るには、明確な答えを持っていない。

なんでもかんでも〈愛〉と括ることが、危うく思えることだってあるから。

誰かと暮らすこと、
その中で育つ生命があること、
その中で育まれる関係性があること。

これがおそらく、「生きている」ことでもあるのだろうなぁ、とぼんやり考える。

そして、これを支えるのが、「家事」ではないかなぁ。

大変でも、面倒でも、時には、手を抜きつつも、毎日、何かしらの家事が私の暮らしにある。

それらを呼吸するのと同じように、していく。

呼吸するように家事をしながら、うっすらと晴れて肌寒いこんな日は、白菜の塩しょうがスープが似合う日だなぁと思うのだ。


ヘッダーはみんなのフォトギャラリー・500mlさんのイラストをお借りしました。素敵なイラストありがとうございます♪

学校に行かない選択をしたこどもたちのさらなる選択肢のため&サポートしてくれた方も私たちも、めぐりめぐって、お互いが幸せになる遣い方したいと思います!