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結婚式の披露宴で感動できなかったのは、わたしの心が冷たいから?


煌びやかなドレスに、「こっちで写真撮ろうよう」という甲高い女の子たちの声。宝石のような見ているだけで楽しいような料理が並び、手元にはデザイン関係の仕事に就いている新婦が作った特製のパンフレット。


“The fast day(初めて会った日)”からはじまって“We fall in love(恋に落ちた日)”、“Same name(入籍した日)”と続くパンフレットには、新郎と新婦の思い出の道のりがコラージュされていた。


私は先日、初めて大学の先輩の結婚披露宴に参列した。そして、この文章を書くに至ったわけだが、もう先に先手を打って言っておく。


これはあくまで私の主観を元にした文章だ。そして、結婚や出産についての話題は、宗教や政治に並ぶほど人の価値観にばらつきがあるものであり、人を刺激したり傷つけうる話題であることも重々理解している。だからこそ、それでいて今回声を上げたいと思ったのは、何かを非難するために賛同の声を求めたいからではなくて、わたしがわたしのために書く備忘録の一つとして、そう、記録が欲しかった。この文章は結婚式に対する、現在のわたしのひとつの考え方であり、名もない個人の独り言。


新郎新婦は私の大学の先輩で、サークルで2年間付き合ったあと、3年間の同棲生活を経て昨日結婚した。だから、関係的にはアウェイになって場に馴染めないことはなかったし、むしろ知り合いの方が多くて「内輪」の中にいた

とくに新婦は私たち後輩との距離も学生時代から近く、みんなでよく遊んだりもしていた。彼女は前に出るタイプではなかったけれど、落ち着きがあって、淡々と物事をこなし、丁寧な生活を愛する人。そして、なにより特別ぎらついているわけではないのに人目を惹くナチュラルな美しさがあった。謙虚で温かく、悪口や弱音を吐かない部分も含めて若い女の子には珍しく、安定した人だった


隣に立つ新郎も彼女と同じく、穏やかな笑顔が似合う人で、彼の職業である公務員のイメージとも重なった「誠実さ」を具現化したカップル。お手本、と言うような言葉が似合う彼女に、「彼氏さんと喧嘩したりします?」と興味で聞いた学生時代のわたしは「うーん、ないなあ」という一言で口をつぐむ羽目になったのだった。

細やかなビーズのついたのウェディングドレスを着た先輩は本当に美しく、幸せそうだった。夢の国の、踊るネズミさんさながらに後輩や友人たちが群がって写真を撮る中でも、マリアのような微笑みは学生時代のままで、周囲の景色だけが彼女の周りから早送りの動画のように会場へと変化したようにすら思えた。


そしてまた、会が進行するにつれて、わたしは自分の胸の中で抑えていた違和感がどんどんと大きくなっていくのを感じていた。

羨ましい〜!

私も結婚したい!!

次きっとすぐ子どもだよ〜あの2人の子どもに生まれ変わりたい〜


その場ノリのテンションでなんとなく言っている言葉だと言われてしまえばそれまでであるが、友人の言葉たちが張り付いて私の喉元をひゅうと絞める。


そして、酒が回った周りの煽りもありつつ、新郎新婦のキスシーンに会場の盛り上がりは最高潮に


ひゃあ〜///と言いながらめちゃくちゃ楽しそうな友人を横目に、目の前の白ワインをグイと煽る。胃の入り口がじんわりと熱を持つのがわかった。

そのときは何が自分の中で消化しきれていなかったのか、うまく言葉にできずにいたけれど、帰ってきてわかった。


わたしはたぶんあの時、「人生のレールに乗ることが勝ちであると疑わない価値観」に事故のように触れてしまったのだった。


その証拠に、花嫁を美しいとは思ったものの、友人の「すなも羨ましいよね?」の視線からは目を逸らした。結婚願望がないわけではないのだが、わたしは僻んでいるわけでもなく、羨ましいとは思っていなかった。どちらかと言うと、私の場合は独身でいるといつか誰かにまた恋をして傷つくのが見えているから、恋愛市場から降りる術として結婚したいなとは最近は思う



そもそも結婚に対しての価値観も、本来はかなり多様なはずなのに、ね。



新郎新婦には全くもってこの件に非はない。何度も繰り返すようであるが、これは私の自論でしかない。だから結婚披露宴=悪ではないし、開催した人を非難するわけでもない。だからこそ純粋に思った。


そもそもなぜ人は披露宴をするんだろうと。

帰ってきてから暗い部屋で検索を繰り返し、どうやら幾つかの理由があることを知った。○クシィのアンケートとか、式場のブログとか、とにかくいろいろ読んで見たところ、中でも有力な披露宴を行う理由は以下の3つだった。

「感謝の気持ちを伝えたい」
「親や友人に喜んでもらいたい」
「夫婦のケジメをつけるため」

そして、これを読んでわたしは正直ますます混乱してしまった。

まずわたしが披露宴を開くとして、そこに会として呼べるだけの人数の友人がいないことは前提にあると思う。とにかく人付き合いが狭くとことん深くのわたしにとって、披露宴をしたとて最後の晩餐の半分のテーブルで事足りてしまう。それに、わたしの友人たちも会を好まない。皆一対一の付き合いで語り合うことを好むから、わたしの良さも彼らの良さもグループになるとうまく光らない。だからこそ、わたしは彼らと深く仲良くなることができた。


会社の人たちやもう少し輪を広げた人たちを招待して、配偶者を見せたいという気持ちもあまりない。だから、感謝の気持ちは個々で伝えれば良いし(例えばわたし+夫になる人、親友で会食)、「親や友人に喜んでもらいたい」だから披露宴で友人が喜ぶ、という点においては、わたしは披露宴で周囲を喜ばせること自体にいまいち自信がない


もちろんタダで好きなものを食べて好きな時間に帰っていいなら友人も手放しで大喜びだろう。しかし現実はそうも行かない。お金もかかるし、女性ならヘアセットなどの準備をする人もいる、余興がある場合もある。それでもきっと、わたしが披露宴を開いたら本心に関わらず彼らは嬉しそうな顔をしてくれてしまう。本心じゃなくてもきっと、気を遣わせてしまう。大好きな友人だからこそ、お金をかけて呼びつけて祝わせることに忍びなさを感じてしまうのだ。


同様に親が喜ぶ、というのは主に花嫁姿の話がメインだろう。しかし、花嫁姿だけなら式で十分だし、いまはウェディングフォトだってある。もう一歩踏み込むと「親の援助ありきで」披露宴や式を挙げている場合、それはほんとうに親孝行なのかという謎もある(これは一つのケースではあるが)。


「披露宴の色々な化けの皮を剥がして、自己満足ですって言わせたいのかこいつは」と言われんばかりの性格の悪さに、自分でも辟易している。ほんとうに、自分でも悲しく思う。でも現実で表に出して誰かを傷つけることだけは避けたくて、わたしはわたしなりに今日もこうして言葉で感情の昇華をしている

これは披露宴に始まったことではない。公の「こうであるべき」行動の流れがわかっている時に、心の中の自分が違う感情を抱いてしまう瞬間が辛い。もちろん、そこで空気を悪くするほど子どもであるのも恥ずかしい年齢なので、表向きは完璧に取り繕う。だから昨日あの場に居た人がこのnoteを読んだとしたら、ゾッとされるかもしれない。それくらいわたしはあの会を“楽しんで”いたことになっている。


同じようなシチュエーションだと、大勢のタイプの飲み会で、楽しそうな卓としけている卓が分かれた時のあの空気感。人の輪にたいして勝手に疎外感を感じたり幻滅してを繰り返すめんどくさい自分に対しての嫌悪感を抱きながら、終電をすぎていてもああタクシーでもいいから帰りたいと思う。






人の輪の中で嘘つきな自分を演じるはみ出し者は、いつか人狼のように吊し上げられてしまうのでしょうか。




2021.04.12

すなくじら


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