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人生に疲れた私が「考えても、しゃあない」と教わった夜


逃れようのない虚しさがあった。

孤独と言えば孤独だったし、不幸と言えば不幸だったが、真っ当なそれとは呼べそうもなかった。つまりは衣食住が満たされていて、わりかし好きなように生きていて、なにが不満なのだと怒号を浴びそうだった。だれに、かはわからない。「贅沢者」「強欲」とだれかに言われそうだった。それがまた劣等感を加速させていく。自分はどこまでいっても幸せになれない。そう思うとほとほと嫌になった。

しにたい、軽くそう思っていたけれど、今日も腹は減るし性欲はあるし本能では「生きたい」のだ。それもまた嫌になった。なんだかよくわからない、うだうだしたループの中に、わりと長いあいだ、身を浸していた。


とある休日、引きこもってネットフリックスでも観ようと思っていたのに、外はかんかん照りだった。こんな日に限って朝早く目が覚めてしまい、時間がたっぷりとある。散歩でもしようと身支度をし、外に出た。ひとりでぷらぷらと歩く。平日の14時なので、公園もすいている。また小学生ですら学校に居る時間なのだと思うと、自分は一体なにをやっているのだろう、とまた襲ってくる虚無感に身をよじりつつ。特に用もない百円ショップを冷やかして、安い服屋で使い道のないTシャツを買う。

そのうち、マッサージにでも行こうと思い立って、近くの店をスマホで検索。ヒットしたのは歩いて10分の美容室。年季の入った外観だったが、マッサージとエステが120分3,000円という破格だった。口コミもよかったので即予約して、一旦家へ帰って時間を潰し、予約時間に再度家を出た。


家から一本道をずうっと直進した場所にある美容室で、迎えてくれたのは元気なおばあちゃんだった。七十歳くらいかな。祖母を思い出した。

化粧を落とし、顔にオイルだの化粧水だのパックだのを貼られるうちに、初めて来た空間に体が慣れていく。てきぱきとした手さばきも、皺の入った掌も、全てがちょうどよかった。1時間ほどでエステは終了し、シャンプーブースへ移動してヘッドマッサージへ。「ひどいスマホ首ね」そう言いながら首をぐりぐりと押される。左側を押されると声が出るほどに痛い。「痛い」と声に出して言うと、おばあちゃんは笑って、そこから会話を繋ぐようになった。


「毛先痛んでるけど、若い時は色々やりたいもんな」

ばりばりの関西弁だった。柔らかい発音が私の体に馴染んでいく。ブリーチで傷んだ毛先も、むくんだ丸顔も、荒れた肌も、否定せず、指摘せず、受け入れてくれた。

「すきなようにやったらいいねん。すきなこと、なんでもやり」

私は少し困ってしまい、一番の疑問を投げかけた。

「すきなことが見つからない時はどうしたらいいですか?」

おばあちゃんは即答する。

「本を読みなさい。それでやってみたいって思ったこと、全部やったらいい。失敗しても、別にいいねん」


「考えたらあかん。考えても、しゃあないやろ。考えても一緒やから」

明るく言い切るおばあちゃんに、私は声を出して笑った。確かに考えてもしゃあない。考えても一緒や。いっつも悩むことは同じな気がする。ぐるぐるぐるぐる、同じところを回ってんねん。どうしたらいいんやろ。どうしたら抜け出せるんやろう。考えている間に、こんなところまで来てもうた。


今はもう居ない私の祖父母は関西出身だったので、何年振りかに脳内が関西弁になった。もう長い間、聞いていない方言だった。私が愛し、私を愛してくれた柔らかい発音。


ヘッドマッサージに涙目になる私が「やりたいことはありますか?」と訊くと、「もう全部やった!」と言われた。あっぱれ、と口をついて出そうだった。なんて素敵な人生なんだろう、と焦がれた。おばあちゃんは続けて言う。

「七十八歳になったら、やめよ思てんねん」

私は驚いて訊く。

「まだ働くんですか!毎日毎日、疲れませんか」

またしても明朗快活に答える。

「すきなことやから、疲れへん」


すきなことをやり。一回きりの人生やから。

私は泣きそうになったけど堪えた。すきなことをやってもいいんや。そうやって生きてもいいんや。当たり前で大切なことを、なぜか失ってしまっていたのだ。


会計を終わらせるとおばあちゃんは言う。

また悩みがあったらおいで。1,000円のコースもあるからな、今度はそれにしたらいい。雨も止んだよ。



外を見たら、真っ黒な世界の中で地面が濡れていた。雨が降っていたことも知らなかった。通り雨やったらしい。なにかをやって過ごしていれば、知らんうちに雨が降って、知らんうちに止んでいる。

雨を見ることも大事やし、「あ、降ってたんや」って、あとで気づいても全然いい。私はいつも、雨を見逃さないように必死になっていた。でも別に、そんな必死になる必要はない。私は、いつもいつも考えすぎてしまう頭や心に言ってあげた。考えてもしゃあない。すきなことをやろう、と。


帰り道、少し歩こうとつやつやのすっぴんのまま外を歩いた。切れていた洗剤を買おうと薬局に寄ると、たまたまポイント5倍デー。ラッキー。

今はこれだけで、ちょっと幸せな水曜日の夜。



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