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落ち込んだ時に正論はいらない


昼間は学校という特殊な閉鎖空間で「先生」と呼ばれる私。

まさか自分が「先生」と呼ばれる人生を歩むとは夢にも見なかった。でもいつの間にか、その呼び名で声を掛けられると反射的に振り返る自分が居た。


先生。

先を生きる。


私は立派な人間なんかじゃないけれど、確かにあなたたちより「先を生きてはいる」と思う。こちらは安全な道ですよ、あちらは落とし穴がありますよ、先を歩いて、彼らを先導する。わざと落とし穴の方向へ見送ることもある。一度自分の目で見てらっしゃい。安全な道を歩くことだけが、人生ではないから。安全な道を勧めることだけが、「先生」ではないから。

ただし再起不能になるような出来事に苛まれたなら、話は別だ。かわいい生徒らが落とし穴がある危険な道を武装無しで歩いてしまった場合には、遠くから見守り、自分で穴から這い上がれないのならロープを渡す。大丈夫だから、そこから上がっておいで、と。


ある日 生徒の元気がなかった。

次の日もその次の日も。

生きていればそんなこともある。でもその生徒には珍しいことだったから声をかけた。この時、彼女はオープンスペースでの会話は望まず、クローズスペースである個室で話すことを望んだ。この時点で違和感を覚えた。話したいこと、聞いてほしいことが山ほどあるんだろうと察した。

夕暮れの教室でふたりきり、話を聞くと彼女は泣き出してしまった。この仕事をしていると、生徒の涙を見ることは ままある。だからそこには驚かない。ただ気になったのは話の序盤から泣き出したこと。パンク寸前、すぐにそう思った。

支離滅裂な会話の中で導き出したのは複数の原因による心の病気だった。眠れない、笑えない、泣きたい。

彼女は人一倍 努力家だった。「テストの点数」というくだらない指標で見るならクラストップだった。だけど彼女が本当に素晴らしいのはテストで100点を取れることなんかじゃない。高いユーモアセンスでクラスメイトに愛されていること、人の気持ちに寄り添えること、なりたい自分に向かって惜しまない努力。
人の優れている点なんて、いつも目に見えない。目に見えないから比べられない。だから若い生徒らは、自分の本当に素晴らしいことに気づかない。大人が目に見えるものでしか順位付けをしないからだ。

涙が止まらない彼女と2時間話した。私の言葉に頷くこともあったし、頷かないこともあった。こういう時、どうすれば心をラクにしてあげられるだろう、と考える。私は精神科医でもカウンセラーでもない。だから相手の反応を見て言葉を選ぶしかない。

自分だって落ち込むことはあるのに、皮肉なもんで、そんな時に掛けてほしい言葉は忘れてしまう。

彼女は頭がよかった。だから正論めいた言葉も使った。頷かない。
苦しみに寄り添うような綺麗事めいた言葉も使った。もちろん頷かない。
綺麗事はほんとに役立たない。こういう時、痛感するし、綺麗事ばかり言う同職の大人にはうんざりする。そんな言葉が聞きたいわけじゃないだろう。そう思うのに、私だって こういう時 生徒にそういった言葉をつい使ってしまう。

結局、彼女に響いたのは熱烈な励ましだった。

あなたは頑張らなくてもいい。頑張らなくてもあなたには価値がある。ただそこに居るだけで、あなたがただここに居るだけで、あなたは100点です。


これは綺麗事じゃない。だって、私のこの言葉に嘘はないから。母親がテストの点数にこだわったって、他の先生が出席率にこだわったって、そんなこと関係ない。あなたが泣いている方が、あなたの母親は悲しむ。


驚いたことに彼女は「本当ですか?」と私に問うた。心の底から「母親はテストで100点をたたき出す自分」を愛しているのだと信じている様子だった。そんなばかな話、あるかいな。百歩譲って本当にあなたの母親がそう思っていたとしよう。100点をとるあなたを愛し、0点をとるあなたを愛さない。そんな親だったとしよう。そんなもん、くそくらえだ。私は彼女の親ではない。でも私は彼女の「先生」だ。

「頑張ること」を否定したいのではない。「頑張り続けたから、少し疲れちゃいました」を肯定したい。ただそれだけのことだった。


社会人になって5年、私もずいぶんと落ち込んだことがあった。もう働けない、働けないということは社会生活が営めない、社会で生きていけないのならそれはもはや死すること。生きていても仕方ないのではないか。そう思い詰めた日もあった。だけど死なない。まだ死ねない。幾度となくそれを繰り返す。それが今の社会で生きていくということなのかも、とも思う。


「自分が弱かっただけ」だと思う。だから弱いだけの過去を封じ込めた。しにたい、そう思ったことは恥ずるべきことだとなんとなく思った。

でも今の仕事では「弱かった自分」が居てよかったと思う。想像するのと、体験を話すのとは違うから。弱かったからこそ見た景色があるから、生徒らの話に頷いてやることができる。「ゆとり世代の先生」も捨てたもんじゃないな、と思う。


日々 10代の彼らに接していると、「大人」という生き物を毛嫌いした視線を感じることもある。大人というだけで拒絶反応を示す生徒の多いこと。


先日MIU404というドラマを観ていたら、こんなセリフがあった。

変な大人はたくさん居る。
でも、ちゃんとした大人も居る。


全くもってその通りだと思う。きっと大人に拒絶反応を示す彼らは、これまで変な大人に巡り会ってきたせいで、「分かってくれない」と諦めることで楽になってきたんだろうな。

会社という組織で働いていても同じこと。「上司は結局分かってくれない」と、割り切った方が楽だもん。

でも分かってくれる上司も居る。場合によっては「分からせる」ことだって部下にはできる。

だから苦しくてもどうか「分かってくれる人」にいつか巡り会ってほしいし、私は生徒らにとってそういう大人で居たい。


人が落ち込んでいる時に正論なんかいらない。キレイな言葉を振りかざすだけの、つまらない大人は放っておこう。最初から全てを決めつけるのではなくて、「そうだよね」と一度は受け止めてやれる人になろう。たぶん、それが大人だし、私がなりたい「先生」なのだし。



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