Episode 099 「青春時代とは、いったい何だったのか」
青春時代とは、恐らく男女問わず、冷静に振り返ると、「バカだったなぁ・・・」と誰しもが感じる時期だと思われ、また自分自身も勿論例外ではない。「青春時代にやらかしたバカなこと」というタイトルだけでも数冊の本が書ける自信があるくらい、(今振り返って思うと)バカなことをやった。ただ、タチが悪いのは、その当時は「馬鹿なことをやっている」という意識が無いのである。
尚、「青春」とは春を表す言葉、との事である。古代中国の五行思想に基づくと、「春」は「青春(せいしゅん)」、夏は「朱夏(しゅか)」、秋は「白秋(はくしゅう)」、冬を「玄冬(げんとう)」といったらしい。幼少期はまだ人として芽吹く前の冬であり「玄冬」。若々しく、これからの未来に希望を膨らませ、成長しつづける時期は「青春」。世の中で中心的な役割を果たし、バイタリティあふれる活躍を見せる現役世代が「朱夏」の時期。最後の「白秋」は老年期で、人として穏やかな空気やたたずまいを見せ、人生の実りを楽しむ期間、とのこと。
確かに、青春時代とは、或いは大人になって振り返ると、「何をやっていたんだ(当時の)私は・・・」と言ったような考え方もしてしまいがちだが、同時に、この上なく楽しい時間であったことも事実である。
バカなこと(控えめに言っても、相当)はしたが、圧倒的な楽しさがそこにはあった。そして、ここで重要な点は、上記にて述べた様に、当本人からすると(当時は)至って真面目(つまり、馬鹿なことをしているという自覚はなかった)だった、という点である。
つまり、過去を振り返って初めて「バカだったなぁ」と感じるだけであり、当時から「自分はバカなことをやっている」なんていう感覚は全くないのである。
ここで、思い出されるの数多くのバカなことシリーズの中から、二つストーリーをシェアさせていただきたい。一つ目は、「マイヤーの乱」、二つ目は「服に挟まれて」というタイトルでお伝えしたい。
マイヤー(Myer)とは、アデレードのランドルモールというショッピング街のメインストリートに位置するデパートである。Episode072にて触れた、デパートだ。
このデパートの地下で、そのインシデントは起こった。あれは、私が16歳の時の事だった。オーストラリアに渡り約4年が経った頃であり、英語にも慣れて来て、また、ハイスクールにも慣れてきた時期であった。つまり、正に調子に乗っていた時期であった。
16歳の私は一つ年下のショーナ(仮名)というオーストラリア人の女の子と付き合い始めたのだった。そんな中、エイミー(仮名)というカナダ人の女の子と知り合ったのだ(エイミーは私の二つ上の18歳であった。尚、この年代(10代)における二歳の差とは、例えば二十歳や三十歳を過ぎてからの二歳差のそれとは大きく異なる意味合いを持つ)。
つまり、ショーナと付き合っていながら、エイミーと遊んでいたのである。また、今から考えると(果てしなく)下らないことなのだが、ショーナからの連絡を無視してまで、エイミーと会っていたのだ。尚、当時は携帯電話も所持しておらず、連絡は家の電話で行っていた。
従って、家族のメンバー(とは言いつつ、電話に出るのは大概姉または妹だった)にも、「もし、ショーナという子から連絡があっても、(私は)家にいない、とだけ伝えてほしい」とまで言っていた様に記憶する。
とある週末、エイミーとデートをした。昼時になり、マイヤーの地下にあるフードコートにてランチをすることになった。ケンタッキーを食べようということになり、カウンターにて注文をした。
注文を行い間もなく、注文したセットがトレイに乗せられて手渡された。支払いを済ませ、カウンター越しにそのトレイを受け取り、振り返ったその瞬間、なんとショーナが目に飛び込んできた。
あまりにも突然の出来事であった為、その状況をうまく理解できなかった。しかし、確かに、そこにはショーナが数人の女の子達と一緒に座っていたのだ。「やばい・・・目が合ってしまったかも・・・」、そう思った。しかしながら、動揺した姿を、何も知らずにいるエイミーに見せるわけにはいかない。
平然を装い、可能な限りショーナ達がいたテーブルから離れたテーブルにトレイと共に歩いていき、着席した。もちろん、アデレードは東京に比べ、そのサイズ(人口という観点)は比較するまでにも至らないが、それでも100万人越え(当時)の街ではある。
従って、街中で偶然誰かに遭遇する、という確率は決して高くないはずであった。しかし、目撃してしまったのだ。兎にも角にも、その瞬間は可能な限りシェーナから離れて遠くへ行きたい気持ちでいっぱいだった。
しかしながら、両手にはケンタッキーで注文したセットが乗っているトレイがあり、また、エイミーとは楽しいデート中のはずだったので、当然逃げ出すことは出来ない状態であった。混乱する状態でいながらも、とりあえず、ショーナ達から離れたテーブルに着席したのだった。
緊張した状態で食べたケンタッキーは全く味がしなかった。席にはついたものの、頭の中では「どうしよう・・・!」と繰り返し、明らかに動揺していた。
そんな状態でとりあえず購入したチキンを食べていたのだが、とうとうショーナは私のテーブルに来ることはなかった。「助かった!」と、そう確信した。無事ランチを食べ終え、席を立った。ただただ運が良かった様だ。おそらくショーナの視界には私は入っていなかったのだ。
しかし、物事そう単純では無い。やはりマーフィーの法則ではないが、「悪い結果が出る可能性があることは、いつか必ず実際に悪いことが起こる」という事も間違っていないな、と身を持って思い知る事になったのだ。
席を立ち、数十メートル進んだその時、突然、全くの前ぶりも無く腕を掴まれた。そして、前に進めなくなった。そう、歩行中に(どこかに)洋服の一部が引っかかり、グイッと後ろに引っ張られる様に。
「ちょっと?!・・・何してるの?」とショーナ。一気に血の気が引いた。言葉の比喩、ではなく、実際に血の気が引くのが明らかに体感できることもあるのである。「連絡ずっとしてたのに、全く返事ないし・・・」とショーナは続けた。
「えーっと・・・・・」と私。瞬時に状況を理解し、無言のエイミー。泣きだすショーナ。この上ないアホ面でそこに立つ、東洋人の私。その状況を横目で面白おかしく見ながら歩いていく周りの人々。
謎の東洋人(=私)が、一人の白人の女の子を泣かせ、もう一人の白人の女の子を呆れ果てさせている。最低以外のなにものでも無い。そして、この上なく、カッコ悪い。ダサすぎる。
これがマイヤーの乱である。2000年の事だった。言うまでもないが、ショーナそしてエイミーの両者にフラれると言う結果になった。当たり前である。バカの極み、である。浮気なんて、するものではない、とそう(身を持って痛い目に遭う形で)学んだのだった。
二つ目にシェアさせていただきたい「服に挟まれて」に関しても、確か、2000年近辺に起こった出来事だった。当時付き合っていた彼女、ナタリー(仮名)の家に遊びに行った時の話である。
「両親が出掛けているから家に遊びにおいで」とのことであった。そう、こんな映画の様な、漫画の様な、都合の良いセリフが世の中に実際に存在したりするらしい。青春時代真っ只中の、あまりにも健康な男子、そりゃあ「もちろん」以外の答えを持ち合わせていなかった。
家に着くなり映画を見ていたのだが、この場合における「映画を見る」とは、「形式的にDVDを用意し、映画をテレビに映し出しているだけ」である。もちろん集中して見ていないのである。「Netflix and Chill」なんていうスラングも当時は存在しなかった。
今でも明確に憶えているのだが、それは寒い冬の日であった。暖炉にはオレンジの炎が揺らめいていた。服のレイヤーがお互い、一枚ずつ薄くなっていき、パンツ一丁になったその瞬間、ナタリーの携帯が鳴った。
電話に出るナタリー。「オッケー、了解」と言って彼女は電話を切ったのだが、その次の瞬間、「隠れて!」と言い放った。どうやら、彼女の父親が家のそばまで来ているとのことだった。
先ず、どの角度からどう考えても「オッケー」ではない。「オッケー」な要素は一つも、また微塵も感じられなかった。しかしながらそんなことも言っている暇もない。慌てて、靴及びパンツ以外の洋服をかき集めナタリーの部屋に急いだ。
「とりあえず、ここに隠れて!」と言われて入ったのはクローゼットだった。1分もしないうちに、玄関のドアが開くのが聞こえた。
「ちょっと忘れ物をして取りに来た」とナタリーの父親。もちろん、会ったこともない。この時初めて(二人の会話の)声だけがクローゼットの中にいる私に届いた。
「一人で留守番は大丈夫か?」と続くナタリーの父親。独特な、年配の男性の声である。その様子を、隣の部屋のクローゼットにて片手には靴、もう片手には服を抱え、息を殺して、気配だけで感じていた私。そう、洋服に挟まれて。結局、ナタリーの父親は約10分ほど家にいたのである。非常に長く感じる10分であった。
アインシュタインはやはり正しかった。時間は伸び縮みをする。この10分は、通常のそれ(10分)より遥かに長かった。幸いなことに、それ以来、一度としてパンツ一丁でクローゼットにて服に挟まれながら息を殺さなければならない状況は起こらなかった。
この状況、後にランダムなタイミングで思い出す事になった。そう、村上春樹作「騎士団長殺し」を読んでいた時だった。免色(めんしき)の家に忍び込んだ秋川まりえが、クローゼットの中に隠れて「イフク(衣服)」を片手で(それが命綱であるかの様に)掴みながら隠れていたシチュエーションの部分を読んだ際に、思い出したのだった。
この様に、過去を振り返ってみると本当に青春とは一体全体何なのかと思う事もあるが、この「カオス感」がある青春も全くもって悪くなかったと、今ではつくづく感じる。
青春関連でもう一つ、「誤った葉っぱの選択」というエピソードを手短にシェアさせて頂きたい。(まだあんのかい)
オーストラリアに渡り間もない頃(Episode001参照)の話なので、おそらく1996年の9月の終わり頃または10月ごろの話である。かれこれ28年(2024年現時点)も前の話の為、具体的にどういった経緯でその場にいたのかは、今となっては思い出せないのだが、とある森林公園に居た。
確か、妹もいたと記憶する。明確に憶えているのは、二点。①便意に襲われたこと、②ティッシュを携帯していなかったこと。
詳細をここで説明するのは控えたいと思うが、結論を述べると、つまり、公衆トイレが近くになかったことから、もちろん意には反していたが、その場で用を足す以外の選択肢が存在しなかった。これはもう、それ以外の選択肢が無かった。齢12の少年(=当時の私)は、正にパニック状態であった。やばい、漏れる、と。
用を足す事が済んだ際、もちろんそのまま立ち去ることはできなかった。何らかの形で、「クリーニング」が行われる必要があった。周りを見回した末、(そして、大いに困惑しながら)一枚の葉っぱに手を伸ばした。それ以外の選択肢が無かった。齢12の少年(=当時の私)は、正にパニック状態であった。やばい、拭かないとパンツ履けない、と。
翌日、身体の「とある部分」が歩く際、また座る際に違和感を覚えた。そう、誤った葉っぱを選択してしまったのである。今後、何らかの形で(例えば急に便意に襲われ、どうしてもトイレが見当たらない場合など含む)葉っぱを代用する必要性があった場合においては、是非「適切な葉っぱ」を選択することを強くお勧めする。グッドラック。
私の「青春」の多くが詰まっていると言っても過言ではないアデレードハイスクールには、計5年通った。
最初の1、2年(8年生及び9年生、つまり日本で言うところの中学2年生及び3年生)は正直学校生活を楽しむ余裕などなかった。少しずつ余裕が出てきたのは10年生に入ってからであった。10年生から12年生までの三年間は非常に充実していた。
この様に、緊張したり、慣れてき調子にのったりと様々な状況を経て過ごしたこの5年間は、おそらく最も色々な事を吸収し、また経験し、良くも悪くもその後の人生に大きな影響を与えた時間(5年間)だったのかもしれない。
また、ほぼ毎日何かしら新しい事に触れていたに違いない。この5年間における「初めての〇〇」の数はきっと、現在の私が想像するより多いかもしれない。初めて魂が震える程音楽の魅力に触れた事、初めて世界の広さを痛感したこと、初めて(日本を離れていることで)日本の良さを実感したこと、などなど。
無事、アデレードハイスクールを卒業し、その後、大学へと進む事となる。
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