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Episode 080 「理論的に説明がつかないものが持つ色気」

アデレードハイスクール時代の話(放課後における街の図書館での話(Episode079参照)にて、図書館がいかに好きだったか、という話に触れた。尚、本に囲まれるという状態は、今の2024年になっても変わらず好きで、その様な理由から電子書籍より圧倒的に従来の本、つまり質量を持った、紙の本が好きである。

ここ数年で最も興味深かった本の一例(その1)
ここ数年で最も興味深かった本の一例(その2)

特に電子書籍を否定するつもりはない。たまたま、従来の紙の本が好き、というまでである。また、従来の紙の本が好きな理由の一つに、「自分以外の誰かが、手軽に、それら本を手に取る事が出来る」というポイントは大きい。つまり、私自身が父親の部屋にあった数々の本を手に取ったように。

もちろん、私自身も本がある家に育ったのは確かだが、些かそのジャンルに偏り(ビジネス本などの、ノン・フィクション)が見られた為、例えばカズオイシグロや村上春樹の小説などの、いわゆるフィクションの本、などは全く存在しなかった。

今ごろ?感は否めないが、読み始めた。

本を読み始めたのはいつのことだったかと思い出そうとしてみたが、明確には憶えていない。恐らく家にあった父親の本に影響された、が正しいかと思われる。(Episode077にて軽く触れた様に)主にビジネス本(大前研一や武村健一の本など)に興味があり、色々と読みふけていた。また、学校ではもちろんすべてが英語であった為、自分の日本語(漢字など)の勉強の為にも出来るだけ日本語の本を読むことにしていた。

オーストラリア在住中は日本に数年に一度(短期的に)は戻っていたので、その際には何冊もまとめて本を買うようにしていた。ほぼ100%の確率でノンフィクションの本を購入していた。ビジネス本であったり、伝記であったり、啓蒙系の本であったり。フィクションには、何故か全く興味がなかった。おそらく、或いは視野が狭かった為「ノンフィクション(≒リアル)>フィクション」的な思考があったのかもしれない。つまり、「リアルな方が偉い」的な、閉鎖的な考え方だったのかもしれない。

そんな中、二十歳のタイミング(2004年)でたまたま日本に帰ってきていた時に人生初のフィクションを自分で購入する事になったのだ。尚、購入することになった、という言い方をしているのには理由がある。本を購入することになったその日に関しては、特に本を買う目的ではなかったのだが、結果的にみて購入することになった、のだった。

埼玉県は浦和駅西口周辺の、とある小さな書店に入った時の事だった。特にその書店を目当てにその場所に行ったわけではなく、たまたまそのお店の前を通り掛かり、何気なく(そう、何気なく綺麗な花が視界に入ってきて、その花に見入るような感覚)入ってみた程度の事だった。お世辞にも繁盛している様子はなく、お店の中にお客さんが居たのかすら憶えていない。

そうそう、この通り。

味気ないこの書店で「ノルウェイの森」と書かれた二冊の本が目に止まった。上巻と下巻に分かれていた。上巻は赤いカバー、下巻は緑のカバーであった。因みに、この小説の中に出てくる主人公の一人は(特に、なんの関連性も無いとは思うが)緑(ミドリ)という名前である。この「ノルウェイの森」という小説が、記念すべき初めて購入した小説(つまりフィクション)となった。この小説を読んだ時は、まさか自分がこの先、村上春樹の作品を(控えめに言っても)ほぼ全て(小説はもちろんのこと、エッセイ本も全て。併せて村上春樹が翻訳した小説も多く)読むまでこの人の小説にのめり込むことになるとは想像もしていなかった。

そうそう、これこれ。

尚、この時目に止まった「ノルウェイの森」については、作者が村上春樹だという事には気づかずに購入した(または、気付いていたかもしれない。今では思い出せない)。もちろん、村上春樹という存在は知っていた。二番目の姉がハルキムラカミ(つまり、村上春樹の原作が英語の翻訳されたもの)の本を所有しており、部屋にあったからである。

確か、こんな表紙だった様に記憶する。

この小説を皮切りに、ノンフィクションやビジネス本だけではなく、その後小説も併せて読む様になった。しかしながら、本格的に小説を更に読む様になったのはオーストラリアを離れ、日本に来た2010年頃からである。ノルウェイの森に続き、村上春樹の作品で次に購入したのは確か、「海辺のカフカ」と記憶する。

そうそう、これこれ。

とある週末、イオンモールの様な大きい施設の中にある本屋にて購入した。スーパーで購入したびっくりするくらい安いカステラ(でもしっかりと美味しかったのだ)を食べながら、併せてコーヒーも飲みながら読書をするのが好きだった。まるで、脳みそが幸福という感情以外を全て無くしてしまったかのように、幸せに満ちた状態になる。

そうそう、こんな感じの安い(否、正しくは激安だ)カステラ。でも、美味しかった。

尚、音楽でも、小説を読むのでも似たような感覚なのだが、好きなミュージシャンまたは作家を発見した(または出会った)時の歓びとは、2つの嬉しさ、具体的には2段階の嬉しさ、が存在する。

先ずは、純粋にそのミュージシャンまたは作家に出会った事に対する嬉しさ。そして、もう一つ(または、2段階目の)嬉しさとは、このミュージシャン(または作家)の他の作品を楽しむ事が出来るという確信を得た時の歓びである。つまり、「このミュージシャンは、このアルバム(つまり初めてこのミュージシャンを知るきっかけとなったアルバム)以外に過去に⚪︎枚にも及ぶアルバムを発表しているのか!という事は、この歓びはまだまだ続くんだ!」という感情に包まれ、少し先の事を想像するだけで、ワクワクするのだ。そう、子供の頃に、次の日は学校が休み、と分かっている土曜日の午後に感じたあの感覚に少し似ている。(僕が小学生だった1991年〜1996年の当時はまだ、土曜日に学校に行っていた)

もちろん、村上春樹も例外ではなかった。「海辺のカフカ」を読み始めたタイミングあたりでこの人の作品について色々と調べていく中で、過去に発表した作品の数々を知る事でワクワクが止まらなかった。つまり、作品の多さが私の中でのワクワク度合いに比例していた。「“海辺のカフカ”を読み終わっても、この先⚪︎回(作品の数だけ)もワクワクが待っているんだ!」と想像しただけで嬉しさがこみ上げた。

「長編がこんなに!」という具合に。
「中編もこんなに!」という具合に。

この様にして、様々な村上春樹の作品を読み進め、長編の作品は全て読み、短編集も全て読み、エッセイ本もほぼ全て読むまで村上春樹の作品を(現在進行形で)好んでいる。先に述べたよう、村上春樹が翻訳をした海外の小説なども読んでいる。

このリストに本は全て読んでいる。改めてこの人の作品が好きなんだと自覚する。

音楽でも同様(Episode026参照)なのだか、自分が好きになったアーティスト自身が影響を受けたアーティストについても掘り下げていく作業が好きなのだが、小説家についても同じである。

従って、村上春樹という小説家が好む小説家とはどんな小説家なのだろうかと非常に興味がある。村上春樹本人曰く、彼が影響を受けた作家として、Raymond Chandler(レイモンド・チャンドラー)、Truman Capote(トルーマン・カポーティ)、Francis Scott Key Fitzgerald(F・スコット・フィッツジェラルド)、Raymond Carver(レイモンド・カーヴァー)、Tim O’Brien(ティム・オブライエン)などを挙げている。彼がどの様な影響を受けて、またどの様に小説を書くに至ったのかが分かる内容は、彼の「職業としての小説家」(2015年発行)という本で詳しく読むことができる。

そうそう、これこれ。

尚、村上春樹の場合は彼自身が「好きな作品」を翻訳すると言っていたのを、別の本で読んだことがあったので、それからというもの彼が翻訳した小説を読むことで、正にこの人が好んでいる小説家であったり、好んでいる作品を確かめることが可能になった。ちなみに、「ハルキスト」という言葉が存在することについては、ここ6、7年前まで(2024年現時点)知らなかった。

過去に数回起こったことなのだが、誰かと会話をしている時、趣味の話になった際に(幾つかある趣味の内の一つとして)「読書」という発言をしてきた。多くの場合、具体的にどんなジャンルの本を読むのか、と訊かれたので、「色んなジャンルを読むが、小説だと、例えば村上春樹の作品は好きです」と答えた時に、「うわ~‥‥出たハルキスト」と、まるで自分の嫌いな食べ物が目の前に出された時にする様な表情で言われたり、あるいは、「あ~、あの人の小説全く意味不明だよね」などと、彼ら彼女らの反応は、多くの場合ポジティブである時よりネガティブである確率の方が高い気がしてならない。

まぁ、ここまであからさまなではないが。

尚、念の為に「ハルキスト」という言葉をネットで調べてみると、その定義は「村上春樹の熱狂的なファンを指す俗称」とある。この定義からすると、私は別にハルキストでもなんでもない。なぜなら、あくまでも、結果的に、質の高いと個人的に感じた作品(小説、エッセイ等)の多くがたまたま村上春樹の作品だった、というだけの話だからである(つまり、好んで食べていた豚肉が、たまたまカナダ産であったに過ぎず、特に初めからカナダ産の豚肉を買い求めたわけではない、という事と変わりはない)。

従って、あくまでも「村上春樹の作品」を個人的に好んでいるだけであり、別に「村上春樹という人間のファン」ということではない(もちろん、村上春樹には実際に会ったこともないし、話したこともない為、人間としてどのような人なのかは全くわからない)。

しかしながら、一つ告白しなければならないのは、村上春樹が「人生で最も影響を受けた小説3作」の全てを購入した(その中の2作(ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」(2020年5月6日完読)及びレイモンド・チャンドラーの「ロング・グッドバイ」(2020年初期完読)は完読した。購入したがまだ読めていないのはスコット・フィッツジェラルドの「グレート・ギャッツビー」である)という事実に関しては、確かに、村上春樹に影響を受けた行動であると言える。

村上春樹曰く「世の中には2つのタイプの人間が存在する。一つは、カラマーゾフの兄弟を読破した人たち。もう一つは、してない人たち」。

小説を読み始める以前は、俄然ノンフィクションの本やビジネス本ばかりを読んでいた。もちろん、これらの本からは実践的な事を学ぶことも多く、現在も進行形で読んではいるが、フィクションの本を読み始めてから強く感じる様になったのは、そのセレンディピティ(Serendipity)に対する遭遇率である。

フィクションを読み始めてからのSerendipityに対する遭遇率は高めである。

このセレンディピティの重要性については、世界で最も賢い人達が集まっているであろうMIT Media Labの元所長であったJoi Ito(伊藤穣一)も語っているので興味がある方は調べていただく事を強くお勧めするが、簡単に説明すると、つまりSerendipityとはズバリ、「偶然性」である。そう、偶然性とは、即ち、理論的に説明がつかないものも多く含まれている。

オバマと対談するJoi氏。色々あったが、なんやかんやでこの人は日本だけでなく世界のデジタルをリードする一人であるのは間違いない。ちょっと次元が違う凄さ。

尚、なぜこのSerendipityに感心があるかというと、世界で最先端のテクノロジーを生み出している、いわゆる、「サイエンス的」アプローチを主に世界を動かす様なイノベーションを生み出しているMIT Media Labという、一見、非サイエンス的要素とは程遠いかと思われる機関のトップにいる様な人がその重要性を説いているからであり、それに私も激しく同意しているから、である。

年齢を重ねるに連れ、「理論的に説明がつかないものもが持つ色気」的な何かに対し興味が更に湧いてきている。

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