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⭐幻想(観念)の多次元性について(共同幻想論を読んだ頃 覚書 3)


 共同幻想論が上梓されたのは、1968年12月、言語にとって美とはなにか が、1965年の上梓であるからこの約3年後に、のちに三部作(三冊目は、心的現象論)と呼ばれた二冊目となるこの思想書の刊行であった。時は70年安保の直前、世の中は、革命的に騒がしかった。70年安保の改定延長を阻止しようとして、新左翼の論客たちが、当時の言論の世界をにぎわせていた。この頃の吉本隆明は、政治的なデモや座り込みをするくらいなら昼寝をしていたほうが、ましだ、と公言してはばからなかった。1960年安保の左翼陣営の敗北の意味を一心にまた一身に引き受けたのは、おそらく彼と極めて少数のものたちであったことが、ぼくは後にわかったが、その敗北を引き受けたことが、吉本隆明の思想的著作三部作に結実したのである。ご存じのように1970年に三島由紀夫が、市ヶ谷の自衛隊駐屯地で、自衛隊に決起を促し、腹心森田何某の介錯で、ぬるま湯の世間の肝胆を寒からしめた。右も左もここは敗北必死であることが、わかるものにはわかっていたはずだ。そのあとの妙義山連合赤軍の内ゲバ的なリンチ事件から一連の浅間山荘事件(1972年)までで、当時のロシアマルクス主義の思想的自滅を象徴する大団円が訪れ、奇妙でどこか悲しい馬鹿馬鹿しさを伴った、不具な政治の季節がようやく終わりをつげようとしていた。ぼくらが共同幻想論に出会ったのは、少なくともそれから数年後のことである。共同幻想論は、人間の観念の世界(意識の内包)を初めて多次元的にとらえ、理論化したものと言ってよいだろう。ぼくらの意識は、自己幻想、対幻想、共同幻想という三つの様相として現れると考え、今までのっぺらぼうに見えた観念の世界を初めて立体的なものとして、とらえてみせた。自己幻想は、個人としての意識、対幻想は、ペアとなった時に現れる意識である。このときの人の意識は、必ず男性性か女性性として現出する、端的に言えば性を媒介として現れる意識を指す、と言ってよいだろう。ここでは恋人や夫婦だけでなく親子、兄弟を含む家族の中での心のある状態までを、現実的な現れ方として、想定することができる。一例を上げれば男の乳児の意識は、生物的な性が男性であっても、母との心的な関係の中では、必ず女性性として現れる。母の乳房は男根であり、乳児は口唇でそれを受け入れるのである。最後に共同幻想は、三人以上の関係の中で現れる意識の在り方を指している。わたしたちは、自らの桎梏を自らが作り得る存在である。国家や法の本質が幻想の共同性の現実的な現れであると言えば、わかっていただけるだろうか? また、幻想の共同性のなかの個人は、意識が身体のように、身体が意識のような、逆立した構造として、わたしたちの観念に現れ、そのように感じられる。
 思想的に言えば、マルクス主義の中の最も悪いプロパガンダが、下部構造が上部構造を規定する という概念だった。このつまらない唯物(ただもの)論が、文学、思想を冷たい腐臭のただよう箱の中に閉じ込め、真実を隠蔽した。現在でもまだこの環境決定論が、新しい装いで亡霊のように現れるのを見かけることがあるが、もはやその命脈を繋ぐ契機は、どこにもない。
 共同幻想論は、この唯物論にストップをかけただけでなく、新たな次の社会への扉を開く、おそらく当時の左翼思想の最良の果実であったことが、現在誰の目にも明らかになりつつある。
社会環境という下部構造は、下部構造として独立した次元として扱えるように、上部構造としての幻想(観念)領域も、同じように独立した次元のものとして扱うことができる、ということを、原理的に明確にしたと言ってよい。また、この思想的書物は、疎外という概念を媒介にして、(具体的には兄妹、姉弟の関係性を梃子にして)家族が親族へ、そして部族として世界に広がっていった人類史の重要な遷移の一場面を、大変リアルに描くことに成功した、おそらく最初の歴史文化論の試みと言ってよいだろう。言語にとって美とはなにか が、書かれたことによって世界思想は、幾ばくかの進展をみせ、さらに共同幻想論、心的現象論などの副産物を産み出したというのが、私などの見方であるが、吉本隆明は、構造という概念を日本思想の中に原理として、具体的な理論として生成した、かのミシェル フーコーと肩を並べる思想哲学部門の世界ランカーである、と言っても過言ではないのである。ヘーゲルの思想の骨格と基本原理を根底において出発した構造主義の系譜に連なる、吉本隆明の思想は、まだ真の意味で誰にも完全に咀嚼され、語られてはいない。
 これがわたしたちの将来に残された、わずかな希望であることは、わたしには自明な事実と思えてならないのである。
             (この項了)

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