Nico

日常の中で思い出す、おじいちゃんとおばあちゃんの面影を、日々の出来事とともに記録する私…

Nico

日常の中で思い出す、おじいちゃんとおばあちゃんの面影を、日々の出来事とともに記録する私のための『ノート』。

最近の記事

だからって

って事はたくさんあるものです 最近は 感情がセンシティブなのか いろんな瞬間にいろんなこと受け取っている私の ただの備忘録 未来の自分が これを見て何かを思い出すきっかけになれば そう思って残しておくうちのひとつ 東日本大震災から11年 あっという間の11年でもあり 重い石を積み重ね続けたかのような11年でも あったかもしれない 今年から追悼式が開催されなくなる地域もある 時代の流れ 人の流れ ウイルスの流れ 色々あるしね 追悼式がなくなるからって 出来事は消えることは

    • 鏡よ顧みよ鑑さん

      人によって読み方が違うんだろうなぁって 想像するだけでわくわくする ちょっと奇妙な今日のタイトルと それに萌えるわたしが案外と好きですね。 ふふふ 小さなころから字を書くのが好きでね 人が字を書いているのを見ているのも 自分に向けられて書かれた字を眺めているのも好き。 そして漢字と言うもんが好きなんですね~ もちろん、 読めない、書けないものは大量にございますが。 小さいころに 字から想像してみーだかね(みなさいまし) って愛するおばぁが言っていて 小学校2年生で 何

      • 障子の三段目

        あけましておめでとうございます。 いつの話か! と聞こえそうですが良いのです。 ご挨拶ですものね。 新年と言う区切りだけでなく、 一日と言う区切りをもってすれば 今日と言う日が明けまして、おめでとうございます! って 言うのもありなのではないか そう捉えるとなんて毎日がめでたいのか。 先日まで 我が家に愛しの母君が遊びに来ていてね 我が愛しの母君はシンデレラ気質を多方面に提供する かわいらしい人なのだが 愛する祖父母(シンデレラからすると両親)の話をしていた時に 『私はお

        • スペースを失うこと、と平和と。

          思考が行きついた先。 忘れないように、覚書。 大切な人が死ぬということ。 大好きな人が死ぬということ。 亡くなった人をとても愛していたということ。 亡くなった人を想うと、 とても好きだったと実感すること。 さまざま。 捉え方、考え方としての 肉体の死 物体がなくなるという視点。 存在の死 魂は滅びない、という視点。 どちらがどちらでも、それはよくて。 個人的な状況や思想によって表現方法も自由だし ルールではなく個人個人のセオリー。 ただ、 何となく感じている。 人の死

        だからって

          新スタイル?と言う名の旧式

          TOKYO2020オリンピックが閉幕し パラリンピックが開幕 なんだかあっという間に夏が溶けていくみたいで せっかく出したのに袖を通していない服が 今年はやけにあるなぁって思いながらキーボードを触っています。 さっきまで大好きな人達に話を聞いてもらいながら ご意見をいただいたり 一緒に一つの作品を構成していただく時間を過ごしていて 積み上げてきた物事の重みは そこにどれだけの想いを掛けたかだな…って感じているなう。 なう笑笑 先日、 またしても大先輩の夜のライブ配信を聞

          新スタイル?と言う名の旧式

          鼻垂れの夏休み

          相変わらず 暑い毎日を過ごしておりますね。 私が小学生の頃は夏の気温が30度に近くなると こりゃえらいこっちゃ!!!ってほど大事件だったので あの頃の夏は今からすると涼しかったのですね。 それだけ環境の変化が起きている。 それでも虫たちは託された命を夏一杯 輝かせようと必死になっていて なんか格好ええやん。 夏の変化はなにも環境だけではなくて 夏休みの過ごし方というか捉え方と言うか こういうのも変わってきてるな~と思います。 周りのママさんから聞こえてくるのは 『夏休みど

          鼻垂れの夏休み

          目で聞き背中で語る

          集中豪雨の影響がまだ残る中 夏の土用を迎えました。 どうか1日でも早く安心して過ごせる日が来ますように。 そして東京2020オリンピックが開会しましたね!! 連日の選手、スタッフ、ボランティアの皆様の頑張りに 励まされる私です。 さて、 今日書こうと思ったのは 自分自身が全く同じにはなれなくても ほんの少し、一年ずつ近づけるように励みたい あの愛する祖母の後ろ姿。 自分を鼓舞するわけじゃないけど 書いておいて、 そうだ、一歩でも近づけるようにって そう決めたんだった!!!と

          目で聞き背中で語る

          季節の記憶

          あっという間に 2021年も半分過ぎようとしています。 大して何もできていないけれど それが毎年のことのような気もしてならない笑笑 この梅雨時になると 季節仕事がちょっと派手になってきますな。 らっきょうや梅を漬けたり 紫蘇を煮出したり 畑にカラフルな実がなりだしたり 生菓子も夏色に変わっていく もちろんこの時期ばーちゃんは大忙しだった。 近所の人から頼まれて 鬼のようにらっきょうを漬けていた。 ばーちゃん家は隣に親戚の家があって 大叔父さんが主体となって漬け物屋さん

          季節の記憶

          そういえば・・・

          っていう事があって 忘れないうちにノートに記しておこうと思う。 平日に時間が取れる夜はなるべく参加している 和文化継承家・着物研究家の中谷比佐子先生のFBライブ。 座ってゆっくり聞けるときもあれば パートナーの食事の支度をしながら耳を傾けることもあるこの時間。 先生の声に、先生の経験に 参加されている皆様のコメントに 脳と記憶が刺激されるとても愉快な時間です。 先日もね、 っといっても5月も終わりのころ。 日本全国で皆既月食にわくわくした一日。 私の住まいがある地域では全

          そういえば・・・

          たまには彼女の話を

          梅雨入りしました。 梅雨と言えばパンイチでお外遊びが出来る そうあの梅雨です。 あ~あ~あ~あのパンイチのね! とはならないと思いますが 逆に共有できる人がいたら喋りたいですっ是非・はい・うん。 で 今日はいつもと違って彼女の話をしてみようと思う。 彼女とは37歳で肉体を手放した父の妹、私の叔母。 というのも 先日、中野裕弓先生(以下ロミさん)のオープン講座で ふと彼女のことを共有したくなったので ご参加された皆様に 我が家ではまぁ納得の彼女の旅立ち話を共有させていた

          たまには彼女の話を

          主語の在りかを変える

          最近首が痛い。 『首が痛むのは目上の人を大切にしていないからだよ』 『首はお金が入ってくるときに痛むんだよ』 ってスピ会に熱心な友人が言っていたが どっちでもいい笑 シンプルに言って頭が重いんやと思う笑 処理能力がないのに詰め込んでるから首で支え切らん。 そんなところだ。 脳が詰まってると 物事がすべて平たんになってしまって フラットとはちょっと違う 味気ない考えしか出てこない。 大学生のころに 授業が一コマしかなかった晴れた一日 ばぁちゃんと待ち合わせて京都・宇治の平等

          主語の在りかを変える

          きっかけはいつも瞬間にある

          いつだったか 晴れ間に訪れた雨を見ながら コーシー(コーヒー)を飲んでいた事があった。 「雨はめぐみだわな」 ってぼっそりつぶやいて眺めていたばぁちゃんは 雨がいかに優しいのかを淡々と口にしてた。 「そげやって(そうして)植物に必要なもんを  黙って運ぶだけんな  ここに雨が要るだなぁって  ちゃんと見ちょー(見てる)だけん  草もわしの畑の子やち(野菜や果物たち)も  喜こんじょーわ」 私に伝えているかと思って うんうんと聞いているけど どうも目が合わない笑笑

          きっかけはいつも瞬間にある

          時、を捉える。

          春よ来い 早く来い という歌がありますが 我が愛しのばぁちゃんはこの歌を歌いながら 『そんな早く来られてもこま~わ~~~(困るよ)』 っていう自分軸のコメントを常に差し込むという特技がありました。 それは自分の気分ということではなくて 畑がまだ間に合わないとか 草むしりするのが億劫だ(やりだしたら止まらいないし)とか そういう理由です。 そして桜が風に乗ってはらはらと落ちていく様子をみると 『こげして季節が移り替わぁだけんなぁ  桜もえれもんだわぁ』 (こうやって季節が

          時、を捉える。

          軸という線引き

          最近何度かこの話を人としている その度に自分はできているのかなと思い返しては いつの間にか眠っている毎日ですが笑笑 昨夜ダッシュで帰宅し 敬愛する中野裕弓さんの 『問題解決の方法』という ディスカッションクラスに参加したら そこでまたしてもこの線引き的な話が出た。 境界線とか 線引きとか 言うには言うんだけど これまた個人的な意見ですが この『線引き』を意識する時って 他者がどうとか状況がどうとか そう言うことではなくて 結局自分はどうなの??って事だと思うんです。 嫌

          軸という線引き

          意図という糸

          生まれてこの方 日本人のお葬式にしか出たことのない私ですが 高校の社会科の授業で 『鳥葬』のVTRを見たことで見送り好きに色かかったのかも と思ったりします。 そのVTRは 亡くなった人の身体を山の頂に運び 挨拶を終えたら一族の長老婆がその場に一人残り 頭部を・・・・・ という 文章にするとただのホラーなのですが そのVTRを見て思春期真っただ中の私 とてつもなく美しい捧げ方だ(きらきらきらきら) と思って感動したのを覚えています。 形式的なことやルールを重んじる日本に

          意図という糸

          最も古い記憶。

          人生の節目節目であったり 特に四季折々な風習がある日本においては 儀式というものが山ほどある そんな儀式の中で私が最も好きなのが葬式。 え?葬式が好きなの? と、なんど言われたかわからないけど 気にせず構わず葬式が好き。 以前鼻垂れ同盟に 「葬式が好き」って話をしたらそこはさすが同盟族。 まるで好きなアーティストや映画の話題と同感覚で 『いいよねー、私も好き〜』 そして各自うんうん頷いて 誰のどんな葬式が良かったのか語らった。 とりあえず私の葬式は参列した方に コカ・

          最も古い記憶。