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最も古い記憶。

人生の節目節目であったり
特に四季折々な風習がある日本においては
儀式というものが山ほどある
そんな儀式の中で私が最も好きなのが葬式

え?葬式が好きなの?

と、なんど言われたかわからないけど
気にせず構わず葬式が好き

以前鼻垂れ同盟に
「葬式が好き」って話をしたらそこはさすが同盟族
まるで好きなアーティストや映画の話題と同感覚で
『いいよねー、私も好き〜』
そして各自うんうん頷いて
誰のどんな葬式が良かったのか語らった。

とりあえず私の葬式は参列した方に
コカ・コーラを振る舞う予定。
ちなみに瓶です。

葬式が好きな理由は?
と聞かれても
〇〇だから!という明確な答えはないけど
人が生まれてくる時と同様にすごく感動するし
この人と私は関係していたんだな
今の私の成り立ちにこの人がいたんだな
うまく言えないけどすごくすごく幸せな気持ちになる。

もちろん人が亡くなるということは
当人にとって家族にとって
また参列するすべての人にとって幸せなことではないし
私も例に漏れずオイオイ泣くのだけど


行かないで


とか言うよりその人が私の中に置いていってくれた
むしろ私が勝手に手に取ったその人のかけら
ありがとうの塊になって
私の羽の一枚になるような気がしてね。

でも何故ゆえに葬式なのか


それを思った時に出てくるのが
多分私の持っている中で最も古い記憶
冷静になると眉間の皺がくっきり彫れるけど
私の「人生の過ごし方ノート」に
ルールとして記載されたエッセンスが詰まった記憶。

それがお葬式。

それは父方の曾祖母のお葬式。
いくつで亡くなったかは定かではないけど
棺の中に眠るその人に向けて
たくさんの人が挨拶に来て

『裁縫が得意だったね』
『〇〇ちゃんと仲良くってね〜』
『えらい助けてもらったよ〜』

とか曽祖母とのエピソードを話してる。
次は誰の番だの
死ぬまでにどうしておきたいだの
女の人たちのなんとも楽しそうでいて
曽祖母に対してお疲れさんって声をかけながら笑ってる

その状況を見て何となく
人は時がくれば自動的に死ぬこと
人生での行いが人に影響すること
やりたい事して楽しく過ごしたほうがいいこと
男はあてにならないこと笑笑
自分なりに受け取っていたと思う。

でも、その時に棺の前に集った人や
自宅葬儀だったので食事の支度をしたり
お酌をする祖父母や参列していた母方の祖父(おズー)が
メソメソしてなくてね。
ただ、棺の中にあるその身体に
『ご苦労さん』とか『ありがとう』とか
そんなふうに声をかけていて
見ててすごく幸せな気持ちになった。


大きくなるにつれて
両親がお世話になった方の葬儀に参列したり
同盟族のレジャー企画運営部長であった叔父
父方の叔母や母方の曾祖母など
すごくたくさんではないけど
見送る儀式に出た。

なかでも叔父は高校の教員をしていたこともあり
予想以上にたくさんの人が来てくださった。
葬儀場の人が外にもパイプ椅子を用意して下さったけど
それでも足りないほどだった。

お焼香なんてもはや流作業。
係の人が『前行ってくださーい』って誘導しなきゃ
終わりもしないし
坊さんの喉がカラッカラになる笑笑

けど
その光景は圧巻で
なによりも叔父がこれだけ多くの人に愛されていた事
ここに出向いてくださったすべての人が
叔父の名前を知っている事
叔父が愛をかけた人たちである事が
嬉しくて嬉しくて
幸せで
苦しかった。

苦しくて吐きそうなほど満たされた。


小さい頃からばぁちゃんとおばば(曾祖母)に
人は死んでも、それは肉体の死であって
魂は永遠であるから悲しいことなどない、と
言われて育ってきた。

死ぬことは悲しいことではない。
だから葬式では、肉体がなくなった後に
『どうやってその魂とやり取りをするのかよく話し合うこと』
そうやって未来の約束をするんだよ。
と言われ、気を引き締めてた。

ばぁなのかオババなのか忘れたけど
そうやって言われるがままが影響してか
小さい頃の記憶のせいなのか
葬式という儀式がとても好きな私。

歳を重ねるにつれて
いろんな場面で死について考えたりもする。
テレビドラマなんかでも
『残された方の身にもなってよ』って言うけど
自分を軸にしてその言葉を聞くと
『残りたくて残ったんだよね?』
っていう気持ちになってきてね。
すごい歪みきった性格してる...私。
って思う笑笑

残された、のが嫌なら一緒に行けばいい!
でも、行かずに過ごすことも選べる。
どちらを選んだってそれは自由だ。

でも私たちの人生、どれを取ったって
すべて自分の選択。
ネガティブに浸かっていたい時だってある。
けど
人生の最後は確実に迫ってくる。
生まれたら、
生まれることを選んだら、
死ぬことも同時に選ぶわけだから。

この先、葬式がどんな在り方になるのかは
分からないけど
魂を守り続けた器に最大のケアをして
意識と繋がって思考を作ってくれた身体を讃えて
それこそ残された人のため
自ら残った人のために手に触れられる最後の愛の形
それが葬式だと思うから。
なんというか前向きな気持ちで
この先も人を見送りたい。

見送りたいといいつつ
その人を守り続けた身体に触れられる
最後の愛の時間を楽しみたい。

愛おしいジィの葬式もただ、幸せでね。
心残りといえば、
コロナ禍で旅立ったばぁちゃんの葬儀に
参列できなかったことかな。
触れることができなかった。
ばぁちゃんを活かしてくれた身体に。

だからその分私の身体をしっかり使おうと思う。

一番古い記憶である
あの葬式の時みたいに
私を囲ってくれる人がいたら
その人たちが笑ってくれるように。

父方の曾祖母のお葬式。
ぽかぽか陽気の明るい日でね。
祭壇に向かって左前の方に母方の祖父(おズー)がいて
膝に乗ったり人に抱かれたり。
お膳に載るお食事はカラフルではないけど
よく見るようなものばかり。

覚えているわけないでしょと言われがちだけど。
同盟族たちは
『お前なら覚えているだろうね』と言う。


すごく鮮明に覚えている。
1歳に満たない私の、人生で一番古い記憶

最後まで読んでいただいてありがとうございます。
時間をくれて。
あなたの愛がどんな形であれ
すべての人に影響してる。
ありがとう。


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