見出し画像

青春の後ろ姿#74 〜20代は、清志郎と、バイクと、文学以外に何もありませんでした〜詩を書くということについて#1

 詩といえばこんな思い出があります。
 それは私が高校1年の時の出来事です。当時、私は谷川俊太郎がきっかけで、詩を読むようになっていました。中学の頃も『智恵子抄』とか啄木とか藤村とか室生犀星らへんは読んでいたのですが、谷川俊太郎の詩を読むようになって、自分も書いてみたいと思うようになりました。
 でもいざ書くとなったら、稚拙な散文になってしまい、どうしても書けませんでした。そこで私は、笑われるか怒鳴られるかだろうと思いながらも、高校の現代文の先生に、
「先生、相談のありようとです。どうやったら詩ば書くことがでくっとですか?」
と、ばかな質問を大真面目にしました。するとその先生も大真面目な顔で、少し斜め下を見た後、
「子どもの心で見るとよ」
とおっしゃいました。なお食い下がって
「子どもの心てどげんしたら持てるとですか?」
と尋ねると、先生は机の上を指さしながらおっしゃいました。
「今ここに枯れ葉があるとする」
 机の上に枯れ葉があるのを想像しました。
「いま風が吹いてな。その葉っぱがカサ、カサて、机の端から端まで少しずつ転がったとする。おまえは何て思う? 想像して答えてみい?」
 一所懸命想像はしましたが、何を聞かれているかよくわかりませんでした。それで
「葉っぱが転がっとうって思います」
と答えると、先生はこうおっしゃいました。
「子どもは、それば見て笑うったい」
「なんでですか?」
「子どもはそれば見て『カタツムリが歩いとる』『バッタが飛んどる』て言うて笑うったい」
 そして、きょとんとしている私に、先生はおっしゃったのです。
「な? 詩やろうも」
 しばらく考えました。机の上を転がる葉っぱを見てカタツムリやバッタに見えるだろうか?そういう目を持つことは自分には到底できそうにない、と思いました。そんなことを考えている僕の心を見透かすかのように先生はもう一度おっしゃいました。
「それが詩たい」
 子どもは詩の本質をわかっている。子どもの心は、たしかに物事の本質を見極められるのだろうと思います。
 思えば、遊びひとつ取っても大人はお金をかけないと楽しめません。子どもはディズニーランドも楽しいけれど、親と近くの公園や道ばたで遊ぶだけで十分楽しい。なのに大人は渋滞するとわかっていても、遠くのお金のかかる場所まで行って上等なホテルまで行かないと遊んだ気になれません。子どもは地面を見つめて歩くだけでもすでに遊んでいます。「ケンケンパ」と言いながら、あるいは石ころを蹴りながら、もっと言うとただジャンプしながら。それは子どもは遊びの本質を理解しているからだと思います。遊びの本質、それは酔い痴(し)れることです。眩う(まう)のに金はいらない。

この記事が参加している募集

スキしてみて

サポートあってもなくてもがんばりますが、サポート頂けたらめちゃくちゃ嬉しいです。