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青春の後ろ姿#75 〜20代は、清志郎と、バイクと、文学以外に何もありませんでした〜詩を書くということについて#2

 その後、詩を書くのを諦めるのは悔しいので、谷川俊太郎の詩を意味もなくひたすら書き写したり、少しだけ言葉を換えてパクりパクり書いてみたり、メモ帳とペンを持ち歩いて、どこにいても何をしていても思いついたら書きつけてみたりしながらひたすら考えました。そしていつも現代文の先生の話を思い出しては考えました。
 その結果、詩を書く子どもの心を持てなくても、比喩表現はできることに気づき、「葉っぱがカタツムリやバッタに喩えられるなら、あれはどんなだこれは何だ」と喩えてはメモ帳に書きつけるようになりました。
 それから詩を書く際に最大の謎だった改行のタイミングについて、2つの結論に至りました。
 ひとつは視覚的な効果です。きっかけは谷川俊太郎の『62のソネット』を読んでいて、14行詩にいろんな意味を持たせようと試みたことでした。ソネットをたくさん書きました。それからソネットに飽きたので、もっと単純に見た目でおもしろくなるように改行する。これを試しました。これもたくさん書いたのですけどシュールになりすぎて最終的にはあまり自分にはなじみませんでした。
 もうひとつは、やはり谷川俊太郎の全集的な詩集、思潮社の弁当箱みたいな分厚い詩集が正続2冊あるんですけど、何百あるか知りませんがほぼ全て朗読して、改行はブレス(息つぎ)のタイミングだという、当たり前と言えばめちゃくちゃ当たり前なことに気づきました。
 朗読したことは大きな収穫でした。他にも、詩の朗読と呼吸の、何というか、もしかするとパフォーマンスというものにつながるのではないかというぼんやりとした思いを持ったりしました。詩は朗読して初めて力を持つのではないかとか、詩の起源は呪文じゃないかとか、呼吸がもたらす意識の変容とか、トランスとか、何かこう、やや神秘的なものやインスピレーションのようなものを感じないではいられませんでした。でも個人的に、そういうものに傾倒して何でも霊妙なるものに解釈するのはバブル期の頭の悪い人がやることだという偏見を持っていたのでそういう感覚はすぐに否定しました。また、詩は文学の中でも最も芸術性が高く、それだけに文脈破壊しまくった前衛的で実験的なものもたくさんありますが、他者から理解されない、または共感されないものは自己満足に過ぎません。ですから誰が読んでも意味がわかることが一番大切だと思い、書いていました。
 そうして、才能には恵まれなくても、詩らしきものを書く楽しさだけは理解できました。一度だけ『ユリイカ』という雑誌の「今月の新人」のコーナーで(なんと、大岡信が選者でした)、載せてもらえたことがありました。25才の時でした。
 でも、そこまででした。高1で書き始めてからおよそ10年、それから詩は書いていません。努力だけでは世に問うことはできないことを思い知りました。

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