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ふまじめを心に飼うこと

まじめな人ほど、心を病みやすい。

人や、記事や、テレビなんかで、当たり前のように語られている。

「まじめ」という言葉自体は、「よいこと」のニュアンスを含んでいるのに、「まじめな人」になった途端、なぜかネガティブ要素を含む印象に変わる。

まじめなのは、損なのだろうか。


そんなことはないと言ってやりたいのに

そんなことはないと、言ってやりたい。
そんなことはないと、誰かに言ってほしい。

でも社会では、やっぱりまじめな人が心を病んでいく。

なぜかといえば、ほぼ集約される理由として「まじめな人は、ひとつひとつ、まじめに対応していること」が挙げられる。
さらにいえば、自分の気持ちを度外視して相手に寄り添ってしまうのだ。

もちろん良いことなのだけれど、まじめじゃない人が30%-50%で受け取ることも、まじめな人は常に100%かそれ以上で受け取っている。

上司に諭されたことも、上手くいかなかったことも、迷惑をかけたことも、設けられた期限も、言われた約束や要望も全てだ。

全部を100%で受け取ったら、自分が保たないことも解っているのに、突き返すことや異議を唱えることは、100%で受け取れなかった自分の落ち度と思ってしまうジレンマがあって上手くできない。

結果として、本人の限界値を超えてしまい、それがまじめな人には「大きな失敗」に思えてしまい、心を病んでしまうのだ。

心の中にふまじめを飼うこと

わたしも基本的にまじめな性分だ。

まじめが助けてくれたことも、裏目にでたことも沢山ある。

でもいつしか、私は「ふまじめ」を心に飼うようになったのだ。

少し話が逸れるが、新卒で入社した会社の先輩は「ふまじめ代表」のような人だった。

自分では極力仕事をせず、常に仕事を振れる誰かを探してはお願いし、本人はデスクに沈んでスマホゲームをしていた。

ナマケモノと働きアリくらい違う私たちなのに、OJTペアになってしまったからには関わらざるを得なかった。

まじめな私は、その先輩が心底嫌いだった。
当時はどうしても、その姿が許せなかったからだ。

でも、それから何年か経って、私はあの先輩のふまじめさを思い出すようになった。

「あの先輩だったら、今言われた言葉をこう捉えて行動するだろうな‥」
「いま、サボってるだろうな」とか、そんな感じである。

私は、ふまじめな先輩と共に過ごしたことで、悔しいことだが、心に「ふまじめ」を飼えるようになっていたのだ。


ふまじめは、素直で、自分に正直だ

まじめな私の中に、ふまじめな私が同居できるようになってから、価値観の殻がひとつ剥けたようだった。

まじめな私は、Aと言われたら、Aをやらなければいけないと思うけれど。
ふまじめな私は、私の心がノッていなければ、Aといわれても、Bを始めることもある。

あの先輩は、私よりずっとふまじめだけれど、それでも社会で生きていけているのだから。
私が少しくらいふまじめになったって、なんてことはないのだ。

そう思ったら少し楽になった気がして、そんなちょっと性格の悪いことを思いつつ、私はたまにふまじめになる。

そして、ふまじめを飼い始めてからわかったことは、ふまじめな人は、仕事にふまじめなのではなく、自分の生き方にまじめなのだということ。

ふまじめでいることは、自分の気持ちに正直でいること。

ふまじめは、仕事という一方から見た側面なだけで、人の生き方として見れば、自分を大切にする生き方なのだと思う。


まじめな私とふまじめな私。

どちらも私なのだから、どちらも大切にしていきたい。
心を病まないためには、何事もバランスが大事なのだ。

ご清聴ありがとうございました。

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