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短編小説

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#短編

【短編小説】赤ちゃんとパン

【短編小説】赤ちゃんとパン

赤ちゃんの手とパンを並べて写真を撮る、というのを、一度はやってみたかった。

午前3時20分という、人によって朝なのか夜なのか、そんな秒針あったっけ?なのか、感覚がくるっと変わる時間。我が愛娘はやっとすんなり眠ってくれていた。夫は夜勤で、家には私と赤ちゃん、母と娘の二人しかいない。
半日前に夫がスーパーで購入してくれた「やさいパン」を、そっと取り出してくる。
そこまでは良かった。

シャッター音が

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【短編小説】弱いとかじゃないよ

【短編小説】弱いとかじゃないよ

「弱いとかじゃないよ」

ひとしきり私が話して、沈黙がバスの停留所のようにやってきた所で、堀田さんがそう呟いた。独り言のようにも聞こえたけど、私が黙って堀田さんを眺めているともう一度同じことを言われたので、やっと私に話しかけていた事に気がついたふりをする。

飼っていた金魚が死んだ。

私が昔々に地元の祭りの出店でとってきた金魚だった。

最初、朝起きて、いつも通り鉢の中を眺めようと横から見た。な

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【短編小説】挨拶せえ

【短編小説】挨拶せえ

個人の居酒屋だから、コンビニやスーパーよりもいい加減かもしれないと思いながら一週間前眺めた、入口のポスターを思い出す。あの時引き返していればと今警鐘を鳴らしても仕方なかった。

「まず、だれか入ってきたら口の端をぐっと上に上げる!で、いらっしゃいませエ!」

はい、と言ったつもりだったけれど、返事は?と聞かれたので腑に落ちないままもう一度はい、と言った。店主のさみしい頭が、きらきらと光っている。ち

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【短編小説】お久しぶりです恋人さん

【短編小説】お久しぶりです恋人さん

手を繋ぎたいです、と急に言われて、最初は分からなかった身体が、首の付け根からぐぐぐーっと熱くなって反応する。

「なに、きゅうに」

自分でもどんな顔をしているかわからないまま聞くと、

「たまにはいいでしょ」

と表情を変えずに返された。

指をからめることなく、握手みたいにしっかりと手を繋ぐ。
そのまま土手沿いを歩くと、ちらほらとスーツ姿で自転車をこぐサラリーマンや、大きなスポーツバッグを持っ

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【短編小説】のぞく

【短編小説】のぞく

目に入ったのは本当にたまたまだった。電車で偶然隣だった初老の男性が、スマホを開いていた。車両が全部埋まるくらいの混み具合だったので、肩が触れるのは仕方のないことだ。むしろ座ることができない混み具合のなか、こうして席に座ることができたのはありがたいくらいだった。

メモ帳らしきアプリに入れている文字を、改めて打つでもなく、男性は眺めていた。自分は背もたれにしっかりもたれて、男性はスマホを胸の前に置い

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【短編小説】翼をくれよ

【短編小説】翼をくれよ

ピアノの旋律が美しくはじまりを奏でる。

興味がなくて半開きのままの目をなんとか閉じないように気をつけながら、口を開く。

「今私の願い事が叶うならば、翼が欲しい…」

歌に乗せると無くなる違和感は、文字で考えると、やけにわがままに、俺には映る。

この歌がどんな風に作られたのかなんて知らない。だからこんな風に残酷に思えるのかもしれないけど、だからって誰かに責められたとしてもそこには何の責任も伴わ

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【短編小説】あなたの為にやっているのです

【短編小説】あなたの為にやっているのです

そう聞こえたので、思わずふふっと声を出して笑ってしまった。

中途半端に人がいて、ちょうど駅に停車していた車両の中で、私は一気に人の視線を浴びた。

気まずくなって立ち上がる。

ドアの向こうがわ、駅のホームにあと一秒でつくところだったのに、1人だけ喋っていたおばさんに腕を掴まれてしまった。

「なにがおかしいの?」

そのおばさんは、目が静かにくぼんでいた。眉毛はキリッとしている。こんなアスキー

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【短編小説】努力もしてねえのに羨ましがるなよ

【短編小説】努力もしてねえのに羨ましがるなよ

「じゃああなたもやってみなよ」

佐々木さんから笑顔で言われて、自分の足元からスーッと感覚がなくなっていくのが分かった。座敷に座っていて良かったと思う。

こんな飲み会来るんじゃなかったと思っても、後の祭りだった。

足元に迫る崖の目の前で背中を押されるような不快感が襲ってくる。

大きな机にはたくさんの食べ物やアルコールが雑然と置いてある。その周りを取り囲むように騒ぐ職場の人間たち。

一番端に

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