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【短編小説】挨拶せえ


個人の居酒屋だから、コンビニやスーパーよりもいい加減かもしれないと思いながら一週間前眺めた、入口のポスターを思い出す。あの時引き返していればと今警鐘を鳴らしても仕方なかった。

「まず、だれか入ってきたら口の端をぐっと上に上げる!で、いらっしゃいませエ!」

はい、と言ったつもりだったけれど、返事は?と聞かれたので腑に落ちないままもう一度はい、と言った。店主のさみしい頭が、きらきらと光っている。ちらほらとしている毛根から、地肌がのぞく。顔は思ったよりも、般若のようにはなっていなかった。
現実逃避がしたくて、明日、一限の授業の前にどのコンビニによって朝ご飯を買おうか思案する。早くこの時間が終わってほしい。地獄のバイト時間が。

「今、『怒られとる』としか思っとらんなあ。反省せずになあ」

見透かされたように言われて緊張した。体が固まったと気がつかれたくなくて、かくれんぼしている子どものように、いえ、と応えた。ここにはいません。だから早く、通り過ぎてください。じっと堪える。そうしたらどうせまた元通りになっている。親との会話は、いつもそんな感じだった。学校でも。

「挨拶を舐めるもんは挨拶に泣く」

はい、とまた返事をしたら、今度はいや、「はあ」じゃのうて、と叱責された。はい、と言ったのに。
別に、知ってる。小学校の時からあいさつしましょうねとずっと言われ続けてきた。大切なのは分かっている。

「できてない言われて、そりゃ嫌かもしれんけども」

今度は考えていたことと的外れなことを言われて拍子抜けする。
いつもよく、何を考えているかわからないと言われる。最近の若いのはとか。そのくせみんな、抜本的な答えは教えてくれなかった。その場をやり過ごせるような表面的なことしか。そうしてどうしたらいいのか分からないまま、二〇年近く生きてしまった。
なぜか分からないけれど、今日は、返事を返したくなった。いつもより一歩近くに、人がいるからかもしれない。親身に話しかけられているからかもしれない。少し、たばこのにおいがする。不思議だと思う。親どころか、祖父母も、親戚一同、たばこを吸う家系じゃない。そんな僕が今、たばこの気配が遺る場所に立っている。

「嫌じゃないです」

ふとそう言ってみると、きょとんとされた。それから、あっはっは、と笑われる。快活だった。ジブリで見たことがある笑い方だった。

「嫌じゃないなら、いやじゃない態度とらんとな」

肩を思い切り二度叩かれて、大きく前のめった。

とりあえず挨拶せえ。
そう言った口を眺める。僕を待ち構えるみたいに、大きな口がいびつに、でも嫌悪感なくひろがっていた。

おわり

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