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言葉のピザをあなたと分け合いたい

ねえ、思ってることを言葉にするって、本当に難しいよね。

この「ねえ、思ってることを言葉にするって、本当に難しいよね。」という文章ですら、私の心の中をそのまま表したものとは言えない。私のこの気持ちは「言葉」なのか「ことば」なのか「コトバ」なのか。「難しい」なのか、「ムズイ」なのか「ハード」なのか——。その違いもわからないまま、私は「ねえ、思ってることを言葉にするって、本当に難しいよね。」とパソコンで打ち込んだ。


これから話すことは、正直いって、読者ウケしない。言い換えると、PVは伸びないと思う。でも、それでも、今思っていることを言葉にしようと思って、この記事を書いている。あなたには1ミリも役に立たないと思うし、読んだ時間さえも無駄だったと思うかもしれない。それでも、3分くらいお付き合いいただけるなら、「へえ〜」と暇つぶしがてらに聞いてくれたら嬉しい。


◆◆◆


最近、「ことば」(あえて平がなで書いた)について考えている。話すのも、書くのも、考えるのも、私はいつも「ことば」を使って考えている。言い換えると、「ことば」無しには、私は話すことも、書くことも、考えることもできない。いわば、「ことば」は私の一部なのだ。


でも、そんな私の一部の「ことば」は、掴もうとしてもなかなか掴めない。手を伸ばせば伸ばすほど、それは雲のように消えていく。「今のお気持ちをどうぞ!」というヒーローインタビュー。「どう? どんな味?」というレポート。「言葉にならない」という言葉(これはあえて漢字だ)——。そのどれもが「ことば」でできている。なのに、その「ことば」は思いや感覚をそのまま表してはいない(というより表せない)。そのもどかしさに、目眩がした。


「言語の限界があなたの世界の限界だ」とある哲学者が言った。その本を最初に読んだ時には、意味がわからない、と思った。そして5年ほど経って、二度目に読んだときは、なるほど、と思った。私は言葉で感情や感覚を表している。なので、言葉で表せる範囲でしか、自分の世界を表現できない。つまり、自分の世界の「枠」は、言葉によって決められているのだ、と。


でも、今になって考えると、「本当にそうだろうか?」と思う。その哲学者の哲学を、私は詳しく知っているわけではないし、上記の「言葉」(これも漢字だ)の真意を捉えられていないかもしれないが、それでも、言葉尻だけを見ると、やっぱり「本当かな?」と首を傾げる自分がいるのだ。


◆◆◆


「私のこと、どんな風に好き?」むかし、そう聞かれたことがあった。私は言葉を尽くして、その子の好きなところを伝えようとした。でも、言葉にすればするほど、「想い」と「ことば」が離れていく。「そんな風に思ってるわけじゃあないのに」と思いつつ、「ことば」ではその様にしか説明できなくて、それで「〜〜ってところかな」と「思ってもいない」ことを口にしていた。


「嘘」と「思ってもいないことば」の線引きは難しい。もしも「嘘」を「事実と異なること」と定義するなら、私がふだん口にしている「ことば」は、99.99パーセントが「嘘」だ。だって、「想い」を100パーセント完璧に「ことば」に翻訳するなんて、限りなく不可能に近いからだ。だから、「嘘」と「思ってもいないことば」は、限りなく近い。


でも、「思ってもいないことば」は「嘘」ではないと思う。思ってもいない「こと」は「嘘」かもしれないが、思ってもいない「ことば」は嘘じゃない。頭でイメージした形を、カンペキにそっくりそのまま粘土の像で作ることができないように、頭で思ったことを、カンペキにそっくりそのまま「ことば」にすることはできない。その意味では「言語の限界」なるものは確かに存在するのだと思う。


話が難しくなってしまったが、ここまでのことをまとめると、「ことば」は捉え所がなく、しかも「思っていること」をそのまま翻訳することはできないが故に、「想い」と「ことば」には差が生まれてしまう、ということだ。


◆◆◆


ここまでで1,600文字。400字詰め原稿用紙でいうと4枚分だ。こうして書いてみると、「1,000文字」って、意外と長いんだなあ、と思う。1,600文字、ダーッと書いたが、感覚では「5,000字くらい書いたかな?」と感じていた。だが、noteの下書きには「1,600文字」の文字が出ている。なあんだ、案外まだまだ書いてないんだな、と思うのと同時に、「自分の思いの重さは、たかだか1,600文字程度なんだな」という、どこか冷めたような思いも感じる。


この「どこか冷めたような思い」も、「思ってもいないことば」かもしれない。私が「いま・ここ」で感じた想いは、文字によって「いつか・どこか」のあなたに届く。出来立てのピザを3日後に食べるかのように、「いつか・どこか」の私の「ことば」は、冷め切ったものになっているかもしれない。


そう考えると、「ことば」にも「熱」や「賞味期限」があるのかもしれない。noteはデジタルのサービスなので、「ことば」はデータとして半永久的に残る。でも、「いま・ここ」の「熱」は、永続することはない。「いま・ここ」の「想い」は、「いつか・どこか」のあなたには届かない。届くのはピザという物体そのものと、それを入れている容器だけだ。

でも、それでも。それでも私は「ことば」を紡ぎ続ける。たとえ「想い」は伝わらなくても。たとえ「熱」は伝わらなくても。それでも、その「たとえ」さえもわかった上で、私は自分の頭の中の想いを「ことば」にする。



意味がないと嗤うかい?



意味なんていらない。ただ書きたいから書く。PVのためでも、お金のためでもなく、「いま・ここ」のアツアツの想いをパッケージにしまって、「いつか・どこか」のあなたへデリバリーする。たとえ届かなくても、その営為じたいが、私にとっては愛おしい。まだ冷めきっていないピザのひとかけらを、あなたと分けあえると信じて。



——♡——♡——♡——


冷めないうちに。



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