【連載】エピグラフ旅日記 第7回|藤本なほ子
エピグラフ旅日記(10月)
10月某日(2)つづき──サトクリフ『思い出の青い丘』
図書館のいちばん端の棚から……ということで、日本十進分類表のおしりのほうから手をつけてしまい、900番台後半の、その他の諸言語文学、ロシア・ソビエト文学、イタリア文学、スペイン文学、フランス文学あたりの棚をうろうろし続けている。分類番号の並びを気にせず、手あたりしだいに見ていたのだが、「もっとちゃんと、整然と進めよう」と反省し、棚の区切りで93-番台「英米文学」に飛び、番号の順に見てゆくことにした。
「英米文学」の最初のほう、文学史や作家研究の本が並ぶ棚で、紺色の背のソフトカバーの一冊が、なんとなく目に留まった。背には『思い出の青い丘』とある。……あれ? この本、私、知っているような気がする。
棚から抜きとってみると、薄いピンク色の表紙に、背の地色と同じ紺色の文字で「思い出の青い丘 R・サトクリフ作 猪熊葉子訳」と記され、その下に大きく、白い服を着た幼い子どもの絵がプリントされている。これは、やっぱり知ってる。私、この本を持っていた……。ぼんやりと、この本を置いていた子ども部屋の本棚の暗い焦げ茶色の質感も、いっしょに思い出されてくる。そうだ、あの本棚に並べて……確か、だいぶ気に入っていたのではなかったか。
表紙をめくり、カバーの、内側に折り込まれた袖の部分に印刷された簡単な紹介文を読む。ローズマリー・サトクリフは「ローマ軍支配下のイギリスを舞台に、心や身体に傷を受けた者が、その傷をのりこえて生きる様を描きつづけてきた、子どものための歴史物語作家」であるという。「サトクリフは、二歳の時スティル氏病に冒され歩行能力をうばわれてしまいます。そして、短い学校生活の期間をのぞくと、ほとんど母親の手で教育されました」。この本はそんなサトクリフが書いた初めての自伝であるらしい。うっすらと、憶えているような、いないような……。でも、気に入っていたという体感は、ますます強くせり上がってくる。
さらにめくってみる。エピグラフもあったがとりあえず通り過ぎて(←職務怠慢である)、本文を少し読んでみる。やはり思い出せない。意識の上ではまったく思い起こせない、記憶が見あたらないのに、本の外観が、手に持った感じが「私のこと、知ってるでしょ? 憶えてるでしょ? 好きだったでしょ……?」と強く訴えかけてくる。とても不思議な感覚。ふと出会った人の顔と姿に、「この人のことは知っている。いつか、自分となにかしらの深い関わりがあったはずだ」と確信するのだけれど、いったいどこの誰で、どんな名前で、自分とどんな関係があったのか、具体的なことはなにも思い出せない、というような……。
幼い頃の自分が持っていたはずの『思い出の青い丘』はもちろんこの個体ではないけれど(もしそうだとしたらほんとうに恐ろしい)、こんなふうに不意に再会してしまい、うれしくも少し怖い気持ちになる。古い本だから新刊の書店には並んでいないだろうし、今まで再会の機会に恵まれなかった。品切れや絶版の本も並んでいる図書館では、ときどきこういうことがある。
『思い出の青い丘』のエピグラフは次のようなものだった。
これは詩の第1連だが、第2連を読むと、サトクリフがこの詩を引いた意味が見えてくる気がする。後注の★2にA・E・ハウスマンの詩の原文を引いておいたので、関心のある向きはごらんください。
10月某日(3)──T・S・エリオットのエピグラフを入力
自宅で、昨日図書館で見つけたT・S・エリオットの詩のエピグラフをデータベースに入力していく。岩波文庫の2冊、『荒地』(岩崎宗治訳、2010)と『四つの四重奏』(岩崎宗治訳、2011)より。エリオットの作品にはエピグラフが多く、この2冊だけでも19の引用がある。いずれもかなり凝っていて、訳注の情報量も多い。私はエリオットの詩を、恥ずかしながらまともに読んだことがないので、家で落ち着いて、少しでも読み、背景を調べながら入力したいと思ったのだ。
たとえば、『詩集(一九二〇年)』(Poems 1920)に収められた「ベデカーを携えたバーバンク 葉巻をくわえたブライシュタイン」(Burbank with a Baedeker: Bleistein with a Cigar)のエピグラフは、なんと6つの引用をコラージュしたものだという。
無礼な行いではあるが、訳注での解説に従い、引用の順に番号を振ってみる。
岩波文庫版の訳注や、インターネットで参照した論文や資料(★5)によると、❶はテオフィル・ゴーチエの詩「入り江にて」、❷はアンドレア・マンテーニャの絵「聖セバスチャンの殉教」の中に書き込まれた言葉、❸はヘンリー・ジェイムズの小説『アスパンの恋文』、❹はシェイクスピアの戯曲『オセロー』、❺はロバート・ブラウニングの詩「ガルッピのトッカータ」(ただし、❺の最後にある「!」は、本来は❹の最後にあるものとのこと!)、そして❻はジョン・マーストンの仮面劇『ダービー伯爵未亡人である母アリスがアシュビー邸に到着した最初の晩の、ハンティンドン夫妻による歓待』──からの引用だという。そして、❻以外はすべて、この詩でうたわれるヴェネツィアに関係するフレーズだとのこと。
……くらくらしてくる。このエピグラフの中で素人が直接にヴェネツィアを連想できる文句は「ゴンドラ」ぐらいだ。しかし、たとえば❷の「神ならぬものは永続せず、すべて煙」はヴェネツィアの衰退を連想させるフレーズだが、画家マンテーニャはヴェネツィア出身で、引用元の絵「聖セバスチャンの殉教」もヴェネツィアの美術館に飾られているという。さらに、トーマス・マン『ヴェニスに死す』への示唆も読み取れるとのこと。❶❸❹❺もそれぞれ、ヴェネツィアが舞台だったり、ヴェネツィアを回顧したりする作品であるらしい。
エピグラフが、引用のパッチワークとなっている。縫い合わされた端切れの一つ一つが、さらに別の作品、別の文脈へとつながっている。(そのネットワークについては、多くの読解研究がなされている)
続けて詩の本文を、訳注を手がかりに読んでみる。全32行の詩に対して、岩波文庫版では7ページ強の訳注がつけられている。なぜなら、詩の本文もまた、他の作家の作品やヴェネツィアにまつわる歴史的事象への参照のコラージュとなっているからだ。なんらかの含意を匂わせる大小の図像を組み合わせてつくられた、一枚の絵のようである(注釈がなければ、私にはまったく読み解けない)。そしてその全体で、当時のヴェネツィアに群れる人々の金銭欲と色欲、この町の凋落と退廃ぶりをうたっている。
原詩を読むときっと、そのような意味内容だけでなく、語感やリズムから感覚的に受けとるものがあるのだろうと想像する。
そこではたと立ち止まる。この作品では、エピグラフも本文も引用のコラージュである。ならば、エピグラフと本文を分かつものは何だろうか? エリオットはなぜ、どのように、エピグラフと本文とを分けているのだろうか?
しばらくして思い当たったのは、エピグラフは完全な引用のみから成り立ち、一方で本文では、他の作品から引いた文句であっても、なんらかのアレンジをしているのではないかということ。……岩波文庫版の訳注やインターネット上の論文を確認すると、やはりどうやらそうらしい。
考えてみれば、なんとなく納得もいく。エピグラフには「他の作品の引用でつくる」という暗黙の前提があるから、他の作家の作中の文句を、そのまま堂々と使うことができる。しかし作品の本文においては、なかなかそういうわけにもいかないだろう(そんなことをしては剽窃の謗りもまぬかれない)。
それにそもそも、他の作品の言葉がそのままの形で、自分のつくる詩のなかに嵌めこんで使える、使いたい、と思うような事態は(まさに「引用の織物」としての作品を企図する場合を除けば)少ないのではないか。自分が表現したいと欲するイメージの細部として組み込むために、なんらかのアレンジをせざるをえなくなるのではないか。(★6)
とすると、エリオットは、過去のさまざまな作品を織り込んでイメージをつくるその方法を、詩の本文とエピグラフとで使い分けているとも考えられる。エピグラフでは、他作品の文句をそのまま抜き取り、縫い合わせて一枚のパッチワークをつくる。そして詩の本文では、より自由に変形をほどこして、自分のつくりたい世界の像をつくり、含意の奥行きをいっそう複雑で曖昧なものにする。──そのように、異なる引用(参照)の方法でテキストをつくり分けることを、エリオットは楽しんでいたのではないか?
……などと、浅薄ながらつらつらと考えていた。もっと適切な読み方や、別の視点からの捉え方があるのだろうと思う。お気づきの点はぜひご教示ください。
10月某日(4)──『ルイス・キャロル詩集』で道草(詳細は略)
図書館で少しだけ作業。英米詩の棚。ジョン・キーツ、S・T・コウルリッジなど。
『原典対照 ルイス・キャロル詩集』(高橋康也・沢崎順之助訳、ちくま文庫、1989)。見開き2ページの左側4分の1ほどに詩の原文、右側4分の3ほどに日本語訳、全体の下に解説というレイアウト。解説がとても充実している。
キャロルは13歳の頃から詩誌や雑誌をつくって家族で回覧していたのだという。その最初期の詩がとても面白くて、ついつい読みふける。キャロル自筆のイラストや手書き文字にも見入ってしまう。
しかし残念ながらエピグラフの収穫はナシ。ふと我に返って目を上げると、まだ午後も早いのに窓の外は暗く、今にも雨が降ってきそうな雲行き。あわてて本を棚に戻し、荷物をまとめて帰宅する。この日はほぼ道草で終わってしまった。
10月某日(5)──吉田健一訳『訳詩集 葡萄酒の色』とシェイクスピアのソネット第18番、ブレイク「無垢の予兆」の置き土産
いつもの図書館で「英米文学」の棚を見てゆく。前回に引き続いて931「詩」、そして932「戯曲」を経て933「小説.物語」の入口まで。
(ちなみに、戯曲作品でエピグラフが置かれたものはかなり少ないようだ。一般に戯曲は、読まれるものとしてより、まずは上演されるものとして書かれるのだろうから、当然といえば当然である。逆に考えて、戯曲にエピグラフが付されるのはどんな場合だろうかということが気になる)
岩波文庫の対訳詩集の叢書「イギリス詩人選」と「アメリカ詩人選」。まとめて見てみたいと思ったが、図書館では作家の五十音順でばらばらに置かれている。そこで、エピグラフ探索の記録に使っている文庫目録の分冊の余白にラインナップを書いて、1冊確認するたびにチェックマークを入れていく。
吉田健一訳『訳詩集 葡萄酒の色』(岩波文庫、2013)。扉をめくった次の左側のページ、目次の前に、ギリシア語で書かれたエピグラフが置かれている。
これについては、巻末の富士川義之先生による「解説」に次のようにあった。
このギリシア語のエピグラフを見ただけで「おお! これは『オデュッセイア』の第二歌のあのくだり」などと思い当たるようであれば格好いいのだが(そしてエピグラフ採集&調査の仕事もきっと捗るのだが)、残念ながらそうはいかない。しばらく前までうろうろしていた「その他の諸言語文学」の棚に再度向かい、松平千秋訳、岩波文庫版の『オデュッセイア』を探して閲覧席に持ってくる。たしかに、第二歌の最後、オデュッセウスの息子テレマコスが女神アテネに導かれ、父を探す旅へと船出をする場面に、この一節が見つかった。
女神が起こした西風が、海面の上を吹き渡る。その風に乗って船は陸を離れ、沖へと進んでいく。訳語のリズムも波のようで、読みながら、船で海を渡る時の、甲板で風を受けている心持ちを思い出す。しかし、ふつうは青いはずの海が、なぜ「葡萄酒色」なのだろう? ……前のページを繰ってみると、これは陽が落ちたのちの船出であることがわかった(★9)。
テレマコスのその後はとりあえず『オデュッセイア』の本の中に置いておくこととし、吉田健一訳『葡萄酒の色』に戻って、エピグラフと周辺情報を記録し、せっかくなので幾つかの詩を読む。同氏のエッセイなどから受ける印象とはまた違い、わかりやすい訳語の連なりに、なにが、と捉えがたい不思議な美しさがある。
この、シェイクスピア「十四行詩 第一八番」(William Shakespeare, Sonnet 18, The Sonnets, 1609)の冒頭部分の訳について、巻末の富士川義之「解説」で竹友藻風、西脇順三郎による訳文との比較がされていた。それぞれの訳文を後注★11に引用しておく。
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「詩」のカテゴリーの調査を続ける。岩波文庫の「イギリス詩人選」の一冊、『対訳 ブレイク詩集』(松島正一編、2004)を1ページずつ繰っていくと、先人からの思わぬ置き土産があった。
「無垢の予兆」の訳題で知られる詩”Auguries of Innocence”の原文のタイトルに花の付箋が、通し番号を花弁で囲むように貼られている。「この詩は素敵ですよ」と、あとに続く読者たちに知らせてくれている。
図書館の蔵書は、このような、先人の過ごした時間の痕跡に偶然出会うことがあってたのしい。しおり代わりにしたらしいコンサートや映画、植物園などの半券や買い物のレシートが挟まれたままになっていることはよくある。これらの多くは、気づかずに残してしまった「跡」であって、投壜通信のように意図的に残されたメッセージではない。たまたま残ってしまった影、匂いのようなもの。それにたまたま、私のような誰かが出会う。この本をかつて読んだ別の人の存在、別の人の時間をほのかに感じる。
この日はほかにテネシー・ウィリアムズ『欲望という名の電車』、P・B・シェリー『鎖を解かれたプロメテウス』、ワシントン・アーヴィング『ブレイスブリッジ邸』、ジェーン・カンピオン『ピアノ・レッスン』などのエピグラフが収穫だった。
『改訳 ブレイク叙情詩抄』(寿岳文章訳、岩波文庫、1931)には、訳者の寿岳文章先生によるエピグラフがあった。
☆8月の「エピグラフ旅日記」はお休みをいただきます。次回の更新は9月末日の予定です。