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【連載】異界をつなぐエピグラフ 第1回|夢で手にした花のように|山本貴光

「エピグラフ」とはなんぞや?
──書物をひらいたとき、扉ページの裏側やタイトルの左下などにそっと添えられている短かな(ときに長々とした)引用句。そう、アレです。

おそらくたいていの読者は、さらっと目をとおし、これから始まろうとしている世界の予感をキャッチして、「ではいざ」と視線を移し、本文の海に飛びこんでしまう。エピグラフは置き去りにされ、再び顧みられることは少ないかもしれません。
しかしエピグラフは、著者が本文には書き入れることのできない思惑や思い入れ、愛憎や怨嗟、読者へのメッセージ……などなどを、多くの場合は他人のテキストを引用することによって、こっそり仕込み、託し、読者へと伝えてくる、隠されたコミュニケーションのフィールドです。
つまり、著者が自分の作品をどう見ているかというメタな視線とともに、著者の「ついつい」あふれだしてしまう思いが露呈していることも少なからずある、実はなかなかに興味深い「場所」なのです。

ただいま創元社では、山本貴光さんを編著者にお迎えし、このエピグラフに着目した『エピグラフの本』(仮題)を制作中です(2023年2月刊行予定)。古今東西の文芸作品や学問的著作、その他の領域もろもろすべての「作品」のエピグラフを集め、読者のみなさんと一緒にながめて愉しむ──
そんな、ありそうでなかった本を、ゆっくり、じっくり、みっしりと編んでおります。

出版に先行し、ウェブ連載を開始いたします。毎月15日は、山本さんにエピグラフについて縦横無尽に記していただく「異界をつなぐエピグラフ」。末日はエピグラフ採集者の藤本なほ子が担当いたします。
この連載と書物の刊行をとおして、本をひらくとついついエピグラフをチェックしてしまう、果てには何につけてもついついエピグラフを考えてしまう、そんな「エピグラファー」が世に増えてゆくことをたくらんでおります。まずは本連載にて、限りなく広がるエピグラフの宇宙のお散歩を、どうぞお愉しみいただけますように。


第1回 夢で手にした花のように

もしもある人が夢の中で楽園を横切り、そこにいたことの証しとして花を一輪もらい、もしも目覚めた時手にその花があったとしたら……それからどうなるのだろうか?
── S・T・コールリッジ(★1)

1.読書は夢のごとく

 本を読むのはどこか夢を見るのと似ている。読んでいるあいだは、たしかに文字を目にしている。でも、目にした文章がそのまま記憶に残ったりはしない。ものを読むとき、文字から文字へ、行から行へと目を動かしてゆく。そして車窓から見える景色が移り変わっていくように、いましがた目にしてきた文字や文章も、かたとき脳裡に像を結んだかと思えばまたほどけてどこかへ消えてゆく。代わりにただ「こういうことが書かれていた」という印象のようなものが残る(ここまでを読んだあなたの場合はどうだろう)。

 もっとも本は夢とはちがって物質に固定されている。その気になれば、もう一度同じものを読めるし、あるページを何度も訪れることだってできる。さらにはお望みなら気に入った文章をページから持ちかえってもよい。抜き書きすれば言葉を採集できるのだ。

 採集してどうするのか。どうもしなくたってよい。蒐集自体が楽しみでもあるのだから。とはいえ、人生ではしばしば、ただ楽しみのためにやっていたことが、あとで思いがけずなにかの役に立ってしまうということがある。

 例えば、この文章のはじめに掲げたコールリッジの言葉は、その昔、国書刊行会から出ていた「世界幻想文学大系」の第43巻として日本語に訳された、ホルヘ・ルイス・ボルヘス『夢の本』で出会って以来、私の文章採集帖に収められてきたものの一つだった。記憶のなかでは、あの装幀も忘れ難い本の印象と分かちがたく結びついている。

 エピグラフについて考えるとき、なぜだか知らないけれど、このボルヘスに教えてもらったコールリッジの言葉が思い出される。そう、エピグラフの話だった。

2.エピグラフのほうへ

 ところでお伝えするのが遅くなったが、この連載ではご一緒に「エピグラフ」を眺めたり検討したりしながら楽しんでみたいと考えている。月に二度の更新予定で、前半がいまお読みの山本の担当、後半がアーティストで編集者の藤本なほ子さんの担当という具合に交互に書いてゆくことになっている。それぞれの分担については、連載が進むにつれておのずとお分かりになると思う。というわけで、話を進めよう。

 エピグラフ(epigraph)とはなにか。

 この英語の言葉にはいくつかの意味がある。ひとつは日本語で「碑文」や「碑銘」に対応する意味で、これは墓や建物などに刻まれた言葉を指している。もうひとつは、本の冒頭や章のはじめに添えられる短い文章のことで「銘句」や「題辞」に対応する。他の意味や語源については、次回以降に触れることにして、ここではもっぱら二つめの意味、つまり言葉としてのエピグラフについて検討してみたい。

 本を読んでいると、ときどき冒頭に他の本から借りてきた言葉が添えられていたりする。本文から少し離れた場所に、ちょっと小さな文字で、横書きの本なら右側に寄せて配置されているケースも多い。これがエピグラフだ。

 私がこれまで目にした限られた範囲での話だが、エピグラフは引用句であることが多い。これはなんだか面白いことのように感じて、以前からずっと気になっていた。どのくらい前からかといえば、高校生くらいの頃からである。私自身の話はこの際どちらでもよいのだけれど、エピグラフの面白さをお伝えするために少しお話ししてみよう。

 文学や人文書方面では、エピグラフは珍しくはない。よく見かけるので、かえって印象に残らなかったりもするくらい。むしろ強く印象に残っているのは、例えばプログラムの本でエピグラフとしてプラトンやニーチェの言葉が引用されているのを見かけるような場合だ。

 なぜ印象に残ったかといえば、理系の本に文系の本が侵入してきているような気がしたのだと思う。もちろんプログラムの本に哲学書からの引用があってもなんの問題もない。むしろそのことに驚いた当時の私のほうにこそ原因があったのだろう。なにしろ高校では文系か理系かを選べと迫られており、いったんどちらかを選んだら、選ばなかったほうのことは脇に置くというカリキュラムだったから(迷った結果、私は理系を選んだ)。プログラムの本に哲学書の引用が顔を出しているのは、なんというか文と理のあいだにある壁だか溝だかをひょいと越えているように見えたわけである。文理の区別を気にしなくなったいまでは、いいねェとは思っても驚きはしない。

3.エピグラフは異世界をつなぐ

 いま「ひょいと越える」と述べた。これはエピグラフという表現に備わった大きな特徴だと思う。というのは、ある文章(Aとしよう)の冒頭に、別の文章(同じくBとする)の一部を抜粋して添えるという事の次第からしてお分かりになるかもしれない。文章Aに対して、この世に存在するあらゆる文章がエピグラフになりうるのだから。

 例えば、文章Aは現代の日本語で書かれた小説だとする。それに対して引用する文章Bは、古代エジプトの行政文書でもいいし、10世紀のアラビア語による天文学書でもいいし、19世紀ドイツの法律書でも、江戸の人情ものでもその他なんでもよい。エピグラフに使う引用句は、どの時代のどの言語のどの分野の言葉であっても構わない。

 こんなふうにしてエピグラフでは、異なる時代や場所や言語の文章同士を出会わせるわけで、これが「ひょいと越える」と述べたことの意味だった。ちょっと大袈裟に言えば、エピグラフは、ある文章の世界を、それとはまた別の文章の世界と接続する異世界への扉のようなものなのだ。その扉からは、向こうに広がる異世界(文章B)のごく一部だけが見えていて、それが前景となる世界(文章A)と重なることで、どちらか一方だけでは生じない光景を生み出すわけである。いや、むしろ読者の目にはエピグラフが先に入るのだから、異世界(文章B)から出発して本来の世界(文章A)に進むとみるべきか。

 それぞれ別のものから切り取った図像や写真を貼り合わせるコラージュのように、どこかから採集してきた言葉を自分の文章の冒頭に貼りつけること。思えばこうした操作は、パーソナルコンピュータでの文書作成がすっかり普及した現在では、エピグラフに限らず日常茶飯事のように行われている。また、引用ということなら、文章の冒頭に限らず、文中でもさまざまに行われている。

 そう考えると、エピグラフがもっぱら本や文章の「冒頭」に置かれることの意味についてはよく検討してみる必要がありそうだ。これについては、連載を進めるなかで具体例を見ながら考えてみることにしよう。

4.架空のエピグラフ

 先ほど「この世に存在するあらゆる文章がエピグラフになりうる」と書いた。これをみて「いや、他の可能性もあるよ」と思った向きもあるだろう。そう、エピグラフに使われるのは既存の文章だけではない。例えばこんなケースがある。

 アラキーン宇宙港の出入口の上には、ありあわせの道具で彫ったのか、稚拙な彫りの銘文が刻まれている。のちに何度となくこの銘文を引用するムアッディブがはじめてそれを目にしたのは、アラキスに着いて最初の晩、父公爵が宇宙港に設けた指揮所において、最初に召集した幕僚会議に出席した折のことだった。銘文の内容は、アラキスを離れようとする者たちに対する願いだったが、からくも死の罠を脱した直後の少年の目に、それは先行きを暗示する不気味な語句と映った。その銘文にいわく──“おお、汝ら、われらのこの地における苦しみを知る者たちよ、祈りにさいして、けっしてわれらを忘るるなかれ”。
── プリンセス・イルーラン
『ムアッディブを知る』より

 これはフランク・ハーバートの小説『デューン 砂の惑星』に載っているエピグラフだ(★2)。ご覧のように、プリンセス・イルーランの『ムアッディブを知る』という文書からの引用である旨が示されている。といっても、これは実在する文書ではない。この小説の世界のなかに存在するものとして描かれた虚構の文書から引用されたエピグラフだ。この小説では、章ごとにこうした小説世界内の文書の抜粋がエピグラフとして掲げられている。

『デューン 砂の惑星〔新訳版〕』のエピグラフ(★2)

 いまお目にかけたエピグラフは少し長いのだが、ここで引用してみたのにはわけがある。外でもない、エピグラフの実例とその使われ方が示されているからだった。少し見直してみよう。

 それがどういう場所かは措くとして、宇宙港の出入口の上に「銘文」が刻まれているとある。英語の原文ではinscriptionで、先にご紹介した「エピグラフ」という言葉の意味のひとつ「碑文」のこと(★3)。

 それだけでなく、この碑文(銘文)に刻まれた内容も示されている。「おお、汝ら、われらのこの地における苦しみを知る者たちよ、祈りにさいして、けっしてわれらを忘るるなかれ」とは、先人たちからの助言、あるいは忠告なのだろう。これが港という人びとの目につく場所に刻まれているわけだ。

 それが何者かは措くとして、ムアッディブと呼ばれている人物はこの碑文をことあるごとに引用していたようだ。つまり、宇宙港に刻まれた碑文の文句を、ムアッディブは自分の脳(身体)にも刻み込んでいた。エピグラフが物質から身体へとコピーされたと言ってもよい。

 私たちは、日頃そんなふうに自覚しないものの、なにかを覚えるときには、脳の神経細胞の接続が変化していると考えられている。言い換えれば、記憶とは身体に生じる物理的な変化であり、それを私たちは奇しくも「記憶に刻む」とか「体に刻む」と喩えたりしているのだった。

 また、この碑文を目にした少年の心に「先行きを暗示する不気味な語句」という印象を与えた様子も記されている。

 これはもはや私の想像だが、もしここに刻まれた文章が、例えば三千文字くらいあったとしたら、このようにはならなかったかもしれない。ムアッディブがことあるごとに引用したり、目にしてなにかを思ったりするにはいささか長すぎる。比較的短くて暗唱しやすく、ぱっと目に入ってすぐ読めるからこそ、ここに描かれたような状態も生じるわけである。

 碑文としてのエピグラフについて言えるこれらのことは、引用句としてのエピグラフを考える上でもヒントになるかもしれない。本や章の冒頭にぽつんと比較的短い言葉が置かれることの意味やその働きを眺めてみる際の手がかりとして、頭の片隅に置いておくことにしよう。

 というわけで、先ほど引用したエピグラフ、紛れのないように正確に書くなら『デューン 砂の惑星』の世界に存在する『ムアッディブを知る』という文書から、『デューン 砂の惑星』の章の冒頭に引用されたエピグラフは、「碑文」という意味でのエピグラフがもつ働きを描いてみせていた。つまり、物質に刻まれた短い言葉がそこに留まり、目にした人の記憶に入り込んでときには心を動かす次第が記されていた。架空の文書を引用したエピグラフの例を示すのが当初の目的だったのだが、結果的には「碑文」と「引用句」というエピグラフの二つの意味が重なるような面白い事例でもあったのはめっけものである。

 それにしても、人はなぜエピグラフを置くのだろう。どんなふうにしてエピグラフを選ぶのだろう。そこでは具体的にどんな効果が生まれるのだろう。などなど、考えてみたいことがあれこれある。

 少なくとも言えそうなのは、どこから引用をするにしても、人はそれまでに目にした文章をなんらかのかたちで取り置いて、それを自分の文章の冒頭に置くということである。それは、目覚めたあとに夢の内容を忘れてしまったとしても、そこで手にした花だけは持ちかえっているのとどこか似ているように思うのだった。


★冒頭画像
Duncan and Smyth, Book Parts, Oxford University Press, 2019. p.167 Book Partsは書物の構成要素を一つずつ論じた本で、写真はエピグラフに関する章の冒頭に置かれたエピグラフ。アメリカの作家フラン・ロスの小説『オレオ』(1974年)から引用されている。

★1 「証し」と題されたこの文章は、ホルヘ・ルイス・ボルヘス『夢の本』(堀内研二訳、河出文庫、2019)p. 90から。Jorge Luis Borges, Libro de Sueños, Torres Agüero Editor, 1976, p.44. 本文中で言及している国書刊行会版は『夢の本』(堀内研二訳、「世界幻想文学大系」第43巻、国書刊行会、1983;新装版、1992)。原書でボルヘスが引用しているコールリッジの文章は、スペイン語に訳されている。コールリッジの原文は英語で書かれており、現在ではEdited by Kathleen Coburn, The Notebooks of Samuel Taylor Coleridge, Volume 3 1808-1819, Routledge, 2002.に収録されている1816年のノート(CN4287)で確認できる。

★2 フランク・ハーバート『デューン 砂の惑星〔新訳版〕』(上巻、酒井昭伸訳、ハヤカワ文庫SF、早川書房、2016)p. 201。Frank Herbert, Dune, ACE, 2010, p. 133. 原作の初版は1965年刊行。

★3 詳しくはこれもまた次回以降に述べるが、エピグラフ(epigraph)という英語の語源は古代ギリシア語のエピグラフェー(ἐπιγραφή)という。この古代ギリシア語に対応する英訳のひとつがinscription(碑文)なのだった。

◎プロフィール
山本貴光(やまもと たかみつ)
文筆家、ゲーム作家。東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授、金沢工業大学客員教授。
コーエーでのゲーム制作を経て、2004年よりフリーランス。主な著書・共著に『記憶のデザイン』(筑摩書房)、『マルジナリアでつかまえて』(本の雑誌社)、『文学問題(F+f)+』(幻戯書房)、『「百学連環」を読む』(三省堂)、『人文的、あまりに人文的』(吉川浩満との共著、本の雑誌社)、『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。』(吉川との共著、筑摩書房)、『高校生のための ゲームで考える人工知能』(三宅陽一郎との共著、ちくまプリマー新書)、『脳がわかれば心がわかるか』(吉川との共著、太田出版)ほか。
好きなものはカステラ。座右の銘は「果報は寝て待て」。
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YouTubeチャンネル「哲学の劇場」(山本貴光・吉川浩満) https://www.youtube.com/c/tetsugeki