【短編小説】二番目の女の話
あの男は、男からも女からも好かれていた。
音を楽しみ、煙草を吸い、酒を嗜む、いかにも「かっこいい」男だった。
歳の割に長い髪、痩せ型で、服装はいつだってお洒落で、どこか頼りなく見えても、ほんの少しの凶暴性を隠してるようで、抱かれてる間はたまらないほどに魅力的だった。
私はあの男を本当に好きだったのかも、本当は嫌いだったのかもわからない。
ただ彼が回してる音に酔わされたのだろう、古くていいレコードがあると誘われて、彼の部屋に行った。
もちろんタワマンなんかじゃない、普通のアパートなのかマンションなのかわからないような造りの家。
やたらお洒落な雑貨や本、旅した外国で買ったであろう雑貨が、彼の本性を隠しているように見えた。彼は古くて落ち着いた曲のレコードを手慣れた手つきで流す。
私はレコードのかけ方など知らない。
彼の人生は雑貨や洋服やレコードからでは、計り知れなかった。
彼からは複雑さと神秘的な色気を感じた。家にシーシャなどあるせいだろう。
私はシーシャをゆっくり吸ってゆっくり吐いた。
初めて吸うシーシャはとても甘くて、彼の唇も甘かった。
その甘さには嵌るのに時間は掛からなかった。
そのまま私は1ヶ月に数回会うか会わないかの関係になり、毎日仕事をして、彼に会って、日々が過ぎた。あっという間に4年が過ぎ、26歳になっていた。
周りはどんどん結婚していく。私は彼と付き合っている気持ちはなかった。
彼には私のような女がたくさんいることを知っていた。
女のカンではあるが、間違いない。付き合おうとか、まして結婚とか、そんな願望はなかった。いいや、ないと思わないと、彼との関係を続けられないことを知っていた。私を抱いている時だけ、私だけを見てるならそれでよかった。
だけど、私は26歳になってしまった。
周りはどんどん結婚し、2人目の子どもが生まれた友人もいる。さすがに自分がやっていることをおかしいと思い初めてきた。でも私は誰にも迷惑はかけていない。彼には彼女も妻もなく、私もずっと独りだ。
お互い、たまに会う関係で満足していた。
会って、食事をして、彼に抱かれて眠り、私が朝ごはんを作る。彼が煙草を吸い終わるのを待って、駅まで送ってもらう。
その土曜の朝が、何よりも愛しくて、何よりも大切だった。私にとって彼は大切な存在なのだ。
他にどんなに、たくさんの女の子が、いたとしても。
「話がある」
突然、彼から来たLINE。
「電話する?」と返信すると
「いや、会って話したい、今日来れる?」
金曜の夜。
いつも通りだけど、いつもなら木曜のうちに「明日おいでよ」と来るLINE。今日は突然の誘いだった。
珍しいし驚いたけど嬉しい。だけど話があるとは一体なんのことだろう。
もしかして彼女が出来たのかもしれない。はたまた結婚でもするのかも。
でもそれならLINEや電話で話した方が、後腐れがないはず。
わざわざ会っていうなんて、なんだろう、と、私のよくない少女漫画脳が動き出す。「もしかして正式に付き合おうとか言われる?」「朝ごはんが毎日食べたいとか言われる?」などと、自分でも驚くくらいおめでたい妄想を膨らませていたら、いつの間にか定時になっていた。小舅みたいな上司の目をすり抜け、お先に失礼し、トイレで必死にメイクを直した。歯磨きもして、会いに行く。
何を話されるのだろう。
会えるだけでも嬉しいからか、真冬なのに寒ささえ感じなかった。
インターホンを押すと彼が玄関を開けた。
「寒かった?突然ごめん」
と、言い、私をハグしながら鍵を締めた。
家に入って、ソファに座る。
「コーヒー飲む?」と彼が言う。
「うん」と返す。
「ミルクもちゃんと温めてあげる」と吸いかけの煙草を置いて、彼は私のカフェオレを準備し始めた。私はブラックコーヒーが飲めない。
私はコートを脱いでマフラーを外して、いつものソファでソワソワしながら待った。カフェオレが出来たら今日の話に入るのだろうか。気を紛らわしたくてテレビを勝手につけた。今日もスポーツの大会が行われ、戦争や殺人や大きな地震があったみたいだ。混沌とした世界で私は、座って、彼が作るカフェオレを待っている。これはもしかしたら「幸せ」に近いものかも、などと考えていると目の前に私のカップが置かれた。
「できたよー」
「ありがとう」
温かくて美味しいカフェオレ。コーヒーの味はよくわからないが、彼が作るカフェオレは優しい味がする。いや、そんな気がするだけなのだろう。
「話あるって言ったじゃん」
「うん、何?話って...」
切り出された瞬間、鼓動が早くなった。
彼はコーヒーを見ていた。
ほんの一瞬の間に「告白?コーヒー屋でもやる?引越し?結婚?」などと無意味な考えを巡らせた。
「俺、余命宣告された。長くてあと3ヶ月だって」
「...ドッキリ?」
バカみたいな言葉が出た。何を言われたのか理解できてない。きっと冗談だろうと思った。「なーんちゃって」とか言うんだろうと思った。その言葉を期待して、私はヘラヘラしていたと思う。彼はふっと下を見て、柔らかく微笑んだ。
「残念、ほんとう。」
「...いつわかったの?」
「3日前。最近ちょっと体重くて、体重減って、色々おかしかったから、病院行ってみたら、末期だってさ。安心して、うつる病気じゃないから」
彼は笑いながら言った。私はまだ理解できていない。
「3ヶ月って...」
「短いよなあ」
「なんで笑ってられるの」
「どーしようもないからねえ」
泣くことも出来ずに呆然と立つ私を、彼は抱きしめた。甘い匂いがした。
私から彼を奪うものは、どうやら女じゃないらしい。
そして彼は3ヶ月後にはこの世から無くなってしまうらしい。
現実味を帯びないままキスをして、その後はいつもの金曜の夜と同じだった。
一緒に眠れるのは、これが最後になるのだろうか。
朝起きたらいなくなってたりしないだろうか。不安で、初めて手を繋いで寝た。
来なくて良いと思った朝が来た。驚くほどに天気がいい。
私は顔を洗って、うがいをして、軽くメイクをして、朝ごはんを作り始める。
最後の一緒に食べる朝ごはんになるのだろうか。
いつも朝ごはんを食べない彼が、私のお味噌汁だけは食べたいと言ってくれるのが嬉しくて、いつも材料を買ってきた。今日もまた美味しいと言って欲しかった。
彼が起きてきた。
「おーはよ、いいにおーい」と、目を擦りながら洗面所に向かう。
彼の分の味噌汁をお茶碗に、私の分はマグカップに入れて朝ごはんだ。ここに私用の食器はない。
「はー、やっぱり美味しいなあ」
「よかった、一応毎回、旬のもの入れてる」
「いい奥さんになるねえ」
「なるよー」
そんな会話をした。引っかかったけど、そんなところで自身の想いをぶつけても何もならないことを私はわかっていた。奥さんにしてよ、なんて、言えるはずもなかった。
食べ終わって、洗い物をして、私はコートを着た。彼もダウンを着た。駅まで歩く道は、10時を回っても冷え込んでいて、寒い寒い言いながら歩いた。
「写真撮っていい?」
彼が言った。
「え、どうしたの、珍しい」
「天気いいし、なんか綺麗だから」
「何それ」
カシャ
「このスマホ、棺桶に入れてもらう予定」
「燃えちゃうじゃん」
「いいんだよ、連絡先も全部天国に持っていく。あ、俺って天国行けるのかな?」
「無理そう」
「ひでぇー」
駅に着いてしまった。
いつもは「またね」と言っていたけど、今日はどう別れたらいいのかわからなかった。
「じゃ...また...」
「また、はないと思うわ」
「...やめてよ」
「ありがとう、4年も。味噌汁うまかった、ほんとに。」
「やめてってば」
「ごめんね」
ボロボロ出てくる涙を止められなくなった。足は竦むし、みっともない。
駅で泣く女なんてダサすぎる。彼が私の頭を撫でて、一頻り呼吸が整った後、私は改札に体を向けた。
「お大事にね」
「おう、サンキュー」
「何かできることがあれば言ってね」
「優しいな」
「またね」
「...ん」
ピッとSuicaの音が鳴った。
彼は私が見えなくなるまで手を振った。
家に着いて、彼の好みの服を脱ぎ、シャワーを浴び、メイクを落とし、昨日のことを思い起こす。余命宣告なんて、ドラマの世界の中の話だと思ってた。
だって彼はまだ40歳なのに。おかしい、あんなに格好良くて、煙草が似合って、お酒が好きで、仲間がたくさんいて、恐らくは彼を愛する女もたくさんいて、それでいて短命だなんて、おかしい。
どこまで格好良い人生にする気なんだろうか?そんなに魅力的な人間が宿命として短命だなんて、出来過ぎている。
もしかして私は騙されているんじゃないか?他の女と結婚でもする前に私を一回抱いておきたかったとかそんな軽薄な理由を可哀想な嘘で隠したんじゃないか?だってそうじゃなければ、あまりにも格好良いではないか。
おかしいのだ、私は悔やしいのだ。
彼がそんなに格好良い生涯を遂げるなど許し難い。
老いぼれて、誰にも愛されず、這い蹲って、糞尿にでも塗れて、自我を失って見窄らしい死を遂げて欲しかった。
墓もなく、誰も看取らない最期であって欲しかったのに。
どうしてそんなに格好良く生きているのか、虫唾が走った。
悔しくて悔やしくて、数日眠れなかった。
1ヶ月後、彼が本当に死んだのを確認した。
聞いていた期間より早かった。彼の仲間たちがTwitterでR.I.Pツイートをしていた。家族に看取られて息を引き取ったようだ。
そのツイートを発見した時は、彼の発言が真実だったことに安堵した。
私は嘘をつかれていなかった。
だけど私の中にはずっと引っかかっている点があった。
病気がわかった当日に連絡をくれなかったこと、病院を教えてくれず、お見舞いも看取りもできなかったこと。
あの朝以来全く連絡をくれなかったこと。
結局私は、最期まで側に居たい女ではなかったのだろう。
悔しくて悔しくて、悲しみと悔やしさで日々が暮れていった。
だけど彼は、他の女と結婚したわけでもない。
つまり私は彼に恐らく最期に抱かれた数人の女であり、彼はもうこの世にいない。嫉妬することも、連絡が来ることも、味噌汁の具を考えることもしなくていい。
彼の格好良い死のおかげで、私の20代前半の馬鹿げた恋愛は、最高の締めくくりとなった。
聞いていた実家を訪ねてみようか。
そしたら墓参りもできるかも知れない。
いつか私も結婚して子どもを産むだろう。
墓参りには子どもと行こう。
幸せを見せつけてやりたい。
きっとあの日感じた幸せより、もっと素敵な幸せがある筈だから。
さようなら、私の最高に綺麗だった時を捧げた男。
忘れたくてもきっと忘れられない、完璧なラブストーリーをありがとう。
やっぱりね、私、あんたのこと、愛してなんかいなかったみたい。
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