ポレポレ

メーカーでUX/UIデザイン ちょっぴりライターもしていました

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最近の記事

発想力

私の先生は最近、学生の発想力がなさすぎると嘆いている。 曰く、 「雨といえば何を想像する?」 と尋ねてまわっては、その回答の単純さにがっかりするらしい。 その程度の発想力でデザインなんてできっこない、と。 想像力の欠落はもはや誰しもに通ずる命題で、他人をいとも簡単に傷つける例や、取り返しのつかない失敗を犯す例を、たくさん見かけますね。 ワイドショーをにぎわせるトピックのほとんどに、「ちょっと考えればわかるじゃん」という感想しか持てなくなってきました。 それもまた想

    • 2020年の「みんなちがって、みんないい」

      朝、いつもより早く目が覚めた上に、思考があることにロックされてバッチリと目がさえること、たまにありますよね。 そういう時に限って、脈絡も突拍子もないインスピレーションに、なかなかの理論にたどり着くわりに、結局何を考えていたのかその晩にはもう忘れているのが毎度のオチ。 シャワーを浴びている時もよくある。 人生なかなか上手くいかないものです。 今日はそんな啓示のうち、まだ奇跡的に覚えていることについて。 ☆☆☆ 金子みすゞさんの有名な詩。 『わたしとことりとすずと』

      • 愛も正しさも一切君には関係ない

        ここ最近、何度も何度も聴いている楽曲がある。 八月 / People In The Box 爽やかでちょっぴり切なくて耳馴染みのあるイントロで始まるこの楽曲。 夏休みが明けた9月1日のスカッとした空気を思い出させてくれる。 8月31日までと変わらない夏の暑さは残っているはずなのに、どこか気持ちは軽く、真新しい日々の始まりに高揚するような、あの感じ。 "透き通る朝"という歌い出しもその雰囲気を言い当てているようだ。 その一方で、飛び込み自殺を想起するような歌詞でこの楽曲

        • 地続きなグローバリズムを

          「グローバルな活躍」という謳い文句に、どうも疑いの目がある。 主に就活関連でよく遭遇するこの言葉は、とても魅力的に思えるよね。 「日本国内にとどまらず、世界を股にかけて活躍できる人材に憧れる!」と形骸化した価値観は、たしかにカッコイイ。モテモテ。いい匂いしそう。 自分も旅行が好きなので、世界のあちこちで何か役に立つということに興味はあるし、いつかできたらそれはとても刺激的だろうなと思うよ。 でもこの感覚は、ライバル会社同士しのぎを削って競争し、成功をおさめ、経験を積み、

          ニーズとイデアの間で

          デザイン史の勉強をしていて、作り手と使い手の距離が縮まってきているなぁと感じる。 デザインする側の目的は、受け取り手のニーズや価値観を重要視している。おしゃれや美しいやかっこいいの規準はいまや形骸化していて、一種の標準みたいなものすらある。いわゆる流行とか風潮とか。 作り手であるデザイナーももちろん使い手でもあって、使いやすさとか機能性とかは絶対に外せない要素だよね。 自分が実際に使うケースを想定して、その時の問題を解決するようにデザインは行われる。 作り手と使い手の距

          ニーズとイデアの間で

          流れるプールのその先へ

          高校の物理の授業で習った『波』。 理系の私でさえめちゃくちゃ苦手だったこのジャンル、多くの人にとってはさっぱりピーマンだと思います。 でも最近になって、この世界のいろんなものって、実は『波』っぽい動きをするものが多いんじゃない??と思うようになった。 物理のやりすぎだ~~なんて言わないで、まじで嫌いだからあの分野。 例えばさ、音とか光とか電気とかミクロな世界を突き詰めていくと、たいてい『波』の話になる。 みんながこの文字を読めているのも、音楽を聴けるのも、波のおかげ、身

          流れるプールのその先へ

          1945年8月6日午前8時15分

          うだるような暑さ。 身体中にしつこくまとわりつく湿度は、空気中に水分が含まれていることを嫌でも教えてくれるようだね。 そんな中、8月6日の蝉時雨はいつもどこか特別に聞こえる。 75年前の今日午前8時15分、一筋の閃光と地鳴りのような爆発音が広島県広島市の中心地を包みました。原子爆弾の投下です。 19年の歳月を広島県で過ごした私は、地球の歴史上最も非人道的で卑劣なこの出来事について、小さい頃から継続的に語られ続けてきました。 杖をついてやってくる語り手さんたちが、遠くの

          1945年8月6日午前8時15分

          背徳というプログラム、道徳というバグ

          レジ袋が有料化されてから、マイバッグを利用した万引きが横行しているというニュースを見ました。 こんなニュースを見て、怒りを覚えたり、愕然とするフェーズはもうとっくにすぎたのと同時に、なんだまたか、と感度が鈍った自分に気付きます。 たくさんの感情を取り込みすぎたせいで、私の心の周りには分厚くしつこい脂肪がついてしまいました。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー このニュース、神様による人間の知能実験というか社会実験というか、所詮人間は単純なプログラムで構築されていて

          背徳というプログラム、道徳というバグ

          名前という記号

          いつかの誕生日に、両親から命名秘話を明かされたのを今でも覚えている。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 2人は命名に際して、2つの案で悩んでいたらしい。 ひとつは、結果的にいまの名前になっているもので、こちらの由来や経緯については、小さい頃から聞かされていた。 これに込められた想いの通りに生きられているのかはいまでもたまに自問するけど、まあよくやれていると思う。及第点だ。 そしてもうひとつ。こっちは衝撃の問題作。 「明日」と書いて、"ともろう"と読ませるもの

          名前という記号

          生の神格化

          自殺。自決。自死。 もし友人がこれを決意したとき、みなさんは説得できますか。 私には、できない。できる自信がない。 もちろん友人のことは、自分と同じくらい大切だしいなくなってほしくないけど、信頼している友人だからこそ、下手な説得はできないし、そこには彼/彼女なりの正義が通っているはずだ。 そもそも、生は尊く、死は卑しいという構造自体疑わしい。 死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。 ー『ノルウェイの森』/ 村上春樹ー 有名な一文があるように、生と

          生の神格化

          小手先のデザイン

          モノが、サービスが、コンテンツが溢れる現代では、表向きのデザイン(魅力?)の役割が大きいですね。 おしゃれ、安い、可愛い、かっこいい、綺麗、キュンキュン、お金持ち、小さい、軽い、etc... まさにその瞬間的な魅力の偏重に、うんざりする日々です。 研究室の先生が、 「最近は、小手先のデザインが誰でもできる」 とよく言っている。 むかしの人に比べたらいまの人は、絵も歌も格段に上手らしい。 もちろんメソッドやツールを簡単に共有し利用しやすくなっているのもあるけど、In

          小手先のデザイン

          競争から共創へ

          たまには専門に絡んだお話を。 私は大学で、デザイナーとエンジニアの共創について研究をしています。 芸術由来のインダストリアルデザインと工学由来のエンジニアリングデザインとの統合は、現代のモノづくり・コトづくりで大きな役割が期待されています。いわゆるデザインエンジニアリングと呼ばれる新しい領域です。 そしてこの両者の関係に加えてもう一つ欠かせないのが、ビジネス領域。 よくBTCモデル(Business, Technology, Creative)といわれるこれら3つの関

          競争から共創へ

          カテゴライズの安心感と呪縛

          ユニバーサルデザイン ユーザ個人の文化、国籍、性別、年齢、能力に依らず、遍くすべての人にとって使いやすいモノやコトをデザインしようというこのデザインの方法論は、ユートピア的思想で非現実的だと言われてはいるものの、素敵な考えだと思います。 このような考えは、最大公約数的な日常から除外されてきたマイノリティにも目を向けよう!という風潮のもとで広められていきました。 そして今では、世界中の市民レベルで重要な問題として認知されるようになっており、文化的・民族的ダイバーシティが比

          カテゴライズの安心感と呪縛

          Industry 4.0の浦島太郎

          先日、あるインスタライブを見ていたら、 浦島太郎の教訓とは何なのかという考察が行われていた。 そしてそこでたどり着いた解釈の一つに、 「竜宮城での体験は、浦島太郎が本来一生のうちに味わえるであろう幸福や快楽の前借りである」 というものがあった。 そして一生分の幸せを体験した浦島太郎は玉手箱を開けた途端、その分の年月を失うのだ。 この考察を聞いていて、なるほどな〜〜面白いと思った。自分にはまったく思いもつかなかったからね。 と同時に、現実問題に置き換えて考察をより深めよ

          Industry 4.0の浦島太郎

          ウェルテル効果

          先日、オンラインでもオフラインでも持ち切りになった、ある訃報に関連するニュースをぼーっと眺めていた。自分もあの番組をよく観ていたので、あの訃報はまるで知り合いのことのように胸が締め付けられた。 このとき、匿名の暴力にまつわる瑣末な議論よりも、ウェルテル効果が頭をよぎった。 メディアの自殺報道に影響を受けて自殺者が増える、といった内容のこの現象は、あながち的を得ているように感じる。 ただ、後を追うように、というよりは、背中を押すように、という意味の方で。 まだ20数年しか生

          ウェルテル効果

          何か足りない

          世界中に流布する資本主義が人間に寄生し、モノや情報が目まぐるしく渦巻く現代。 私たちはいつも、「何か足りない」とどこかに不足したピースを嘆いては、"もっと"を追いかけている。 ないものすべてをねだり、隣の芝生はいつだって青く見える。 欲しいと思ったものをクリックしたのも束の間、手に届く時にはすでに次の商品に釘付けだ。 欲望と消費の追いかけっこ。いまではついに、欲望が消費を追い越した独走状態だ。自身のしっぽに見惚れてどこまで加速するのか見ものですね。 最近は、私たち人間の

          何か足りない