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1945年8月6日午前8時15分

うだるような暑さ。
身体中にしつこくまとわりつく湿度は、空気中に水分が含まれていることを嫌でも教えてくれるようだね。

そんな中、8月6日の蝉時雨はいつもどこか特別に聞こえる。


75年前の今日午前8時15分、一筋の閃光と地鳴りのような爆発音が広島県広島市の中心地を包みました。原子爆弾の投下です。

19年の歳月を広島県で過ごした私は、地球の歴史上最も非人道的で卑劣なこの出来事について、小さい頃から継続的に語られ続けてきました。

杖をついてやってくる語り手さんたちが、遠くの方を眺めて力強い語調で語る体験談は、今でもセピア色の映像として脳内にくっきりと焼きつかれています。

焼きただれた皮膚。蠢く真っ赤な川面。一瞬にして吹き飛ばされた更地。

私自身もいまだに、祖母の兄弟が被ばくした経験談を毎年聞くんだけど、毎回初めて聞くエピソードは、どんな映画よりもリアリティのある描写で語られて、心を痛める。

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大学入学とともに上京した私は、原爆に対する知識や関心の地域的なギャップに大きなカルチャーショックを受けた。

東京の友人に話をしても、原爆が投下された時間はおろか年月日すら知らない人が本当にたくさんいて愕然とした。無知な友人にというより、関心のなさに。

あの悲惨な出来事は、いまとなってはある地域でしか色濃く語り継がれていないし、同じ国の別の地域ではもはや他人事、せいぜい歴史の教科書に太文字で記載されている程度なんだって。

広島県の8月6日は、原爆記念式典のライブ映像や、関連する特集が各局のテレビ欄を埋めるし、午前8時15分には、黙祷を促すアラームが広島県内に響き渡って、誰もが目を伏せて当時の映像をフラッシュバックさせるんだよ。

のに対して東京では、歴史もどこか遠くの場所で起きた出来事もいまの自分には無関係と、傍若無人な驕りとストレスで混濁する満員電車のあちこちで、肘打ちや舌打ちが勃発している。
こんな匿名の紛争が今日も繰り広げられていて、本当に悲しい気持ちになる。


おそらく自分は世界の中でも、平和について考え、友人に語る時間を多く割いてきた人間だと思う。

それでも世界平和とか、核廃絶とか、そんな巨大なスケールの問題をどうにかできる力も期待も、ちっぽけな私やあなたにはないし、ある時に祈った世界の和平も日々の忙しなさには簡単に摩耗し消えてしまうものなわけで。

だからもしあなたが少しでも、悲しむ人が一人でも少なくなる世界を願ってくれるのなら、あなたの友人を、今となりにいる人を、あなたを大切に想ってくれる人を、きちんと大切にすることができたら、少しでも素敵な世界になっていくと思うんだよね。

手の届く範囲、目のいき渡る範囲で十分だから、そこに精一杯の優しさや愛を配ってほしい。

私もこれまでこうやって大切な人たちと接してきたし、優しさの数珠繋ぎで地球を一周できると本当に期待している。

海の向こう側とか、人種の違う人についてあれこれ悩むより、目の前の人と笑いあうことに全霊をかける方がよっぽど簡単で幸せだよね。


そして、世界ってものは実はとても単純だってことも私は知っている。
あなたの周りの世界が平和でいるとき、メタレベルな世界もたいてい上手いことまわっているんだよ。

顔をあげて見渡せば 季節が変わる匂いがした
金色の塵が頬をかすめる 思い出すのはなに
ー『季節の子供』/ People In The Boxー

(上記の楽曲が収録されている『Talky Organs』というアルバムは、戦争を匂わす風景の中の高揚、達観、風刺、勇敢、賛美、戦火、虚無、そして次の気配などが渦巻く作品です。この機会にぜひ。)

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