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2020年の「みんなちがって、みんないい」

朝、いつもより早く目が覚めた上に、思考があることにロックされてバッチリと目がさえること、たまにありますよね。

そういう時に限って、脈絡も突拍子もないインスピレーションに、なかなかの理論にたどり着くわりに、結局何を考えていたのかその晩にはもう忘れているのが毎度のオチ。
シャワーを浴びている時もよくある。
人生なかなか上手くいかないものです。

今日はそんな啓示のうち、まだ奇跡的に覚えていることについて。

☆☆☆

金子みすゞさんの有名な詩。

『わたしとことりとすずと』

皆さんが使っていた"新しい国語"にも、きっと掲載されていたと思います。

人間(というか生きとし生けるもの全て、ないし物質的な存在すべて)には、それぞれの得意/不得意、出来/不出来などの様々な特徴があるけど、それらすべてはただの違いであって、それぞれがいいことなんだよ、ということ。

このように素晴らしい作品というものは、往々にして、受け取り手や時代に応じて、意味や解釈が少しずつ変容していくものです。
むしろ、変容してもなお綻びを見せず語り継がれる作品ほど、素晴らしいものだと私は思います。

この詩、この一節もまた、いままでとは少し違って伝えられる必要があるんじゃないかと。
そんな考えが、蒸し暑い起き抜けに閃光のようによぎってしまったのです。
ゆっくり眠らせてくれ。

☆☆☆

2020年、個人の属性や思想をめぐって、たくさんの争いや水掛け論があちこちで勃発している。

ジェンダー、人種、年代、文化、政治的思想...

グローバリゼーションが台頭して、ユニバーサルでインクルーシブな概念が注目を浴び、人間の多様性に配慮した社会づくりが進む中、それぞれの細分化されたカテゴリ同士の確執が増えてきているのだ。

いわゆる○○ismや○○istという言葉を目にする機会が、ここ数年で激増しているけど、これらをやたら顕在化することに良いことってあるの?と疑ってしまう。

自らの主義や思想を名乗り、主張することが流行化している昨今では、それらすべてを承認しなければいけないという過度な同調圧力が働いている。

その一方で、自らが少しでも軽んじられた時には、それぞれが各々の正当性を声高に叫び、ときには周囲に刃を向け、マイノリティでいることで被った損や問題を訴えるケースが目に余るようになった。
SNSを通じれば、いつでもどこでも戦地となっている。

多様性を分解し細分化してきたこの数年。
声の大きいものの陰に身を潜め、押し殺されてきたたくさんのマイノリティの存在は、次から次へと浮き彫りになってきて、多様性を見直す必要性のきっかけが、あちこちで注目された。とても良い兆候だ。

しかしそれに伴って、悲しいニュースや無駄な争いが目に余る。
芽を摘む傲慢な強者。マイノリティ同士のいがみ合い。
この違和感が、いつもどこかでずっと引っかかる。

☆☆☆

ここで、『わたしとことりとすずと』に戻ってみます。

「みんなちがって、みんないい」という一節を再考してみると、「みんなちがって」の部分は、なるほど、これまで以上に大きな教育上の意味を与えてくれそうですね。

まじでみんな違う。同じ空間にいて、会話をすることが奇跡なくらいに、全然まるで違う。
もはや他人を100%理解できることなんて不可能なんじゃないかってくらい。

一方で、「みんないい」の部分はどうでしょうか。
そもそもは、"みんな違って、それぞれが合格花丸だよ"っていうニュアンスなんだろうけど、マイノリティや様々な主義主張に対する、"いい"という承認の処方箋は、現代では中毒性と依存性がどんどん増していく傾向が強い。

自らの潜在的な特徴がひとたび脚光を浴びれば、そのつもりはなくても、主張の正当性を貫き、排他的な意識のベクトルを成長させてしまっている気がします。

世間に認められたもの、もっと言えば○○ismという言葉ができたものは、すべて正しいもので、だから否定され得ない正義で真実で本質的なものだと、最強の矛と盾を手に入れた最強の戦士になった気分になってしまいます。
その場を受け渡さないよう、必死に戦う戦士の命を追った気になってしまう。


善い/悪い、正解/不正解なんてものさしは、現代にはちょっとまずい劇薬になってしまいかねない。

各々の主義や主張や属性の違いなんて、どんな模様の指紋をしているかと同じで、そこに意味なんて全くないはず。

ましてやそんなもの、その人を説明するほんの一部でしかなく、そんな些細なもので当人を定義するにはもったいないと思うんだ。

そういうことを再認識する必要のある2020年。
『わたしとことりとすずと』は、「みんなちがって、ただそれだけ。」くらい淡白でニュートラルに解釈していきません?

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