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カテゴライズの安心感と呪縛

ユニバーサルデザイン

ユーザ個人の文化、国籍、性別、年齢、能力に依らず、遍くすべての人にとって使いやすいモノやコトをデザインしようというこのデザインの方法論は、ユートピア的思想で非現実的だと言われてはいるものの、素敵な考えだと思います。

このような考えは、最大公約数的な日常から除外されてきたマイノリティにも目を向けよう!という風潮のもとで広められていきました。

そして今では、世界中の市民レベルで重要な問題として認知されるようになっており、文化的・民族的ダイバーシティが比較的低い我が国日本でも、大切な考えとして口々に議論されていますよね。
特に人種や性別の問題については、オンライン/オフラインに関わらず、弾丸のような私見が日夜飛び交っているのをよく目にします。

しかし、これらの議論が進めば進むほど、全員を納得させるためのカテゴリが次から次へと生まれていくのに、どうしても違和感を抱いてしまいます。
これは、性のアイデンティティが「LGBTQQIAAPPO2S」にまで細分化されていることを知った時に感じました。

この、"カテゴリ"の役割。

○○な人もいる、△△な人もいる、というように、様々な人がいるんだよ、という例として出現したのかなと思います。

「こういう人もいるから、そこに配慮しないとね」
「こういう考えもあるんだ、色んな人がいて標準というものは決してないよね」

人間の特性は色彩のように、本当に様々であることを気付かせてくれる、議論の呼び水として重要な役割を果たすこの一般名詞・エピソードは、あくまで例えばで、一種のペルソナ的で記号的で偶像程度の役割なのかなと思います。

それかもしくは、複雑で多くのものがグラデーション的に入り混じる領域を説明するために、分かりやすく見やすくするような補助的な基準でもあると思います。音楽とか美術とかのジャンルはこれにあたりますね。

でもこの触媒や基準が、徐々に意志を持ち、輪郭をくっきりとさせ、支配的なものになりつつあることに、なんともいえない危機感を抱きます。

たくさんのカテゴリを与えられ、自身のアイデンティティが揺らいだとき、じゃあ自分はどれに該当するのかと、安寧の居場所を必死に暗中模索し、最後には自分自身の多様性を削ってまでして、カテゴリの中にすっぽりと収まろうとする人がちらほらいるように感じられるのです。セルフで陥るバーナム効果。
この、カテゴリがはらみつつある安心感と呪縛が、私には心配です。

「異性の友達が多いから自分は○○だ」
「海外で育ったから自分には△△な性格の持ち主に違いない」

自分自身がカテゴライズされることの安心を求めて、自分自身の多様な側面も無視してしまうのは、個人の境界を狭めてもったいなくて寂しい。
体調が悪い時、ネットでその症状を見比べて、どういう病気なのか判明したときの方がむしろ安心するのに似ている気もします。

単に複雑なものを端的に説明するためカテゴリというものは、その領域・分野のすべてを説明できるものでもないしそのつもりもありません。
ある楽曲がどのジャンルに該当するかなんかは、取り立てて重要なことではないのと同じです。たかだかCDショップの店員さんの陳列作業に役立つだけです。

複雑で色鮮やかなものを、枠の中に押し込んでカテゴライズするのは、臆病で楽ちんなやり方を好む人間のエゴなんだなぁ。

境界をつくらない、ユニバーサルな心を。

喜怒哀楽をカテゴライズ 人に合わせて歌が出来て
悲しいときはこの歌を 寂しい奴はあの歌を
ー『つじつま合わせに生まれた僕等』/ amazarashiー

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