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生の神格化

自殺。自決。自死。

もし友人がこれを決意したとき、みなさんは説得できますか。

私には、できない。できる自信がない。

もちろん友人のことは、自分と同じくらい大切だしいなくなってほしくないけど、信頼している友人だからこそ、下手な説得はできないし、そこには彼/彼女なりの正義が通っているはずだ。

そもそも、生は尊く、死は卑しいという構造自体疑わしい。

死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。
ー『ノルウェイの森』/ 村上春樹ー

有名な一文があるように、生と死はもはや対立的なものでない。

もっというと一部でもなく、相互依存の関係な気もする。
死は生の一部として存在しているし、生は死の一部として存在している。

たまたま私たちがいま存在する世界が生とされ、是とされ、神格化されているに過ぎない。ただの、視点の問題なんだ。

自分の生まれ育った町が一番最高で、故郷を捨てられないのと一緒なのかもね。
でも、世界にはたくさんの町があって、帰るべき場所は自分でデザインし放題なんだ。

そう考えると、こちらの世界を去るのも悪くないなと思わない?
私たちの知らない向こう側の世界には、もっともっと過ごしやすい世界が広がっているかもしれない。

職場とか国籍とかと同じで、いまいる場所が本当に本当につらくてしんどくて、このままだったらダメになってしまうと悟ったら、転職や帰化などの手段があるように、この世界が息をするにふさわしくないと思えば、別の世界へ転生すればいいのだ。

むしろこの世界にとって生きやすいように妥協や諦めを重ねて、自分自身の意志や信条を変えたり捨てることこそ、自傷行為であり、自殺であると感じる。

そんな自分、私は絶対に許せないし、そんなものならいっそ、美しく狂おしく煌びやかに舞うようにして飛んだ方がましだ。みんなも羨むに違いない。

世界に合わせる必要なんてないのだ。それぞれにぴったりな世界はたくさんある。自分の居場所を探し求めて移ろいでいこうじゃないか。

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と、いかにも死を簡単に肯定するようなことを言ってきましたが、どの世界にも少なからず広い世界が広がっています。
そこでできる限りの可能性を吟味して、自分が納得できるまでその世界での居場所を見つけようとしきれない人は、結局どの世界でも中途半端にしか存在できないと、私は思います。

次こそは頑張ってみようを繰り返す怠け癖を付けると、じゃあ結局いつが頑張るときなのか、いったい自分はどれくらいできるのかをの検討をつけることもできなくなるからね。

もちろん個人によってキャパはありますが、限界まで努めることは大事ですね。

それでもダメだったときは、最後くらい、美しい輝きを放って飛びましょう。

みんな生きるのが好き? 死んだことないから
ー『サイレン』/ People In The Boxー

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