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愛も正しさも一切君には関係ない

ここ最近、何度も何度も聴いている楽曲がある。

八月 / People In The Box

爽やかでちょっぴり切なくて耳馴染みのあるイントロで始まるこの楽曲。

夏休みが明けた9月1日のスカッとした空気を思い出させてくれる。
8月31日までと変わらない夏の暑さは残っているはずなのに、どこか気持ちは軽く、真新しい日々の始まりに高揚するような、あの感じ。
"透き通る朝"という歌い出しもその雰囲気を言い当てているようだ。

その一方で、飛び込み自殺を想起するような歌詞でこの楽曲は始まる。

本当につらくてしんどい時、生と死は背中合わせで、風の吹き回し次第でどっちにも転ぶ。
コインはちょうど1/2の確立で、簡単に裏面を表にして落下する。

淡々としていながらも、美しいメロディを聴いていると、自死を決断するときって、案外どんより雲が空を覆っているときよりも、早起きしたらとても爽やかで晴れやかで朝焼けがきれいだった日なんじゃないかなぁと何となく教えてくれる。

制止しようとする声を全く聞き入れないその揺るがぬ決断に対して、やりきれない悔しさと、それでも無理矢理とどめる権利もなく尊重する、やり場のないせめてもの優しさは、暖かくも切ない。


一転して2番では、ひょんなことからコインは表面をだす。

"朝 走る車をぎりぎりでひらりとかわす"
"突然誰かにあって話をしてみたくなった 傷ついても"

身体が自然に反応して自動で身体のダメージを回避することってたまにあるじゃないですか。包丁を落としたときとか。
そういうとき、あの動きが少しでも違ってたら今頃大変なことになってたなみたいな負の妄想を膨らませることってありません??

生と死は紙一重だからこそ、奇跡的に死を回避したとき、生の尊さを知るし、そんなときは誰かに会って温もりを確認したくなるものだよね。たとえ適当にあしらわれてもさ。

"織り成す世界は壮大なジョーク"

という朗らかな救いの言葉も、肩の力が抜ける。


生き続けることも、命を絶つことも、ただの現象であって、そのどちらが良いとか悪いとかを、当人の傷を知り得ない他者からは、判断したり説得したりすることは本質的にできなくて。

そうやって生と死を等しいものとして語ってきたクライマックスは、

"愛も正しさも一切君には関係ない"
"きみは息をしている"

のふたことが繰り返される。

1/2の確立なのに、なぜかだらだらとコインは表を出し続ける。
死の肯定に対する個人的な理屈は間違っていないし、決心はついているのに、なぜか今日も息をしている、という結果の連続。

愛が大切だとか正しさに則ろうとして、それを裏切り続ける世界に絶望し見切りをつけたはずなのに、なぜか死にきれないでいるという現象を、あざ笑いながらも頭をポンポンとなでてくれるような優しさに、いよいよ降参してしまう。

最後に何度も反復されるアウトロも印象的で。
生活は途切れたように思えても結局はいつも通り続いていくし、そんなもんだよって、結果論的に淡々と語っている様子が冷たくもあり暖かくもあり。


9月1日は、子どもの自殺が最も多い日であると聞きます。

私は、生きることが絶対の正しさとは思えない立場で、「自殺はいけないこと!!」という頭ごなしなプロパガンダにどうも頷けない性分なんだよね。
もちろん客観視すると、本当に悲しくて人間の無力さを感じるけど、当人の気持ちを考えると、何が何でもどうにかしなきゃと押し付けるのも相手をさらに傷つけることになるのかななんて考えちゃう。

でも、意に反してでも惰性で生が選択されている現象を引き合いに出して、私のこのもどかしさに一つの解を示すことなく、生はやっぱりどこか特別な現象なのかなぁとぼんやり思わせてくれる『八月』を聴いて、今日も生きながらえてしまっているわけです。


まぁ延命って、"困った時には現状維持しがち現象"っていう、へっぴり腰な人間お得意の性質も関係しているとも思うけどね。

結局本能的なプログラムに生かされてるんだよな、おれたち。

やれやれという気持ちで、明日の美しい朝日を期待しましょう。

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