ウェルテル効果
先日、オンラインでもオフラインでも持ち切りになった、ある訃報に関連するニュースをぼーっと眺めていた。自分もあの番組をよく観ていたので、あの訃報はまるで知り合いのことのように胸が締め付けられた。
このとき、匿名の暴力にまつわる瑣末な議論よりも、ウェルテル効果が頭をよぎった。
メディアの自殺報道に影響を受けて自殺者が増える、といった内容のこの現象は、あながち的を得ているように感じる。
ただ、後を追うように、というよりは、背中を押すように、という意味の方で。
まだ20数年しか生きてないけど、それでもたまに、こんな世界本当に生きる価値がないなと思うときがある。ほんとたまにだよ?
愛が踏みつぶされ血を流すとき
傲慢な権利がすべてを焼き払うとき
ある身勝手が他人を殺すことが許されるとき
こんなとき、実は生と死の綱渡りをしている気がする。
少しの風向き次第で、結果はまるっきり変わってしまうのだ。
帰り道に見た夕焼けが綺麗だった
親友に見え見えの嘘をつかれた
デザートのプリンが美味しかった
好きだった漫画が最終話を迎えた
これらは日常に溢れかえるほんの些細なことなんだけど、ひょんなことで自決を思い立つ人もいれば、あー今日も生き延びてしまったと、どこか安堵する人もいる。タイミングなのか運命なのか不思議なものだけどね。
あなたの何でもない言葉が命を救うこともあれば、小さな身勝手で都合のいい振る舞いが、一人の人間を簡単に終わらせる。
そんな中、特急電車のように突然勢いよく飛び込んでくる一つの訃報。加えて、生前の悲しみや苦しみが注目されて肯定されるおまけつき。
風向きどころか、自ら踏み外す理由には十分である。
そんなの、飛ぶなら今に決まっている。
幸い(?)自分はあの出来事で綱を踏み外すことはなかったけど、自決というオプションが自然に頭に浮かんでいることに、はたと気付かされた。
もし明日、好きな人たちの誰かがいなくなったりしたら、このボロボロの身体も宙を舞っているだろうよ。
生きていたらもっと楽しいことがあるのはわかってるけど、それでもいまが辛いなら、行先不明で報いも救いも期待できないなら、いっそ時間を止めようと決意することは真っ当な判断だよなぁとなんとなく思うわけですよ。
本当に申し訳ないけど、今の自分には、「自殺なんてよくない!」と正面切って言える自信がない。
ただ、これまでギリギリ繋げてきたものを突然0にするのには、大きな思い切りとエネルギーがいるわけで、とりあえずは惰性で生きてみようかなとだらしなく続けてしまう情けなさに生かされて、今月25歳の誕生日を迎えようとしているのです。
生きるも死ぬも、たまたまでしかないという話。
朝 走る車をぎりぎりでひらりとかわす
突然 誰かにあって話をしてみたくなった 傷ついても
ー『八月』/People In The Boxー
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