名前という記号
いつかの誕生日に、両親から命名秘話を明かされたのを今でも覚えている。
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2人は命名に際して、2つの案で悩んでいたらしい。
ひとつは、結果的にいまの名前になっているもので、こちらの由来や経緯については、小さい頃から聞かされていた。
これに込められた想いの通りに生きられているのかはいまでもたまに自問するけど、まあよくやれていると思う。及第点だ。
そしてもうひとつ。こっちは衝撃の問題作。
「明日」と書いて、"ともろう"と読ませるものだった。
空前絶後の出オチ。
小学校で絶対いじめられてた。
キラキラネームの前身。
ポケモンにすらなかなかつけられない。
この話を聞かされた身としては、(あっぶねぇ...)という感想と、「(産んでくれてに次ぐ)人生で2番目のありがとうだわそれ」のコメントが続いた。
おかげ様で自己紹介のつかみのネタにもなるし、あの迷走も今となっては感謝に尽きるんだけどね。
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あれからもまた数年生きてきたわけだけど、この世界の万物は、人間に付けられる名前のように、すべてが何かしらの記号であり写像であり偶像であり外延であるなぁと感じています。
球状になった包み紙を見て、チョコレートだと思う人もいればキャンディだと思う人もいる。中には、なにも入っていないと思う人ももちろんいる。
目に見える、耳に聞こえるものはすべて、表面的な装飾でしかないし、その実態は往々にして、巧妙にカモフラージュされているんだろうね。
そこに何を見出すか、どんな意味を付置するのかはすべて個人次第で、あらゆるものは個人の写し鏡にすぎないんだろうな。
大切な子どもに付ける名前も、両親の生という概念に対する期待や希望を、取っつきやすい記号に変換したものなわけで。
としたとき、真面目で厳格ですり減らしているいまの自分には、第2案の一見ふざけた大喜利解答は、
"まぁ人生なんてそれぞれ自由な一瞬のひらめき次第だし、少し先の未来だけ見てればいいっしょ~~"
程度の、気の抜けた、楽観的な姿勢でいることの大切さという意味に化けて出ている。
まったく、親にはつくづく敵わないね。
というわけで。
本日、2020年7月25日、25歳になりました。
ピース。
今日は特別な夜さ 素敵な夜になりそうだ
みんなが待ってる 急いで帰ろう
今日は特別な夜さ 素敵な夢を見れたらなあ
明日が待ってる ゆっくり帰ろう
ー『Birthday』/ フジファブリックー
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