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Industry 4.0の浦島太郎

先日、あるインスタライブを見ていたら、
浦島太郎の教訓とは何なのかという考察が行われていた。

そしてそこでたどり着いた解釈の一つに、

「竜宮城での体験は、浦島太郎が本来一生のうちに味わえるであろう幸福や快楽の前借りである」

というものがあった。
そして一生分の幸せを体験した浦島太郎は玉手箱を開けた途端、その分の年月を失うのだ。
この考察を聞いていて、なるほどな〜〜面白いと思った。自分にはまったく思いもつかなかったからね。

と同時に、現実問題に置き換えて考察をより深めようとするのは、自分がいつも堅苦しい、まじめだと言われるゆえんなんだろう。
ふざけるときはめちゃめちゃふざけるからな??

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科学技術が指数関数的に発展してきたいまとなっては、かつてでは考えられないほど便利で自由なモノやサービスが溢れかえっている。

音楽や映画のような娯楽はもちろん、衣食住のすべてが当日中に確保できるし、都合のいい人間でさえすぐに出会うことができる。
家にいるのに海外旅行に行った気分にもなれるし、場所や時間の制約なんてもはやほとんどないに等しい。

これら魔法のような技術の更新は、我が人類が積み上げてきた誇るべき歴史で、私たちはノーリスクでこの恩恵をあずかることができるんだけど、それに応じて、到来する新しい物事の考え方や価値の測り方を備える必要性があるよね。これは技術革新によらず。

産業革命、世界大戦、大災害...。人類はそれぞれの特異点に応じて、各自時代の風向きの変化を読んで、何を善とし何を価値とするのか逐一見直してきたはずだ。

じゃあここ数年はどうか。

有志以来、競争原理が口火を切って、資本経済や技術開発の進歩は爆裂に加速し、そのスピードはまさに規格外。法定速度をゆうに超え、いまや地球の重力さえ振り切る勢い。第二宇宙速度だ。
とんでもないスピードの消費に対する空っぽな餌付けは、さらに表面的な生産の呼び水となり、行きつく先のない鬼ごっこ状態だ。果たしてどちらが鬼なのか。どっちもだね。

その遠心力に振り落とされた私たちの価値観は、宇宙空間に放り出されて、宙に浮いている状況ではないでしょうか。

個人が容易にインターネットにアクセスできるようになって、情報リテラシーなんかが口々に叫ばれたとき、暴走したSNSはあることないことを次から次へ吐き出し続けた。
こうなってしまえば、もはやリテラシーなんてものはほとんど通用しない。何を信じ何を疑うのかは、結局自身が何を是とし何を非とするか次第になり、情報の価値は一気に疑いの目で見られるようになった。

モノの価値はどうか。
似たような機能やデザインの商品が陳列棚に顔を並べ、いったいどれがどう違うのかある程度の知識がないと簡単にはわからない。
店員さんに聞いても、商業的な理由で事前に用意されたパラメータ主導でしか価値を提示されないし、それだけを判断基準にしていると、もはや個人に価値観なんて必要ないんじゃないかとすら感じる。そもそも相対評価でしか測れないなんて、ね。

いま、モノの、コトの、ヒトの価値があるべき姿として評価されづらい世界になっている。
湯水のように新しく湧き出てくる商品やサービスや人材は、世界や社会や生活にとってどのような役割を果たすのかが、もやっと誤魔化されたまま置いてけぼりにされている。

私たちの身の回りの変化はあまりにも早く、直線的に進む時の流れをついに追い越してしまった。
時代の速度に、人間の順応性や感性が追い付いていないのだ。

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私たちはいま、まさに竜宮城の中だ。現在進行形で渦巻く時代の潮流で、どこまでも便利すぎて自由すぎる生活を享受している。
でも、この快楽にもいつか亀裂が走る。
本質的な物事のあるべき姿と、ご都合主義で誤魔化してきた装飾的な価値との溝は徐々に大きくなり、幸福に満たされた海底は、モーゼが手を下さずとも真っ二つに割れるだろう。
後始末を密封したパンドラの箱を手土産に押し付けられて。

これまで疑いもしなかった世界と、あらゆる価値のあるべき姿との乖離にはたと気付いたとき、私たちは一生分のキャパを超えた幸せを追い求めていたことに愕然とし、己の愚かさに老いていくのかな。

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