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境目


人間同士の境目、というものがある。


ごく幼い頃、海外に住んだことがあった。日本人はほとんどいない場所だった。クラスの中で、蒙古系の人間は僕1人。周囲は全員西欧系である。


境目があるということを、ときどき知らされることがあった。

「あなたはチャイニーズだから(その頃日本という国の知名度は低く、蒙古系の人間イコールチャイニーズであった)」と、言われるのである。


チャイニーズだから髪が真っ黒なのね。チャイニーズだからサンドイッチの食べ方が反対なのね。(耳から食べることをなぜか子供たちは「反対の食べ方」と言った。本当にそうなのだろうか?誰か詳しい人、教えてください)。チャイニーズだからおしっこ漏らしちゃうのね(僕はおしっこもらしであった。チャイニーズだからではないけど)。

自分の姿は自分で見えないから、僕から見ればクラスいちようである。ところが僕以外から見れば、境目を持つ人間、すなわち僕、が存在しているのである。

僕一人の周りにぐるりと境目がひかれていた。僕はその中で、1人。奇妙な感じだった。


季節の境目、というものもある。


残暑が厳しい、と思っていると、そのうちに秋刀魚が店に並ぶようになる。金木犀が匂い、オレンジ色の細かな花が地面にパラパラひっきりなしに落ち始める。鰯雲が空に浮かび、長袖一枚では足りなくなってくる。上着が欲しくなる。あれって思っていると、みぞれまじりの雨が降ったりする。

季節が移るということは、すなわちそれだけ死に近づくということである。切なく恐ろしいことである。そして、切なさが、恐ろしさが、多ければ大きいほど、自然のことごとを数え、季節の境目をあそこでもないここでもないと引きたくなる。

あ、今日秋がやってきた。あ、今日はまた夏が戻ってきた。あれあれ、知らない間に冬の匂いがする。冬の匂いは古い本を開いた時の匂いに似てるな。

境目を作って、それぞれの季節を際立たせ、日々がへんぺいに続いているのではないことを、知りたくなる。知って、そして、それぞれの日々をいとおしみたくなる。


境目とは、そもそも何なのだろう。


境目があるところには、区別がある。僕たちはモノを認識ために、区別ということをするに違いない。そこには、好きも嫌いもない。ただ、区別を行うために、境目を設定する必要がある、というだけのことなのである。

元々、認識のために作られた「境目」である。しかし、ときに境目というものが本来の目的から離れ、物事の「区別」だけでなく、「差別」や「暴力」を呼び寄せることがある。悔しく悲しいことである。悲しく悔しいが、珍しいことではない。ごくごくありふれたことである。世界のどこでもありうることである。自分が「差別」や「暴力」に全く関係ない、と知らんぷりすることは、到底できない。いつだって、自分がそのようなものに寄り添ってしまう可能性は、あるのだ。

境目とは、かの如く困難を呼び寄せる可能性を持つものだから、ときに、境目を作らないようにしようという考えも、きざす。外を見て境目を作るまいとするうちはまだいいのだが、内を見て境目を作るまいとすると、じきにそれは「みんな一緒がいいね」という方向になってしまう。保護色をまとって隠れる昆虫のように、「みんなの中に隠れよう」という気分になってくる。それはとても楽なことであろう。ただし、楽、必ずしも楽しからず。

外国でチャイニーズと言われたとき、僕は悲しかっただろうか。そうではなかった。ふーん、僕は違うんだ、と思ったのだ。それはどうやらあんまり「いい」違い方ではないらしいけど、でもまあいいか、と思ったのだ。僕は僕だもん。人にとって「いい」ものではなくても、僕にとって僕は「いい」ものなんだもん。

七歳ほどの子供の、恐れを知らぬ「だもん」だったことだろう。しかし、今でも僕はそのときの「僕にとって僕はいいものなんだもん」という気分を忘れない。その気分は、爽快この上ないものだった。


僕はあなたではなく、あなたは彼ではない。夏は春ではなく、秋は冬ではない。それはなかなかに味のあることなのではないだろうか?




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