塩原 嘉昭

断章 連用と時間

塩原 嘉昭

断章 連用と時間

最近の記事

ミヒャエル・エンデ著「モモ」にみる人間の桎梏

— 「その後」のモモ — 「モモ」は、1973年、西ドイツで出版されたミヒャエル・エンデによって書かれた児童文学書である。翌年には、ドイツ児童文学賞を受賞しているのであるが、児童文学書とはいえ、その“現代社会批判”によって、成人、大人の読者が多いというのが大きな特長であろう。 日本においては、1976年、岩波書店が第一版を出してから、1987年まで、おおよそ10年間で三四版を重ねる程の話題作となったのであるが、1979年の第二次オイルショックそしてそれを引き金とした80年

    • 「すみません」の文化

      — 日本の自性その利他的な言葉 — 私は「すみません」という言葉が好きである。単に好きで良く使うという意味ではない。正確に言うとこの言葉の周辺、つまり、この言葉が機縁となり呼び起されるその情景が好きなのだ。それは礼を述べている、頼み事をしている、赦しを乞うている、私にとって何という事もない日本人の日常生活に繰り広げられるつつましやかな一幅の情景がそこにある。私は詳しくは知らぬが外国の同様語には、これ程多用の意味内容を持ち素朴でしかも趣きのある言葉はないのではないかと思う。思

      • 真の規範性はいかにして生まれるか

        — 他律的な常在する規範性 — 東京大学出版会発行の「UP(通巻461号)」誌上の書評欄で当大学教授中島隆博がクリスティーン・コースガード著『義務とアイデンティティの倫理学—規範性の源泉』そしてジル・ドゥルーズ著『経験論と主体性—ヒュームにおける人間的自然についての試論』両著の書評を通して「感情と規範性」なる題のもとこれを論じている。先ず中島は「道徳を基礎づけるにはどうすればよいのか。あるいはより一般的にいって規範性をどこから導き出せばよいのか。この問いは様々に姿を変えなが

        • 森田療法にみる不全

          — 人間失格的人間から人間滅亡的人間へ — 通常、人は自らが人間であることを自負し、又それを自明として信じて疑わない。しかし、実は今ある自分は意識せずしてあえて人間であろうとしている自分なのだという事については全くもって気づいていない。そんな人間であろうとしている自分ではあるが、自分が真の人間であるかどうかは、すぐれて関係として成立している「人間である他者」に関わる判断に委ねられているのである。ここにかくなる判断をくだす他者、それはエートスとしての人間社会を構成する真人間な

        ミヒャエル・エンデ著「モモ」にみる人間の桎梏

          人間滅亡的探鳥論

          — 中西悟堂に倣いて — 今、ここにあらためて我が越し方を振り返り思いみれば、私は只に「時の流れ」に順応し生きてきた、つまり本実の私はまさしく「何となく生きてきた」のである。しかし、そんな私には時に定めやらぬ深く重いある「思い」がある。それは、こうした「時の流れ」の中に「生きている」私の今ある存在そのものが、他なる存在者をして余所余所しくも不寛容な関係を心ならずも作り出しているのではないかという怖れ、そしてそれにより性起する私の「生きていることの申し訳なさ」という思い、言う

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          映画「眠る男」

          — 実存的内省「生きている」人々 — 過日、久し振りに妻を連れ立ち群馬県民二百万人記念映画として今、話題の「眠る男」を観に行った。そのタイトル・クレジットに監督小栗康平、そして脚本小栗康平、剣持潔とあるのを見て驚くと共に、懐かしい思いが込みあげてきた。思い起せば剣持君とは前橋市立第一中学校で同学年だった。お互い家は近かったが何しろ一クラス五十五人、それが一学年十三クラスという戦後十数年とは言え安定した教育環境とは程遠い学校、それに人見知りする私の性格からか、それ程親しく言葉

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          人間その変らざるもの

          — 「人間の解体」とユルゲン・ハーバーマス — ホルクハイマーとアドルノーは西欧近代哲学の伝統を支えた理性主義(主観優位の思想)が自己保存を目的とする他者支配のための道具主義に堕落したことで第二次世界大戦やアウシュヴィッツといった暴力的事象が発生したと考えた。これに対し同様の問題意識を持つユルゲン・ハーバーマスは上記二者においてもモノローグ的な近代的理性主義が特徴とする「主観-客観の対立」から完全に抜け出していないとし、あらためて間主観的なコミュニケーションを可能とする「コ

          人間その変らざるもの

          国歌「君が代」考

          — 「さざれ石の巌となりて」について — 343 わが君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで 読み人しらず これは日本国国歌「君が代」の元になった言わずと知れた古今和歌集巻第七、賀歌の貫頭を飾る一首である(古今和歌集は衆知の如く醍醐天皇の勅命により当時漢詩に押され忘れさられようとしていた大和歌を復興すべく10年の歳月をかけ編さんされた歌集である)。ところでかつて評論家の吉本隆明は日本国国歌「君が代」の「さざれ石の巌となりて」の箇所に触れ「理屈に合わぬ変な歌だ」

          国歌「君が代」考

          深沢七郎論

          — その不具な人間滅亡を越えて — 私が20代の頃、深沢七郎著『人間滅亡的人生案内』を手にし読んだ時の心の高鳴りは今もって忘れることができない。それは『話の特集』という若者向けの雑誌に連載された読者からのたわいのない人生の悩み事に対する深沢の回答を、相談者の質問共々にまとめたものだが、その根底に終始一貫してみられる「時間の否定」は、私の時間にかかわる基本的な生活態度に素直に触れるものがあり、以後の私の人生に少なからぬ示唆を与えてくれたのである。 深沢は、書中のK・Aなる相談

          深沢七郎論

          自由の幻影と時間

          — 人間滅亡による新たな自由への道 — 自由、それは人間が創作した幻影である。有体に言えば、自由とは西洋キリスト教人間中心主義社会をシュティムング(環境、気分)として了承する人間がその性起した「生きる意志」をもって可能性の先取りである「時間を創作」し、これを能動的に空間に投げ入れ求めるべくして求めた幻影、錯覚である。 ここに、アダムとイヴの神話物語にみる天与の自由の楽園から追放された「罪深き人間」は、十字架上の救世主、御子イエス・キリストがその死に臨み、黙示した「生きよ!

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          宮沢賢治の真実

          — 隠された祈り実存的内省そして共生共死 — もうお気づきのように、この“詩”はかの有名な「雨ニモマケズ」が宮沢賢治の「本質的表現」として書かれているのであれば、私の根底にある基礎的な態度といささか異なるという思いがふと浮かび、ならばと「雨ニモマケズ」のリズムを借りて書いたもので、決してパロディーを狙ったものではありません。従ってこの“詩”はあくまでも「雨ニモマケズ」を対照、比較しながら読む事が期待される極めて真面目な“詩”であります。願わくば、私と賢治との差異の中に私への

          宮沢賢治の真実

          日本情景論

          — 感慨と感動 — 情景と光景、風景の相違は一体何によるのであろうか。光景、風景は一人称による一方的な語り、説明であるが、情景は語りではなく「会話」である。それは必ずしも言語を介する事を必要としない「会話」である。他方、それは感慨と感動の相違でもある。つまり、西洋人間中心主義社会には神(創造主)により人間は展望される目前の光景、風景の全てを一方的に与えられて「生きる」もしくは「生かされてる」という生への絶対的肯定、畏怖的感動はあるが、自らが万物万有の「いのちとかたち(アンド

          日本情景論

          浮世絵に見る雨の表現ついて

          — 日本美術と時間 — 歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」の中でも「庄野白雨」「土山春の雨」は、なべて傑作の呼び声が高い。「庄野白雨」は動的な夏の雨、そして対照的な「土山春の雨」は静的な雨である。しかし、どちらも雨の描き方は、沢山の直線をほぼ斜め平衡に引き降ろすことによって表現されている。況ゆる篠つく雨、直線の雨である。こうした表現方法は古くは「鎌倉時代の一遍上人絵巻にも見られる」が、「共通した表現方法として確立するのは江戸時代に入ってから」だそうである。つまり、この描き方

          浮世絵に見る雨の表現ついて

          ヨハネ福音書序詞は何を語ろうとしたのか

          — 声と〔言〕その否定性の軌跡を追って — ヨハネ福音書1章1節~3節 「太初に言あり 言は神と偕にあり 言は神なり 万の物これに由りて成り 成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし」 頭(こうべ)を深く垂れ苦悶の面(おも)を俯す心なる「十字架上に死する」イエス・キリストの形象を前にこれを仰ぎみたヨハネは信仰の真理を通して言葉にならないことば、つまり文字をもってして到底書き起す事の不可能なイエス・キリストに黙示された〔声〕」が「生きよ!」の〔言(ロゴス)〕である事を

          ヨハネ福音書序詞は何を語ろうとしたのか

          「何故、人を殺してはいけないのか」

          — 或る高校生の質問から、絶対的命題と人間 — 「何故、人を殺してはいけないのか」。少々センセーショナルな質問である。この標題は、かつて某テレビ局が主催した高校生のある集いの中で参加者の一人から出た質問だそうである。しばらくして雑誌「文芸春秋」がこれを取りあげ、14人の識者が答えるという形で特集を組み話題をよんだ。しかし、識者達の解答なるものを早速私も読んでみたが、どれも私には納得のいかないものばかりであった。恐らくその思いは、私だけではなく当の高校生の質問者本人にしても

          「何故、人を殺してはいけないのか」