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森田療法にみる不全

— 人間失格的人間から人間滅亡的人間へ —


通常、人は自らが人間であることを自負し、又それを自明として信じて疑わない。しかし、実は今ある自分は意識せずしてあえて人間であろうとしている自分なのだという事については全くもって気づいていない。そんな人間であろうとしている自分ではあるが、自分が真の人間であるかどうかは、すぐれて関係として成立している「人間である他者」に関わる判断に委ねられているのである。ここにかくなる判断をくだす他者、それはエートスとしての人間社会を構成する真人間なのだが、いずれにしろ、人間を自負する「人間」とそれを人間として迎い入れるそんな真正人間社会との間に時として生ずる意識せざる乖離に「人間」は「ひょっとして自分は真の人間、つまり真正の人間ではないのではないか」という不安と恐怖を呼び起し、結果、ここに潜在化された人間失格的人間が生み出される羽目になる。そして、更にこの不安と恐怖は人間失格的人間をして神経症という症状をはしなくも顕在化させてしまうのである。しかし、人間失格的人間は真人間達による人間中心主義社会の実相とその現実を目前にしてあらためて自らが人間失格的人間である事に気づかされた衝撃にもかかわらず、なおも「生きる」ことに執着し続けるのである。つまり、人間失格的人間は「生きがい、生きる意味、生きる目的」といった人間を人間たらしめているとする真人間社会に行き渡った言葉の呪縛から今もって逃れ得ずもがき苦しむのである。
この言葉の呪縛は人間社会よりも宗教世界、特に新興宗教において更に先鋭化する。ある新興宗教から脱会した女子大生は「生きる目的は何十年たっても分からないかもしれない。でも今は生きていることに意味があると思えるようになった」(朝日新聞投稿欄記事より)と言っている。彼女は新興宗教の矛盾に目覚め人間社会に戻って来た筈だが、残念ながら今もって彼女はその呪縛から解き放たれていないのである。つまり、「生きていることに意味がある」がそれである。「生きている」という実存に意味などはない。又、意味など求めてはいけないのである。意味を求めるのであれば、「生きる意味」でなければならない。しかし、いずれにしろ、それは「生」に対する執着、もう執であるという点において今の彼女は脱会以前の彼女と何等変わっていないのである。こうした執着、もう執を仏教では煩悩とよび、その救いについて良く語り、説く所である。しかし、神経症と診断された患者が宗教に救いを求めるという事は次元を異にする話であり論理的にありえない。宗教にはあくまでも自身の全人格を投げ出す覚悟と深い思考だけが必要であり、それがなければ宗教の本義は成り立たない。
ところで、神経症や対人恐怖症の治療法には、一般的な薬物療法(SSRI)の他に精神療法という療法がある。そんな精神療法の中でも1920年頃、精神科医の森田正男氏によって創始された、いわゆる森田療法が海外でも評価され、今あらためて注目されている。この治療法の特長は患者の不安や悩みをダイレクトに治療の対象として取り上げるのではなく、一見遠回りのようではあるが、障害となる不快な感情はそれはそれとして素直に、そしてあるがままに受け入れさせて、むしろ日常なすべき事柄を忠実にこなす事を基本的態度として、症状を克服しようという点にある。要するに、森田療法は人間の「深層に潜む心理の観察と分析」を元に精神療法を行う西洋のオーソドックスな手法とはまったく対極するものである。病的に歪んだ人間の精神を「あるべき」正常で健全、強固な元の姿に再構築しようとするのではなく、むしろ精神という重い鎧甲そのものを脱ぎ捨てる、つまりその束縛を断ち切って先ずは本来の実存する「あるがまま」の自然な姿の自分を受け入れることから始めようというのである。これは西洋思想のベースにある「能動的、目的意識的な動き」つまり本来的な「生きる意志」を放棄するという事であり、可能性の先取りである時間を創作しないという事でもある。森田療法の移り行く、その時々の上に自らをしてあるがままの今の自らを代謝し立たしめるという態度には時間の創作は見受けられない。時間の創作の拒否は象限そのものを持たない、つまり、時間を座標軸にとる象限のもとに展開する西洋の精神療法とは全く相入れない。しかし、現実の医療関係者は、この根本的相違について知ってか知らずか「森田療法は正統な本来的治療法としてよりも、ガン患者の心のケアや老人や健康な人の生きる指針として活用すべきだ」などと言っている。
西洋の精神分析学的治療法がその信頼性を急速に失い、行き詰まりを見せている今日だが(それはSSRIの劇的な薬物効果によりその必要性が失われた為と言われているが、そもそも精神分析学なるものがいかに信用できない、いかがわしいものであるかは、フロイトの精神分析によって深層心理が解明されたとして、その理論と治癒成功の症例とされる有名な“狼男”は実はその後も精神治療を受け続け、薬も飲み、結局最後は精神病院で没したという最近明らかになった事実をみるだけでも充分であろう)、それでも森田療法は副次的な可能性の域を出ないという訳である。こうした西洋的療法に対する日本人の品格を逸した態度は、逆に西洋人をして自らの矛盾に気付かせないノーテンキで尊大な自信を持った人間にしてしまうのである。アメリカのガンセンターで森田療法を実践しているとするソーシャルワーカーのジーン・リーベンバーグの次の言葉の中からもそれがうかがい知れる。「米国では、小さい頃から常に将来の自分の理想像を描き、それに向かって努力するよう求められる。だから自分の未来が長くないとわかった患者は生きる意味を失いがちです。あるがままでよいという考え方は大きな救いになります」。
アメリカ社会は典型的な「生きる意志」に生起した「時間の創作」に基礎づけられた人間中心主義社会であるからして、前段と中段は彼等にしてみればどうこうもない至極当然の言いであるが、後段は明らかに言葉のつながりに無理があるのである。つまり、「あるがまま」はまさに「あるがまま」なのであって、そこには“考え方”などという言葉の入りこむ余地は全くないにもかかわらず、「生きる意味を見失った」人間、つまり人間失格的人間があらためて「あるがまま」に「生きる意味」をみつけ、それに救いを求めるという「考え方」は明らかに矛盾しており、森田療法の理念とは多分に相違する。これは森田療法への深い関心にもかかわらず、依然として西洋的思考から抜け出せないでいる彼等、真人間による都合のよい曲解に他ならない。「あるがまま」には「生きる意味」などありえないし、そもそも意味を問う事自体正に無意味であり、そこにあるものは深い沈黙に包まれた「生きている」という実存する肉体だけである。とはいえ、こうした曲解が生ずるのは何も彼等の側に全ての原因があるのではない。森田療法自身の中にある、あいまいさ、不徹底さにもその原因があるのだ。森田療法が人間失格的人間の神経症に対してある程度の有効性を示せるというのは妥当であろう。しかし、それは西洋的治療法がその効果を決定的なものとし得ないという意味と同様に森田療法も又、その効果は限定的だということである。何故ならば、人間という西洋文明の根底をなす概念、そしてそれが誰疑うことなくアプリオリに持つとされる「生きる意志」といったものへの無意識的な信仰、言い換えれば西洋精神分析療法に対して持つ漠然としたいわれのないコンプレックスを今もって森田療法が払拭できていないからである。森田療法の入院療法に食事とトイレ以外はずっと個室に横になったままにさせる「絶対臥褥」(ぜったいがじょく)というのがあるそうである。これは神経症患者が強く持つ「死の恐怖」をこれに対極する「生の欲望」に飛躍転換させる為の療法だそうである。つまり、「死の恐怖」におびえ、とらわれている患者にそれを振り払い生への執着に目覚めさせようというのである。しかし、これは極めておかしな話である。何故なら「絶対臥褥」という「時間の創作」を断ち切り「生きる」ことそして思考を放棄した「あるがまま」の状態にある者には、深く統一された「生きている」自分という動かし難い実存する肉体だけがあるのであり、これにより彼が「死の恐怖」から「生の欲望」へという時間を創作する「生きる」人間になるとする理由はどう見てもこじつけに過ぎない。何をか言わん絶対臥褥の人間が「死の恐怖」におびえるのは死が時間の創作の否定だからであり、逆に「生の欲望」に執着するのは生が時間の創作の肯定だからである。いずれにしても、人間は自らによって創作された時間を“永遠の生命”に至る唯一の寄りどころとして「生きる」のである。「絶対臥褥」にある「生きる」事を放棄した「生きている」自分は自らを取り巻く人間社会との関係を今全て断ち切った実存する「あるがまま」の自分であろう。それは真正人間社会が自分を人間として認める、認めないにかかわらず、自己の体内に巣くっている「時間を創作し生きる人間」を滅亡させた自分である。つまり、「絶対臥褥」という行為が真の意味する所は、自らの内にある「死の恐怖」におびえる人間を滅亡させ、「生の欲望」に執着する人間を滅亡させることでなければならない。つまり本実の「絶対臥褥」とは人間滅亡的営為そのものなのだ。人間失格的人間から人間滅亡的人間へ。時間の内に「生きる」人間から、時間のくびきを逃れ、C・レビーストロースが言うように「時間のらち外に立つ」「生きている」人間へ。森田療法の不全は人間滅亡によって初めて克服されるのである。