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「何故、人を殺してはいけないのか」

 — 或る高校生の質問から、絶対的命題と人間 —


「何故、人を殺してはいけないのか」。少々センセーショナルな質問である。この標題は、かつて某テレビ局が主催した高校生のある集いの中で参加者の一人から出た質問だそうである。しばらくして雑誌「文芸春秋」がこれを取りあげ、14人の識者が答えるという形で特集を組み話題をよんだ。しかし、識者達の解答なるものを早速私も読んでみたが、どれも私には納得のいかないものばかりであった。恐らくその思いは、私だけではなく当の高校生の質問者本人にしても同じだったろう。それは何故かと言えば、識者達は“小文字”で書かれた相も変わらぬ誰でもが充分に予想される、あたりさわりのない言葉で“解答”していたからである。つまり、高校生の質問者が真面目に期待し、求めていたものは、“小文字”で書かれた解答ではなく、もっと“大きな文字”で書かれた解答なのだという事に識者達は気づいていないのである。要するに、質問者は、「何故、人を殺してはいけないのか、人を殺すというおぞましい行為を押し止どめているものは何なのか。哲学的な問題、つまり倫理、道徳、宗教そして更なる根元的な理性なのか、はたまた人間社会を規制するこれらをもとにして組み立てられた法理法律なのか、しかし、これらは全て“小文字”で書かれたものであり、真の解答とはなり得ないのではないか、それらを超越する大文字で書かれたもっと大きな何かがそこにはあるのではないか」と質問者は問いかけているのである。

大いなる宇宙、その悠久の時の流れに漂いさまよう地球なる星に、たまさか望むべくもなくして生をうけ、心もとないその行き泥む一歩を今ここに踏み出さざるを得なかった原初の人類にとって絶え間なく我が身に襲い来る「畏怖と不安そして驚き」はいかばかりであったろう。そんな「畏怖と不安そして驚き」のもと、奇しくも生と死が一つの秩序として成り立っている「生死不二」を根底に、すべからく自(おの)ずからにして他律する自然に連用し、望むべくもなく「生きている」互いを共にする人類は、今ここに寄る辺を求める己の実存に静かに湧き起る「生きていることの申し訳なさ」という他者に対する利他的な思い(実存的内省)に耳をすませるのである。それはあらがいの無い真っさらな己れの実存に根拠を有する<絶対的なもの>という意味において絶対的根拠である。

この望むべくもなく「生きている自分」の絶対的根拠である利他的な実存的内省にとって「共に生きている人(他者)を殺す」という行為は望むべくもない自らが望むべくもなくして他者を殺すことに他ならず、それは只に「生きている」我が身にとって動機自体が不明であり得るものの全くない矛盾した無駄な動き徒労にすぎない有り得ないものとして、それは無意味化され、その意味は失われるのである。

さればこそ、人類は、ここに表象された「言葉」ならぬ「人は人を殺してはならない」に絶対的な意味を与え、これを絶対的命題として自らをして自らに誓約させるのである。つまり、「畏怖と不安そして驚き」に性起した人類の絶対的根拠である利他的な「生きていることの申し訳なさ」という思いが「人は人をを殺してはならない」という絶対的命題を<生起>させたのである。人々が己れ自身に課したこの誓いは、口外すべくもない個々の心のひだに深くわけ入る言葉ならぬ言葉、文字ならぬ文字であるが、それは人類という大きな括りによって、大いなる文字、大文字で書かれた文字となるのである。人類の歩みは、すべからくこの言葉にのぼらぬ誓約、大文字でつづられた絶対的命題「人は人を殺してはならない」からその全てが始まったのである。

かくなる誓約は、「生きている」人それぞれが自らに言い聞かせた口外すべくもない言うなれば無の「覚悟」であり、それは個々にとって、人種、民族を越えるという事、更には人類のみが持する倫理、哲学を小文字化するという事において大文字で書かれた「絶対的命題」だと言えるのである。従って無の「覚悟」をもって自らに課した大文字で書かれた絶対的命題は、その原初の本質からして小文字(たとえば本稿の標題)で書かれたいかなる質問も受けつけず、又、それに答えるべき義務も更々ないのである(先の識者の解答の中で大学教授の藤原正彦は会津藩々校、日新館の校訓の一つ、「ならぬものはならぬ」よろしく只一言「駄目は駄目」と答えているが、これは大文字で書かれた絶対的命題の本質を理解し正しく言いあてている)。

しかし、キリスト教の出現によって人類世界の全てが変ったのである。キリスト教はあろう事かその性起した「生きる意志」によって、この絶対的命題を突き崩したのである。共なる人類が文字ならぬ文字、言葉ならぬ言葉をもって誓約した「人は人を殺してはならない」は人々がひとり無なる覚悟をもって心に秘めた絶対的命題であるにもかかわらず、キリスト教徒人間は、その「生きる意志」から生起した「時間の創作」によって、これをキリスト教世界に引きずり出し億面もなく「人」を「人間」に置き換えた小文字化された自らの言葉として禍々しくも語り始めたのである(そもそも、キリスト教出現以前、この世界に「意志」なる言葉は存在しなかった。「意志はいつ生まれたのか」について現代科学は「意志」そのものの存在を明確に否定している)。

イエス・キリストがその愛なるものによって病める者、貧しき者に為した生への救済という奇跡、そして十字架上のイエス・キリストの「沈黙の声」が証しした死から生への復活(よみがえり)という奇跡、これらに示された生に対する「永遠の命」はキリスト神に黙示された「生きよ!」の〔言(ロゴス)〕により約束されていると信徒人間は確信するのである。

ここに、この「生きよ!」の〔言(ロゴス)〕に性起した「生きる意志」はその「時間の創作」によって時間の埒外にある「時」の上に大文字で書かれた絶対的命題「人は人を殺してはならない」を「時間」という自らの言葉のもとに語られる矮小化、小文字化した「人間は人間を殺してはならない」に書き代えてしまったのである(そこには、「人間が人を殺す」ことについてキリスト教人間中心主義社会では、誰もが表立って口外することのない、それは但し書きのついた暗黙の言葉として隠ぺいされているのである)。

こうしたキリスト教徒人間の「生きる意志」による「時間の創作」が斉らす飽くなき「生」への欲求と執着(「求めよ、然らば与えられん、尋ねよ、さらば見出さん、門を叩け、さらば開かれん、すべて求める者は見出し、門をたたく者は開かれるなり」マタイ伝十章)、つまり「可能性の先取り」はこの「時間の創作」によってその目的は成就されるのである。

その核心にある「時間の創作(可能性の先取り)」を生起させるキリスト教信仰は、深い沈黙をもって人々の心の内に秘め置かれた大いなる文字で書かれた絶対的命題がその「絶対的」の意味において全知全能の創造神の神威を侵すものであり、又それは神により啓示された「時間の創作(可能性の先取り)」の否定でもある事からしてその排除がなされなければ信徒と神との間に確立している愛を介した相互依属のゆるぎない信頼関係が棄損されるという事を恐れたのである。

つまり、キリスト教は、その信仰を証しし、裏づける「踏み絵」として信徒人間の内に宿る大文字で書かれた絶対的命題を自外に投げ出し捨て去る事を神イエス・キリストの名において強く要求したのである。

「人間は人間を殺してはならない」そんな人間のひとりに劇作家の山崎哲氏がいる。山崎氏は先の文言春秋誌上に直接する解答者ではないが標題の件について次のように述べている。「私の答えは簡単である。私は無関係な人に殺されたくない。自分がかわいいからだ。だから、私も無関係な人を殺さない。無関係な人を殺してもいいと認めることは、自分が無関係な人に殺されてもかまわないということを認めることだから。答えはそれだけなのである。その文脈でいうと『なぜ人を殺してはいけないのか』と他人に問う子どもは自分をどうしても大切に思うことができないから他人にそうした問いを発するのだ、ということになる」(朝日新聞2000年10月24日)。

人間、それは「生きる意志」を生起として自由という幻影の獲得を共有する共同幻想集団である。従って、それが集団である以上関係性からひとり逃れる事はできない。人間山崎氏は「自分をどうしても大切に思うことができないから他人にそうした問いを発するのだ」と言うが、これはおかしな話で、では(止むに止まれぬある事情から)私は「かわいい自分という人間」を「大切に思う」が故に、「他者(人間)を殺す」ことに思い到った、という殺人者に山崎氏はどう答えるのだろう。かわいい自分という人間を他人に殺されたくないとう思い、そして、かわいい自分という人間の為に他者という人間を殺さなければならないという思い、そこにあるのは、必然する人間という関係から生まれた押し止める事が不可能な矛盾である。

たとえば、典型的な人間中心主義社会の例として、銃所持の自由を標榜するアメリカは、住民個々の「生きる意志」から引き起される他人を殺すこと、他人に殺されることを有無のない正当な矛盾としてあらかじめ折り込まれている社会である。そんな人間社会では山崎氏がいくら「私は無関係な他人を殺さない」と宣言し、「だから無関係な他人も私を殺さないで欲しい」と願ったところで、他人はそんな人間山崎氏をいとも容易に殺してしまうのである。たとえば山崎氏が街中を歩いていてたまたますれ違った見ず知らずの人間に殺されたとする。「無関係な人に殺されたくない」と常々思っていた山崎氏だが、その殺人者は果して氏とは本当に無関係なのだろうか。あにはからんや、殺人者は同じ市内の住人であった。従って、氏と殺人者は同じ県、同じ日本国の住人という関係、それは究極的には人間という関係に行き着く。つまり、人間社会には無関係という関係はないのであり、あえて無関係といったところで、たかだかそれは彼我の関係の遠近、濃淡の相違にすぎないのだ。では何故、このようなことを山崎氏が言うのかと言えば、そこにはエゴイズム化した人間の「生きる意志」が小文字で書いた通り一遍の白々しい「人間は人間を殺してはならない」があるからなのだが、この事に山崎氏は全く気づいていないのである。さすれば、今こそ、山崎氏は「かわいい人間の自分」を、又「自分を他者よりも大切にする人間の自分」を捨て去らなければならないのであり、「生きる意志」に突き動かされた内なる人間中心主義社会の独善的な「かわいい自分」という人間を滅亡させなければならないのである。

つまり、山崎氏が語るべき言葉は、「人間は人間を殺してはならない」ではなくして、「人間は自らの内なる人間を殺さなければならない」なのである。あえて人間がこうした自分という人間を滅亡させることができた時、真っさらになった自身に原初の人類が経験したあの「生きていることの申し訳なさ」という思い、利他的な実存的内省が、そして真の大文字で書かれた絶対的命題「人は人を殺してはならない」が自(おの)ずからにして生起するのである。

ともあれ、人間中心主義社会に「生きる」人間が「人間を殺す」という矛盾した行為は少なからぬ可能性として有り得る事であり、否定しうるべくもない。何故なら、全ての動機が「生きる」に収れんする人間にとってそれを排除するという選択肢を許さない社会がそして人間の自分がそこにいるからである。

これに対して、生と死が同時に成立している「生死一如」の「生きている人間」にあるのは、「無関係な人を殺す、あるいは殺されたくない」ではなく、そもそもそこには「人(他者)を殺す」という動機自体が存在せず、それはなべて自分にとっては何の意味も斉らさない、たんなるエネルギーの消耗であり、言葉として成立すべくもない全く無駄な動きなのである。

つまり、時の上に「生きている人間」が今ここに「共に生きている」他者を無為に殺すという選択は事の本質において有り得ないのである。

高校生の「何故人を殺してはいけないのか」という「他者そして自身への問いかけ」は「生きるを意志とする、生きる人間」のそれである。そこには、共に「生きるを意志とする」自己と他者との間には、必然的に殺し、殺されるというのっぴきならない軋轢をともなった関係性から生じる心理的怯え、疑心暗鬼が隠されているのである。一方、これに対し「生きている人間」は、「原初においてすでに絶対的命題『人は人を殺してはならない』を誓約した自己にとって、その問いかけ自体がありえないのであり、この明確に象限を異にしている自己への問いかけは言葉の意味する所を失っているのである。つまり、「生きている人間」と他者との間には、「殺し、殺される」という外的な相互関係はなく、「生きている人間」に起り得る全ては自己の「生きていることの申し訳なさ」という思い(実存的内省)の内に回帰するのである。この相違について高校生の質問者は残念ながら気づいていないのである。「生きる人間」は「何故人を殺してはいけないのか」という常ならぬ言葉を自らの胸の内に問い続けながら互いに「生きる」ことが宿命づけられた人間なのだ。

そして、ここで明らかになるのは、標題の「何故、人を殺してはいけないのか」という「問いかけ」は、問いかけた高校生自身が「生きる人間」であるという証しをいみじくも自ら公に告白したという事である。つまり、質問者の高校生は自分が「生きる人間」である事を意識せずして標題を問うた(自明の「生きている人間」はそもそもこうした問い自体を発しない)のであり、彼はそれがあくまでも自らの胸の内のみに許される言葉として秘め置かねばならない問いであるという事を知らずしてはからずもそれを口外してしまったのである。

人間という宿命的関係から必然する自己のうちに膨れあがった欲望する「生きる人間」、この内なる「生きる人間」を滅亡させる事ができた時、全ての人間は「新たな生きている人間」となり真の大いなる文字で書かれた絶対的命題「人は人を殺してはならない」を心して共有できるのである。

地球人類の越し方の歩みをみれば、それこそ数知れない多くの戦争、殺りくという血塗られた経験が有りこそすれ、今なおこうして地球は75億人という人々をかかえ、人類は絶滅することなく存在しているという奇跡的事実は、そこに誰もが気づく事なく、そして誰もがあからさまに言葉として口外した事のない原初の人類が無の覚悟をもって自らに言いきかせ誓約した暗黙の「人は人を殺してはならない」という絶対的命題があったからに他ならないのである。