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自由の幻影と時間

— 人間滅亡による新たな自由への道 —


自由、それは人間が創作した幻影である。有体に言えば、自由とは西洋キリスト教人間中心主義社会をシュティムング(環境、気分)として了承する人間がその性起した「生きる意志」をもって可能性の先取りである「時間を創作」し、これを能動的に空間に投げ入れ求めるべくして求めた幻影、錯覚である。

ここに、アダムとイヴの神話物語にみる天与の自由の楽園から追放された「罪深き人間」は、十字架上の救世主、御子イエス・キリストがその死に臨み、黙示した「生きよ!」の〔言(ロゴス)〕の否定性をうけ性起した「生きる意志」による「時間の創作」に新たな自由の成就を思いみるのである。

つまり、イエス・キリストによる十字架上での「不可能性の可能性の経験(再生、復活)」が言告ぐ沈黙の<声>をもって語られた「生きよ!」の〔言(ロゴス)〕の否定性は、信仰を通した相互依属の関係にある信徒人間に引きつがれ、その自由という“実在的空間”の獲得に裏づけを与えるのである。この「時間の創作」を性起させるイエス・キリストに黙示された「生きよ!」の〔言(ロゴス)〕こそ、西洋キリスト教人間中心主義社会が自由の名のもとに形作る文化の全てを生み出す「母」であり、その「礎え」となるものである(拙稿「ヨハネ福音書序詞は何を語ろうとしていたのか」参照)。

古代ギリシャ時代の「存在とは何か」という問い、つまり「驚き」から生まれた「何故か」という肯定的なパトスに性起された「時間の制作」がパーソナルで不完全な自由しか斉らしえなかったのに対し、「先取り」という「時間」の持つ本質を素直にそして忠実に引き継いだキリスト教信徒人間に性起した信仰を支える「生きる意志」の否定性はその先取りに可能性を見すえた「時間の創作」の生起によって今日に見られる近代西洋の科学、そして芸術にあまねる自由を形造ったのである。イエス・キリスト出現以前の西洋におけるギリシャ時代及びローマ帝国と、キリスト教徒人間の「時間の創作」は直接的な関係性はない。古代ギリシャ時代には、そこに都市国家ポリス市民による市民社会はあったが、キリスト教徒人間による人間社会はなかったが故に、「時間の創作」にかかわる今日、我々が「自由」とよびならしているものは存在しなかったのである。つまり、キリスト教との出会いが、いまだなかった最盛期の古代ギリシャ時代にあったものは、市民成年男子だけが満足し、享受する今日から見ればおよそ自由とは呼びえないポリス市民的「独善」だったのである。ポリス市民から見ればその自由はひとえに奴隷と市民からなる都市国家において奴隷的非自由な状態にない事のみを意味していたのだ。古代ギリシャ時代には、時間の創作はなかった、あったのはポリス市民によるパーソナルな「時間の制作」による自由である。ハイデガーは次のように言っている。「『視覚的で観照的な民族のギリシャ』、そのギリシャ哲学の基礎概念にあったのは、純粋な“驚き”から生まれた制作行為であり、その本領は『これから作るべきものの形が先取りされ(イデア)、それを招き寄せ、眼前の材料(ヒュレー)のうちに据える(形から構造へ)にあった』」。つまり、ギリシャ哲学の「時間の制作」の前提にあるものは、きわめてパーソナルな「驚き」という肯定的感情、パトスなのだ。ギリシャ市民は哲学における存在問題に対する「何か」「何故か」という「驚き」を性起として、その性起した「驚き」によって先取りされた「時間の制作」を生起させるのであるが、注意すべきは、そこにはキリスト教徒人間の「時間の創作」にみられる否定性はないのである。要するに、今日のキリスト教人間中心主義社会が古代ギリシャ時代のポリス市民社会から引き継いだものは他ならぬ時間にみる「先取り」それ自体であって、それを信仰の力をもって自由の幻影、錯覚を生み出す「創作された時間(可能性の先取り)」に作り替えたのは他ならないキリスト教徒の人間である。ここに、この時間の制作と創作の相違をハイデガーの言う所の「道具」という分脈を通してあらためてその意味する所を整理すれば、古代ギリシャ時代においては、彫刻家の使用するノミのようにポリス市民の目の前に置かれた道具としてあるものは、肯定された「驚き」であり、それをもって内に視覚された「イデア(形)が先取り」され時間は制作されるが、キリスト教徒人間の場合、心象された十字架上のイエス・キリスト像への経験的視覚から生まれた信仰の力が性起させる「生きる意志」を道具とする事により、ギリシャとは全く異なる「時間の創作」という「可能性の先取り」による否定性が営為されるのである。

制作と創作そして「驚き」と「生きる意志」との相違は、「道具」としての内容は勿論だがそれが誰によって、そしてそれがどこに置かれているかの相違でもあるのだ。又、ギリシャより後代のローマ帝国について言えば、その先駆けの共和政時代を通じてもギリシャのような「時間の制作」はなかったのである。つまり、ハイデガーが指摘する古代ギリシャが基本概念とした制作行為はローマ帝国にはなく、具体的な今という現実的時性(「今を楽しめ」カルペティエ)のみがあったのである。

帝国移行後の五賢帝の一人、マルクス・アウレリウスがその著「自省録」で主題としているのも又、今という現実的時性である。彼は「人が失いうるものは現在だけである。彼が持っているものはこれのみであり、なんびとも自分の持っていないものを失うことはできない」と断言する。この本は日本では広く読まれているが、欧米においては無関心と不当に低い評価しか与えられていない。その主たる原因は彼がキリスト教徒を迫害したといわれている(事実ではない誤解である)だけでなく、今に至るキリスト教人間中心主義社会では絶対に受け容れ難い「時間の創作」の否定にあったのである。しかし、皮肉な事にローマ人のこの時間に対する大らかな寛容さが新興するキリスト教徒人間の「生きる意志」による「時間の創作」が斉らす強力な自由の幻影に圧倒され、取り込まれる結果となってしまったのである。そしてこのローマ帝国没落の引き金となった決定的な契機を作ったのが他ならぬ皇帝コンスタンチヌスだったのである。2世紀末のローマ帝国々内のキリスト教徒はわずか1%程度だったといわれる。しかし、3世紀に入りキリスト教徒が急激な拡大を見せ、国教にまでなったそもそもの原因は、ひとえにコンスタンチヌス帝にあったのである。

つまり、それはコンスタンチヌスの個人的な動機(「夢に導かれた戦勝」を機とした打算的な思いがキリスト教信仰へ向かわせた)からであり、ヨーロッパにおけるキリスト教の普及は奇跡と聖人の美しい物語として語られるようなものではなく、強大な権力に基づく極めて恣意的なものだったというのが事実なのだ(現代キリスト教世界に多大な衝撃を与えた論文が近年ローマ史学の泰斗ポール・ヴェーヌによって発表された。彼はその著「『私たちの世界』がキリスト教になったとき」において「ヨーロッパ世界の根は、もともとキリスト教にはない。それは一人の男(コンスタンチヌス)の資質が起動した偶然の過程だった」と断じている)。

かくして確立したキリスト教人間中心主義社会だが、かくなる「時間の創作」とその所有はどのようなプロセスのもとに生まれ、展べられ、観念化されていくのだろうか。生の絶対的肯定者であるキリスト神の「我なる神から汝信徒」への啓示「生きよ!」の〔言(ロゴス)〕を指示子(シフター)としてこれを受けた人間信徒は「生きるをもって意志とする」、つまり「生きる意志」を性起させこれに答えるのである。ここに信仰は相互依属の契約関係として成立したことになる。〔言(ロゴス)〕が受肉されたのである。契約とは神と信徒人間を結ぶ相互依属の約束である。キリスト神の「生きよ!」の〔言(ロゴス)〕が契約にもとづく約束として信徒人間に「時間の創作」を要求しているのだとすれば、これに対する相互依属の関係にある信徒人間は当然「生きる意志」に生起された「時間の創作」をもってこれに答えねばならない。こうして生まれた「契約の民の共同体(チェコの神学者フロマートカ)」がキリスト教人間中心主義社会なのである。

キリスト教が自裁を強く否定するのはとりもなおさずそれが神との間に担保された「生きる意志」による生の絶対性の一方的な破棄であると同時に「時間の創作」の否定(否定性の否定)だからに他ならない。つまり、キリスト教人間中心主義社会は、その信仰生活のなかで受肉された「生きる意志」の否定性による「時間の創作」をより確かなものにする事によって明瞭な契約社会の礎を築くのである。しかし、この人間に理性として与えられ担保された「生きる意志」がキリスト神の〔言(ロゴス)〕の「生きよ!」に性起されたものである、という事についてはその信仰生活の長い歴史のなかで理念化され、改めて問い返されることもなくなるのである。理念は理性が到達する最終的な概念である。他ならぬ理性は木田元の言うように「世界を創造する神の知性のわれわれのうちにある出張所」であるが、中世哲学ではそれは神の思考内容である理念とされ、更に近代に至って理念は人間意識の内容である観念という言葉に置き換えられたという事を見れば観念化された「生きる意志」が理解されよう。

しかし、信仰の歴史的深まりに伴い、止どまり知らぬ神との間に距離を置く観念化された「生きる意志」の持つ途方もないエネルギーは、あろうことか神をもってしても抑止し得ぬ程のものとなり、それは神のことばに囲いこまれた知悉する空間をより大いなる自由の獲得の為に押し拡げ、ここに人間は更なる創作された時間を引き込まんとするのである(見方を変えればそれは神により“自由の楽園”から追放された人間の神に対する怨念、当てつけである)。こうした人間による「生きる意志」の絶え間のない「時間の創作」の蓄積によって斉らされた科学そして技術がつきつける神がこうむる途方もない我が身との緊張した関係は当惑以外の何物でもなく、神自身をもってしても予想だにできないものであったろう。今や人間は「時間の創作」にかかわる神に啓示された「生きよ!」の〔言(ロゴス)〕の意図を逆手にとり、神への従順を装いながらも神に名をおく自由を自らの足元に置き止どめようとする。つまり、いちずに肥大化した観念化された「生きる意志」による「時間の創作」とその結末は、信仰に囲にようされた自由の肩越しに新たな自律した大いなる自我的自由を展望し見据えているのだ。

キリスト神と信仰契約を結ぶ「契約の民」である人間に自由意志などは本来的には存在しない。しかし、自由の幻影に酔いしれる人間は自律する自我的自由の獲得を疑うことはなく、神に対するその挑戦的態度は今や神の座をも窺い知ろうとしている。この期に及んで神は人間に何等の言葉も発することができないでいる。何故なら、人間の「生きる意志」による「時間の創作」は神自身が啓示した「生きよ!」の〔言(ロゴス)〕によって生起され受肉された信仰の証しであり神はその自己矛盾によって沈黙せざるをえないのである。まさに、ツアラツストラが言うように、ここに「神は死んだ」のである。こうした神を「死」に至らしめた人間の「時間の創作」による今や観念化した自我的自由の肥大化は、人間社会の展望を間違いなく悲劇的なものとするにもかかわらず、それでもなお「時間の創作」による自由の追求が止どまる気配はない。その原因となるであろう西洋近代哲学を代表するヘーゲルの偏見とごう慢に満ちた自由に関わる言述、つまり、彼が認識する「世界史」とよぶ「自由の意識の進歩」を通して人間と自由の歴史的経験について考察してみよう。

ヘーゲルはその著「歴史哲学」の中で次のように述べている。「(古代)の東洋人はまだ精神が、または人間そのものが本来自由であることを知らない。彼等はわずかに1人の者が自由であることを知っているにすぎない・・・・・・自由の意識はギリシャ人の中にはじめてあらわれた。しかしギリシャ人は、またローマ人も、ただ少数の者が自由であることを知っているにとどまり、人間が人間をして自由であることを知らなかった・・・・・・ゲルマン諸国民にいたってはじめてキリスト教のお陰で人間が人間として自由であり、精神の自由が人間のもっとも固有の本性をなすものであるという意識に達した・・・・・・要するに、世界史とは自由の意識の進歩を意味するのであって、この進歩をその必然性において認識するのが我々の任務なのである」。

「(古代)の東洋人はまだ精神が、または人間そのものが本来自由であることを知らない」。

東洋人は西洋人の彼等が自らのキリスト教的観念に基づき訳知り顔で語る一連の精神、人間、自由なる語を知らない。しかし、東洋人がこれらを知らないことは何も不都合な事ではなく、又何等人として恥ずべきことではない。何故ならそれは東洋人にとって全くあずかり知らない西洋キリスト教徒人間の「独り言」にすぎないからである。従って、「人間は本来自由である」などと言われてもそもそも「人間」を知らない東洋人は何のことやら戸惑うばかりで言葉がない。

「彼等はわずか1人の者が自由であることを知っているにすぎない」。

ヘーゲルは「1人の者」に東洋の「専制君主、独裁者」などをイメージしているのであろうが、当然ながら東洋人は誰あろう「1人の者」も「人間固有の本性」である自由を知らない。東洋には自由を知る「1人の人間」もいないからである。「専制君主、独裁者」なる「1人の者」が本実知っているのは西洋で言う自由ではない、洋の東西を問わない言うなれば通俗的な「独善」である。つまり、ここでヘーゲルは東洋の「独善」的な「1人の者」の「者」を言外に「人間」にすりかえることにより、東洋ではあたかも「1人の者」のみがヘーゲルが考える自由の保持者であるかの如くみせかけるのである。よしんば、ヘーゲルの言う自由に名を仮りた(東洋の)「1人の者」の「独善」が「1人の人間」の自由と同じだと言うことになれば、「1人の人間」の自由も又「独善」そのものだという事になろう。つまり、ヘーゲルが大言する西洋の自由は、何のことはない「キリスト教徒人間の独善」を単に言い換えているだけの事であり、それはヘーゲルが思いみる自由の真の正当性を棄損させている事になるのであるが、ヘーゲルはそれが理解できていないのである。

「自由の意識はギリシャ人の中にはじめてあらわれた。しかしギリシャ人は、またローマ人も、ただ少数の者が自由であることを知っているにとどまり、人間が人間をして自由であることを知らなかった」。

論者が先に指摘したようにギリシャにおける自由は、ポリス市民という「少数の者」の「時間の制作」により享受されたのである。その点ヘーゲルの見解はある意味で正しい。それは、ヘーゲルがギリシャには「時間を創作」する「人間」なるものが存在しなかったという事に気づいていた、つまり、ヘーゲルはギリシャにおける(ハイデガーが言う所の“純粋な驚き”から生起する)自由の享受が「少数の者(市民)」だけのものであったとし、それを「少数の人間」としていない所をみればそれは明白である。

しかし、ここでヘーゲルは、その原因が自由の本質的相違にかかわる、つまり、「時間の制作」の肯定性と「時間の創作」の否定性の相違によるものという明確な指摘ができていない、他なる多くの哲学者と同様気づいていないのである。「キリスト教のお陰で、人間が人間として自由であり、精神の自由がもっとも固有の本性をなすものであるという意識に達した」。ギリシャ市民社会の「時間の制作」による市民の自由からキリスト教人間中心主義社会の「時間の創作」による人間の自由へ。キリスト神の「生きよ!」の〔言(ロゴス)〕の否定性に性起した信徒人間の「生きる意志」は、「時間の創作」により言語活動の自由を生起させその否定性を成就させるのである。キリスト教を社会的規範とした、つまり「キリスト教のお陰」で人から人間になった信徒人間は神により与えられ、神により奪われた「人間のもっとも固有な本性」である自由という否定性を根拠とし、そしてそれにろう断された否定的構造を持つキリスト教人間中心主義社会を改めてここに作り出したのである。

「世界史とは、自由の意識の進歩を意味するのであって、この進歩をその必然性において認識するのが我々の任務なのである」。ヘーゲルにとって「1人の者」の自由からギリシャ市民の「少数の者」の自由、そしてキリスト教による多数人間の自由へという「自由の意識の進歩」が彼が考える「世界史」に他ならない。要するに、ヘーゲルが自らに課した「任務」として自負するものは「世界史」を貫く「ゲルマン諸国民」のひとりよがりの上から目線による自由の歴史的「必然性」を認識することなのだが、その「自由の意識の進歩」という必然性が行き着く所、つまり西洋キリスト教人間中心主義社会の「人間が人間をして自由であること」の欺瞞性が今や明白になったにもかかわらず、それでも現代の地球上に新興する経済的、政治的矛盾をかかえる少なからぬヘーゲルの言う「進歩的必然」から取り残された非キリスト教圏国家、国民がめくるめく自由の幻影を追い求める資本主義経済に問題解決の機会を託さざるを得ないというのも、今にみる現実なのである。

つまり、キリスト教人間中心主義社会における「時間の創作」が生み出す科学そしてテクノロジーは、その「理性に基づく真理」と「信仰に基づく真理」の一致(論理と倫理の一致)という矛盾した関係を孕みながら、ひたすら閾値を持たない幻影化自我的自由を生み出すのであるが、こうした自我的自由の幻影を様々な問題をかかえる非西洋圏の人々は近代に至り地球的規模に拡大した情報の均一化を手立てに自らのものにしよう(コンスタンチヌス帝のように)とするのである。

では非西洋圏諸国の人々が追い求める自由を獲得するプロセスはどのようなものか。彼等がかかえる非自由な政治、そして飢餓や貧困問題からの自由の為になされるであろう方策は、いわば現実から引越される「生存」の為の主観的営為に止どまるのであり、そこには神の意志であるキリスト神の啓示「生きよ!」の〔言(ロゴス)〕が性起する「生きる意志」の持つ本質的精神性はない。従って、ここにキリスト教信仰を持たない、つまりキリスト神の〔言(ロゴス)〕を持たない非西洋圏諸国の人々がその諸問題からの自由の為に、とりもなおさずキリスト教人間中心主義社会の根底にある「生きる意志」に生起した「時間を創作」、そしてそこから生まれる事が期待される「矛盾の解消」を得る為の手段として次のいずれかの選択が是非もなく迫られることになる。

一つは、当然ながら過去の自らと訣別し、キリスト教を受け容れ、信仰契約を結び、自由への道筋をつけることである。二つには、宗教的関係を離れ、自由に至るすでに観念化した「生きる意志」による「時間の創作」を、信徒人間のような信仰契約ではなく単なる「道具」として直接「買い入れる」ことである。それは当然これに附随するであろう周辺哲学をリスク共々に受け容れることでもある。一つ目は何等問題はない。しかし、二つ目の「買い入れ」に関して当然発生する「支払い」には実の所、それを受取る受け取り人が存在しないのだ。何故ならば、この「取り引き」は、信仰を介するキリスト神と信徒人間の相互依属の信仰契約とは異なりそもそも相手のいない自己の内に完結する「取り引き」だからである。つまり、売り出し人のいない「生きる意志」による「時間の創作」という「道具」の購入に関わる全てに対して支払われる対価は、買い取り人の文化的負債として当該人に担保される事になるのであり、この自己の内に積み上げられた負債は、当然正常な収支を考えれば、それは自らの文化的度量の大いさによって消化成算されるべきものでなければならないのである。かくして「買い入れ」られた「生きる意志」に生起する「時間の創作」だが、つまる所、その対価を担うに充分な覚悟と文化的キャパシティーが自己の内にあるというのであれば、砂漠の涯て、はたまた熱帯雨林の奥地においても「時間の創作」がなされ、目的とする自由なる幻影を手に入れられるのであり、結果「近代工業国家の建設」も何等不可能ではないという事になるのである。

それは今日のアフリカ、ドバイの砂漠の上に林立する、かつて何人も予想だにできなかった目を剝く圧倒的な近未来的高層ビル建築群を見れば一目瞭然誰もが納得するであろう。要するに、マルクスの唯物論的歴史観は勿論のこと、トインビーの文明史的歴史観、はたまたそれを生態学という視点から見直したとする梅棹忠夫の生態史観は、インターネットを介した現代の情報化時代が斉らした運輸、通信のグローバル化、つまり地球規模に及ぶ破壊的な構造変化を前にして歴史、地誌、生態といった差別的な区分は無意味化し今日ではその説得力を完全に失っているのである。

ともあれ非西洋圏諸国が目標とする近代化のモデルは西洋資本主義経済社会である以上、ここに新ためて彼等がなすべき手段は、観念化した「生きる意志」を直接買い入れ「時間の創作」を生起させる事のほかに道はないのである。

翻って、では日本はどうか。時あたかも江戸時代末期、黒船来航という一事が斉らした衝撃的な近代西洋との本格的な出会いにより、彼等西洋人間の底知れぬ強烈な「生きる意志」を、そしてそこから生起する「時間の創作」をあらためて目のあたりにした日本は、近代工業国家の建設は逃れえない時の要請(自ずからにして捨てられる時、拾われる時)である事を理解し、観念化した「生きる意志」への認識とその受け入れを心泥みながらも大いなる覚悟のもと決意したのである。つまり、明治期以降の「時間の創作」による日本の近代工業国家への歩みは、自己の内に担保された文化的矛盾にもかかわらず、移り行く世界の現状の今を俯瞰し、自(おのず)からなる「時の流れ」を想いみる自性に培われた「時間の想作」の経験によりそれは、咀釈、消化されたのである。

この日本の否定性を伴わない「時間の想作」にあっては、近代資本主義を支え、基礎づける倫理的精神性を生み出す事は不可能ではないのかという疑念、そこには大きな不見識誤解があるのである。

つまり、M・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」にみる経済倫理は日本の室町時代から近世にかけて広く民間に浸透流布していた「三社託宣(石田梅厳“斉家論・下”)」にみられる「正直、清浄、慈悲」を徳目とした日本社会の自性(本性)にあまねる利他的な倫理が、すでに裏づけを与えており、ここに明治期の日本が近代資本主義を向かい入れる精神的準備は充分に整えられていたのである。

M・ウェーバーは近代資本主義について、それは神の召命としての労働を絶対的な自己目的とするピューリタリズムの「天職(Beruf)」理念に基づく生活態度や職業観念を抱く人間集団がその成立に深く関わっており、そこに生まれた誠実な禁欲と倹約によって斉らされた資本形成が資本主義の土台を形作ったとしている。

今ここに、これをあらためて同時代の日本の江戸時代に引き移してみれば、商工民つまり町人階級そしてピューリタリズムの「天職」に代位する広範多種な「職人」集団、彼等「生民」による社会的そして文化的に成熟した貨幣経済が生み出した「正直と信(まこと)そして倹約の実践」を倫理的いしずえとする初期資本主義の萌芽である経済合理主義をすでに日本は経験していたのである。つまり、日本文化の自性(本心)にある「時間の想作」は西洋キリスト教人間社会の「時間の創作」に明らかに対極する立ち位置にありながら意識せずして近代資本主義の本質的核心を取りこんでいたのである。明治期世界に立ち向かう日本のこの客観的な経験は、西洋人間社会の「時間の創作」に対する理解を大いに容易ならしめたのである。

こうした自らの立ち位置を失う事のない日本独自の文化的アプローチに対し、西洋においては先に述べたようにキリスト神の〔言(ロゴス)〕の「生きよ!」により「生きる意志」が性起され、そして時間が創作される。つまり、生の絶対的肯定者である西洋人間社会は時間性の中に生きる(その中でしか生きられない、生かされている)のである。

ハイデガーはこれを「世界内存在にある現存在の人間(ダーザイン)は時間性の中に生きる」と言っている。これに対し、かくなる世界に実存する生と死は、生死一如という秩序の表象であるとする日本人は、そこにあらためて「生きていることの申し訳なさ」という思い(実存的内省)、つまり非時間性の今上の世界を「生きている」自らの実存を思い知らされ内省するのである。

実存的内省は、その「生きている」という一事において利他的であり、多種多様な世界の「いのちとかたち(エイドリアン・ベジャン)」に連用する。この連用する「生きている」実存は、たまさか静止しているかに見えながらも実は、「時の流れ」を内にはらみ動き続けている無窮の天空に浮かぶ動的平衡の一塊の小石が見せる相対的存在に言いあてられる。キリスト教人間中心主義社会のように声高なあからさまな「生きよ!」というキリスト神の〔言(ロゴス)〕を聞かなかった日本文化において生死は不二一如であり、生に対する死は常に利他的であってキリスト教々義のように生は善で死は悪という二律不存の利己的なものとはしない。日本人にとって万物万有は、現代社会が常々口にする共生共存ではなく、共に生き共に死す共生共死の存在である。そこに死に対する不遜な侮どりはなく、生と死は等質等価に与えられた秩序であり、死の存在が有りこそすれ新たな生がよび起されるとして常に平等に扱ってきたのである。この生も死も動的平衡のもとの秩序であるというコスモスの教えによれば、性に裏づけられた生と死は輪廻転生の必然的宿命(運命ではない)であり、事さら騒ぎたてる程のものではないのである。それは時を置かず動き続けているある状態、自(おの)ずからなる時に捨てられ、代謝し拾われる「時の流れ」に現れ出る今ある実存に他ならない。つまり、日本人にとっての自己は「意志」が作り出すのではなく、連用する実存を内省し、自らを代謝する事により新たな自己が生まれるのである。

死を侮べつしない「生きていることの申し訳なさ」という思い、即ち実存的内省は今なる実存にみる内省であり、その思いが自(おの)ずからにして時を移すのである。それは無の動き(流れ)であり、そこに意味無意味を問う事はできない。実存的内省の「生きている」という無の動きは時間を創作しない。これに対して、キリスト教人間中心主義社会の「時間の創作」はキリスト神の〔言(ロゴス)〕「生きよ!」に性起された人間の「生きる意志」が生み出す有限エネルギーによって創作される。ここに速度は距離/時間で表される事からして、速度も又人間による創作だといえる。つまり、人間社会においては、有限エネルギーが有限の時間、速度を作り出すのである。

しかし、めくるめく宇宙コスモスにおいては、何故かは問い得ない時の上に起きた「時のゆらぎ」、言うなれば「秩序の崩れ」が生み出した「時の流れ」に順う無の動きがエネルギー(正しくはエントロピーの増大)となり、連用し理りされた「いのちとかたち」がここに与えられるのである。

つまり、今なお無限速度をもって膨張し、創造されつつある「動いているある状態」の宇宙では、無の秩序の内に生じたこの「時のゆらぎ」という「ほころび」によって生まれた「流れ」をエネルギーとして、今ある自己が代謝し新たな自己を作り出し続けている、つまり、そこに時間は無い「生きながらにして生まれかわる」のである。「流れ」の中にあって意志を、目的を持たない宇宙世界は、在るべくして在る、動的でありながらも、エネルギーを孕んだ静的な秩序、それが宇宙世界の実相であるが、それは生命についても言えるのである。

生命について、シュレジンガー、シェーンハイマー等が明らかにした「生命」という秩序はそれを守る為に絶えまなく壊され続けている(生物学者の福岡伸一はこれを“動的平衡”といっている)」という事実、「動的でありながらも静的な生命秩序」の意味する所は、生命とは絶え間ない「流れ(時間ではない)」の中に身を置く事でしか秩序づけられないという事である。つまり、生命とはいわず宇宙世界に見られる秩序「いのちとかたち(エイドリヤン・ベジャン)」は「時の流れ」によって斉らされる動的平衡の効果に他ならないのだ。コスモス世界における生死が「不二一如の秩序」であるとすれば、人の生の無意味性は明らかである。つまり、生そして死はとりたてて論ずる程のものではないのである。「ねがい求める者には欲念がある。またはからいのあるときには、おののきがある。この世において死も生も存じない者——かれは何を怖れ、何を欲しよう〔ブッダのことば—スッタニパータ902〕」。

実存的内省の背景にあるものは、自然と人が織りなす今ある時を一期一会の出会いとして描きだす一幅の情景である。この情景を形づくる時の出会いは、あえて時間を創作してまで希み求めたものではなく、自(おのず)からなる「時の流れ」によってそれは生まれたのである。自己がこうした一期一会の出会いに立会い得た感慨(感激ではない)とはうらはらに、これによって相対する今ある時の秩序が傷つき損なわれはしなかったかという思い(負い目)、そして他者という鏡の中にあらためて自己のそうした姿を見い出した時の驚きとためらいが、実存的内省、即ち「生きていることの申し訳なさ」という思いなのである。そんなまさに主客(自他)合一の情景の中に在る実存的内省者の自己は、人間自己を捨てた「人間不在」の自(おの)ずからなる「生きている」非時間的自己である。

しかし、同じ「人間不在」でありながら、人間中心主義社会に「生きる人間」の「人間不在」は自からがエートスとする社会空間である公に対する背叛である。つまり、人間中心主義社会における「人間不在」は論理的に矛盾しており、許されない有り得ない事なのである。

かつて作家の埴谷雄高は、「私が私であることを拒否する」自己否定の思いを、「自同律の不快」と表現した。つまり、「自同律の不快」とは自己(私)が自己(人間)であらねばならない事に対する不快、苛立ちである。しかし、人間中心主義社会においては、自己(人間)の存在を疑う者、つまり「人間不在を生きる」は、社会の名において許容されず、その居場所は当然ながらなくなるのである。今ここに人間であらねばならない人間中心主義社会に生きる「自同律の不快」者埴谷は、「人間不在を生きる」という矛盾について、その覚悟の程をあらためて人間社会から問い正されているのである。人間中心主義社会が埴谷につきつけた矛盾、それは自同律の不快者埴谷には、彼自身の在り所となる空間が、ここには存在しないという警告である。では、この矛盾について埴谷はどう答えるのか。あらねばならない人間自己を疑いながらもあえてそこに自らの自由を思いみる埴谷は、それを「虚体」なる境地に求めたのである。埴谷を論じた白川正芳著「始まりにして終り」によれば、「虚体とは無ではないが、実体のない存在」だそうである。しかし、これはおかしなむしのいい話である。「無ではないが実体のない虚体」、その虚体に自らの境地を見い出したとされる埴谷だが、そんな自身が否定しうべき実体である人間中心主義社会に居据わり、あつかましくも「人間の不在を生きる」という、それは論理的に矛盾しているという事は誰がみても明らかであろう。

要するに、「自同律の不快」者は、自己(人間)の不快さに耐えられない自己(私)の自由を無でもない実体でもない「虚体なる境地」に見いだしたという事なのだろうが、そんな都合の良い「虚体人間」の受け入れ先、身の置き所など、人間中心主義社会の実体空間には有り得ないのであり、それは幼児よろしく単に駄々をこね無いものねだりする甘えである。

自己が自己であるについての内省、つまり実存的内省(「生きていることの申し訳なさ」という思い)は、自身の「生きている」が自(おの)ずからに連用する無にして空の宇宙コスモスと一期一会の出会いを通して真に触れ合い得た感慨から生まれる内省「自他同一」の内省である。これを埴谷の言葉を借りて言えば、「自同律の申し訳なさ(内省)」という思いになろう。さすれば、「自同律の不快」そして「自同律の内省」、そこに計らずも共有されるものは「無」なる「空」にある筈である。自同律の不快者が身の置き所とした虚体なるものが人間社会空間には存在しない、有りえないものであるならば、それに代り得る受け容れ先があるとすれば、それは空間に代る空、時間に代る時、つまり正に白川正芳が言うところの「始まりにして終り」である非時間の時の上の無なる空しかないのである。

「自同律の内省」という思いは、虚体でもなければ実体でもない、それらを否定した実存的内省からのみ可視される「時間の創作」に関わる象限を離れた「時の上の無」にある。他方、実体を否定した創作された時間性を拒否する「自同律の不快」者埴谷の行き着く先は、同じ「時の上の無」なる空に身を置く他、選択肢は残されていないのである。さすれば、人間滅亡という点において「自同律の不快」と「自同律の申し訳なさという思い(実存的内省)」は時の上の無なる空(コスモス)を「新たな自由」の場として共有できるのであるが、埴谷にはその認識はない。

埴谷雄高は、マルクス主義からアナーキズムへという思想遍歴を経ているようであるが、これら西洋哲学思想の根元にありながら、ハイデガーを始め彼等「人間」が問いかけることのなかった「そもそも人間とは一体何なのか」という疑問について、いまだ人間の不在を生きる虚体人間を脱する事のできない埴谷には、あらためてその問い自体が思い浮かばないでいるのである。つまり、自由を追い求めさまよう埴谷は、意識されざる人間であり、いまだ人間を捨てきれないでいる人間、そして人間滅亡的人間になれない人間なのだ。

この人間の本質的核心を理解できないでいる人間、それは哲学者ハイデガーにも言えるのである。「人間存在の自由」のもと西洋近代の人間中心主義哲学の克服を目指し、反哲学を標榜したハイデガーだが、安易にもそれは木田元によれば「人間の自己転回」によって充分可能だと考えていた。しかし、その哲学の集大成である主著「存在と時間」の第二部は陽の目を見ることなくゆき詰まり、未刊のうちに終った。その原因は彼の哲学に根本的な矛盾がひそんでいる事にハイデガーは気づいたからである。ハイデガー哲学のキーワードである現存在(ダーザイン)は<おのれを時間化する>という<時間化のはたらき>によってその存在は了解されているとする。そして、その時間化の展開は、本来性、非本来性の区別があるが「アリストテレス以来の伝統的存在概念は非本来的時間性を場として行われており、その自然を単なる<材料、質料>としか見ない自然観が今日に至るヨーロッパ文化形成の基盤となっている」とされる。そこで「ハイデガーは人間を本来性に立ちかえらせ、本来的時間性にもとづく新たな存在概念おそらく<存在=生成>という存在概念を構成し、もう一度自然を生きた生成するものと見るような自然観を復権することによって、明らかにゆきづまりにきている近代ヨーロッパの人間中心主義的文化をくつがえそうとした(木田元著『ハイデガーの思想』)」。

では何故この企て「非本来的時間性から本来的時間性」への転回は挫折したのか。木田元が言うように「それは現存在がおのれ自身を本来性にたちかえらせることによって果たされるものであり、その転回の主導権をにぎっているのは、あくまで現存在である。だが人間中心主義文化の転覆を人間が主導権をとっておこなうというのは、明らかに自家撞着を起している事になる(同上書)。」

西洋文明は、ギリシャ市民社会から今日のキリスト教人間中心主義社会に至るまで、ギリシャ時代のポリス市民の肯定性の「驚き」による「時間の制作」であれ、キリスト教下のキリスト教徒人間の否定性の「生きる意志」による「時間の創作」であれ、その歴史に一貫して「本来的」にあったのは、ハイデガーが言う所のいわゆる非本来的時間性の時間である。

つまり、キリスト教人間中心主義社会の自由の根源に有り、それを形作る「時間の創作」は「非本来的時間性」を本質としており、それは今ここでハイデガーによって論じられている「本来的時間性」とは全く相いれない、関係性のないものである。

要するに、キリスト教人間中心主義社会においては、そもそも「本来的」に「本来的時間性」といわれるものは存在しない、というよりも社会構造的に存在し得ないものなのだ。その有り得ない<存在=生成>といった存在概念にもとづく新たな自然観(西洋形而上学が形作る人間中心主義文化にあるのは、人間に認証され利用されるべき存在としての自然である。ジル・ドウルーズは悪びれる事なく、それを「人間的自然」と言っている)のもと、非本来的時間性を本来的時間性に転回させ、そこに真の自由を思いみるハイデガーは、自らがキリスト教人間中心主義社会をエートスとして了解する真正のキリスト教徒人間(ハイデガーは紛れのないプロテスタント教徒である)であるにも関わらず、何の事はない「形而上学の克服」を掲げ、「本来的」にキリスト教人間中心主義社会と関係性を持つ事は不可能な本来的時間性なるものを独り夢想するのである。

それは自らがエートスとする人間社会への背叛であるとともに、自らの哲学に対する明確な背信行為でもあるという事にハイデガーは気づいていない。つまり、ハイデガーは自身が意識されざる否定性に根拠を有する「時間を創作」する非本来的時間性人間でありながら、何くわぬ顔でその自らを否定(ダーザイン自己による人間自己の否定)するという、この無意識のうちに為される自己転回は、その二重性において論理的矛盾を引き起こし、木田元が言うようにそれは自家撞着として帰結するのである。

要するに、ハイデガーが思い描く「人間中心主義の非本来的時間性から『自然を生きた生成とする自然観』にもとづく本来的時間性へ」という有り得ないテーマに対して、ハイデガーがエートスとするキリスト教人間中心主義社会は自らの本質に鑑みて、それを理解し受け入れなければならない「がい然性」、理由がそもそもないのである。

つまり、ハイデガーが目論むその独りよがりの「人間の自己転回」は問題の立て方そのものが不条理であり、当初においてその意味する所はすでに失われてしまっているのである。では、ハイデガーはどのようにしたら、この「人間中心主義文化を覆す」という意識されざる自家撞着の矛盾から抜け出すことができるのか、それは「人間とは一体何なのか」という問いを今ここに改めて真摯に自身に投げかけてみることである。つまり、ハイデガーの自家撞着は、不可能で有りもしない本来的時間性への転回を希む現存在(ダーザイン)自己が人間という自己に在らねばならない事により生じる矛盾である。さすれば、自存するキリスト教人間中心主義社会を構成し、了承する人間自己を大いなる決意をもって今ここに捨て去る事、つまり人間自己を滅亡させる、言うなれば内なる自裁ができれば、その自家撞着は自ずと解消されるのである。

そんなハイデガーと問題意識を共有する近代の西洋において「時間の創作」の否定という経験、つまり果てしない「時間の創作」により疲れ果て歪んでしまった自由を生み出す元凶である「人間」そのものの自裁ならぬ止揚が試みられたのである。止揚された人間、それがマルクス主義による「時間の創作」に代る「時間の製作」のもと、彼等にとって歴史的必然とされる共産主義社会に究極の自由を思いみる「共産主義的人間(L・トロツキー)」である。しかし、この彼等「新たな人間」」により計画された「時間の製作」による自由の獲得は完全に失敗のうちに終った事は皮肉にも歴史が正しく証明しているところである。

つまり、「共産主義的人間」は「人間」にまとわりつく人間の本性に染みついた「時間の創作」を何をもってしても振り払い、捨て去る事ができなかった、言いかえればハードとしての共産主義社会は「時間の製作」をもってそれを荷ない動かす事が期待された「共産主義的人間」というソフトパワー(新たな人間)を作り出せなかったのである。

「人間存在の自由」を追い求めたハイデガーの「人間の自己転回」そしてハーバーマスの「人間の解体」と同様に共産主義の「人間の止揚」も、「時間の創作」に浸りきった人間存在にとっては本質的に不条理であり、受け入れる事のできない矛盾に満ちたものでしかないという事がはからずもここに露呈、実証されたのである。

「人間自己の転回」を企てながらも終生自己に拘わり優柔不断な自らを滅亡させる事のできなかった現存在人間ハイデガーの哲学的挫折は至極当然の帰結であると同時に、先の埴谷雄高の「自同律の不快」も又、その不徹底故に同じ轍を踏んでいるのである。つまり、埴谷の矛盾は「私」が「人間自己」であらねばならない「自同律の不快」として、そしてハイデガーの矛盾は現存在ダーザインが人間自己である事により起る「自家撞着」としてである。

「時間の創作」という否定性をもって自由なる幻影を作り出し、それに酔いしれる人間は、今やその自由が斉らす途方もない混乱と矛盾によって自壊しようとしている。これに対しハイデガーを始めとする幾多の西洋の近代知性は、“真の自由”を追い求め変革を試みたが、それは所詮彼等が社会合理性として認めるキリスト教人間中心主義社会という脱出不可能なコップの中でのとり止めのない議論であり、結果その揺るぎない人間中心主義文化の「時間の創作」という否定性に搦めとられ、彼等はその自縄自縛の自己矛盾から脱却できず、はしなくもその労苦の対価として得られた非本来的自由に彼等「人間」は納得しないのである。

もう結論は出ている。「人間」は自らをして自らを滅亡させなければならない。人間は内なる人間を滅亡させ、「新たな自由」のステージへ生まれ変った「新たな人間」を立たしめる他に道はないのである。キリスト神という「存在の一義性」から生まれた「生きる人間」によるキリスト教人間中心主義社会の歴史的展開が指し示す最終的に行きつく先は、言わずと知れた止どまりしらぬ「生きる意志」の否定性に生起した「時間の創作」とその所有が生み出す際限のない「欲望の自由」のもとに繰り広げられる絶望的な資本主義経済社会である。しかし、これに対し、幸いにもキリスト神の「生きよ!」の〔言(ロゴス)〕を聞く事のなかった日本の「生きている」生民の伝統的自性にある利他的な実存的内省が語る人間滅亡こそ真の「新たな人間」である「生きている人間」を生み出し、この「新たな生きている人間」が終えんを迎えた現代資本主義に代る「新たな資本主義」ポスト資本主義経済の展望にヒントを、そして力を与えるのである。

実存的内省から生み出される「新たな人間」の「時の流れ」を想いみる「時間の想作」が作りだす静ひつな力は、真正人間の生起する「時間の創作」の喧騒に幻惑された自由が持つ力には明らかに及びえない。しかし、思いみれば、何も生き急ぐことはないのである。コスモスの「流れ」を想いみる「時間の想作」のもと、実存する「生きている」確かな自己が生起させる内省、代謝を通して新たな自己「いのちとかたち」を今ここに静かに作り出していけばよいのである。全ての宇宙の事象は、有無のない時に順う「時の流れ」に自(おの)ずから現れべくして現れ出た「出来事」である。地球40億年の越しかたを眺めみれば、何となく生まれ来て、何となく生きてきた人類数万年の営みなど多寡がしれた「出来事」なのだ。

イエス・キリスト神の〔言(ロゴス)〕「生きよ!」の否定性の一語により性起した「生きる意志」によって生き急がされてきた地球人類は、今こそ西洋キリスト教人間中心主義社会の利己的な非本来的時間性の「時間の創作」が生み出す、自由の幻影に代って、日本文化の自性にある自然<存在=生成>に連用し、他律的にして利他的な実存的内省がつむぐ穏やかで確かな歩みが斉らす自由、即ちハイデガーが語る真の「本来的時間性」を託された「新たな生きている人間」の「時間の想作」が形作る人間滅亡的自由に、世界は今ここに新たな思いを至さねばならないのである。