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浮世絵に見る雨の表現ついて

— 日本美術と時間 —


歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」の中でも「庄野白雨」「土山春の雨」は、なべて傑作の呼び声が高い。「庄野白雨」は動的な夏の雨、そして対照的な「土山春の雨」は静的な雨である。しかし、どちらも雨の描き方は、沢山の直線をほぼ斜め平衡に引き降ろすことによって表現されている。況ゆる篠つく雨、直線の雨である。こうした表現方法は古くは「鎌倉時代の一遍上人絵巻にも見られる」が、「共通した表現方法として確立するのは江戸時代に入ってから」だそうである。つまり、この描き方が流行するにつれ、それは衣粧の文様などを始めとする様々な分野に広がり、日本独特の雨の描き方として広く定着し、同時に様式化していったのであろう。では一方で西洋人は雨をどのように描いているのであろうか。イギリスの画家ターナーの「雨、蒸気、スピード、グレート・ウエスタン鉄道」を観ると、雨中を疾走する蒸気機関車を描いているのだろうが、日本人の目には何が雨なのか皆目訳らず題に対する違和感が残るだけである。つまり、画面からは我々の雨のイメージに通ずるものが全く感じられないのである。ところで、こうした日本の浮世絵の直線により表現される雨は西洋人には甚だ異国趣味的(ジャポニズム)な興味を引き起こすようで、(“直線の雨”が表現された近代西洋絵画は何点かあるが)アメリカのディビッド・ホックニーはタイトルもそのものズバリ「キャンバスに降る日本の雨」なる直線の雨の絵を残している。ではこのような日本と西洋の雨の表現の相違は一体どこからくるのだろうか。黒澤明監督は映画「羅生門」の激しい雨を始めとしてその作品には多くの雨を降らせた事で有名だが、中でも人々の印象に強く残るのはハリウッド映画人にただならぬ影響を与えた「七人の侍」の土砂降りの雨中での戦闘シーンであろう。ここに一枚のスチール写真がある。この「七人の侍」の一場面、篠つく雨の中、弓を引きしぼる志村喬、敵を見すえる三船敏郎をショットしたものである。この写真が見せる雨滴が激しく斜めに降りそそぐ様は圧倒的な迫力を感じさせるが、良くこれを見ると雨滴の軌跡はとぎれとぎれではあるが、紛れもなく長い直線を思わせる雨である事が窺われる。スチール・カメラのシャッタースピードは時間と同義と見なせるが落下する雨滴に応じたその軌跡は当然シャッタースピードに比例した長さ(時間)になる筈である。要するに速いシャッタースピードでシャッターを切る程、雨滴の軌跡は短いものになる。更に速いシャッタースピードならば雨滴の軌跡は見えなくなる、つまりターナーの絵のように雨が降っていても雨滴は霧のように見えるという事にもなろう。しかし、逆に星の運行の露光写真のように、シャッタースピードを極限まで遅いものにしたらどうだろう。天体の星々の軌跡は、広重の浮世絵に見る如く、「天から大地まで一本につながっている(かに見える)雨」の軌跡に限りなく近づく事が容易に想像されよう。つまり、このスチール写真を見る我々日本人の目には広重の雨に対する強い親和感があり、更なる絵画的デフォルメを考慮したとしても、それは充分首肯されるが、一方、ターナーの絵に対してはそれは全く感じ取れないのである。これは目の前の「降る」のではない尋常に今「降っている篠つく雨」の観察によっても結論は同じである。つまり事象の変化、継続を時の上に止どめ置き降っている雨を見ている我々の今なる目の網膜には、雨は紛れもなく露光写真を思わせる時をなぞる雨の軌跡として切り取られ映じているのである。それは日本人のみならず、誰でもが可能な日常の雨の観察によって納得させられ裏付けられる錯覚でも何でもない事実認識であり、何も新たまって言う程のことでもないと思われるのだが、ならば何故に、西洋人は浮世絵に表現される雨にことさら否定的な異和感をいだくのだろうか。そこには雨の気配を全く感じさせないターナーの絵に「透明にして速度(時間)という真理を持った雨滴は人間の目に止どめ捕捉する事は不可能であり、それをあえて画面に表現しようとする広重の絵に真実性はない」という「科学的そして合理主義的」説明をはなから予断している事がうかがえる。しかし、それは上記で述べたように、我々の実体験の観察結果の雨の軌跡とは全く異なるものであり、それは時間に対するアプリオリで観念的な思い込みから生まれた甚だ「不合理」な軌跡のない雨なのだ。つまり彼等には明瞭に認識されている筈の降っている目の前の篠つく雨をキャンバス上に写し取り描こうとする瞬間、そこに時間が創作され軌跡は消されてしまうのである。一方、広重の浮世絵に描かれた「天から大地まで一本でつながっている(かに見える)雨」にあっては、時間はなく、あるのは実存する時をなぞる「時の流れ」である。つまり、その画面上から読みとれるものは、観念化された時間を念頭にした「天から大地まで一本でつながった雨」ではなく空漠の時に順う実存をなぞった「天から大地まで一本でつながっている(かに見える)雨」である。要するに広重には「時間の創作」に対する認識は更々ないのである。しかし、これに対し、西洋人間社会は「自らの歴史が築いたと自負する近代世界の基盤を担う「生きる意志」に生起した「時間」を創作し得ない者は未開な人間であると見なし、彼らは広重の「雨」に「非合理的」な雨を見ると同時に、「時間」を持ちえない他文化に対する近代西洋文化の優越性を言わずもがな想いみているのである。ホックニーの絵にしても、それが感じられる。つまり、その題名からして彼の絵は日本の「直線の雨」に対する親和感というよりも冷ややかな目で描かれた「戯画」であり、そこには他文化への尊敬、そしてそこから何かを真摯に汲み取ろうという態度は見受けられない。
言うなれば、時間に対する真理を確信的に自覚するホックニーは、広重の「雨」をパロディー化して見せているのである。しかし、キャンバス上に表現されてしかるべきものは、一つの真理ではない、又「真理と不可分の真実」でもない。それは表現者個々が心する真っさらな既存のバイアスのかからない真実でなければならない。キャンバスもこれのみを要求しているのであり、そしてそれこそが鑑賞者に真の共感をよびおこす作品となりうるのだ。西洋において真実の「降っている雨」がキャンバス上に表現されることはありえない。何故なら、描き手の脳中にすでに摺り込まれている意識されざる「時間の創作」によって雨の実存の軌跡は意図的に消されてしまうからである。つまり、ターナーの絵に見る「降っている雨」は、言うなれば時間という積分を伴った透明な雨滴はキャンバス上に描く事はできないという西洋文化に底意する「科学的」“約束事”から生まれた雨である。キャンバス上に描かれるべき雨は実存する「降っている雨」であり、降る雨でもなければ降った雨でもない。「風雨、時に順う」雨である。ターナーの絵にしても、「雨、蒸気、スピード、グレート・ウエスタン鉄道」の題意には、「降っている雨の中を疾走する蒸気機関車」、つまりスピード(時間)という言葉で括られた「雨と蒸気機関車」に鑑賞者の同意への要求が暗示されているのである。要するに、「時間の創作」によってキャンバス上に「降っている雨」の絵画的表現ができない西洋の描き手はどうするかといえば、それはターナーの絵の題意が示しているように、言語文字をもって説明し鑑賞者に「降っている雨」を想起、納得させる他、手立てはないのである。西洋において鑑賞者に対するこうした時間を介した「降っている雨」の暗示的説明に誰もが「不自然さ」をいだかないのは、何よりも絵の鑑賞者と画人が時間の創作を共有しており、これについて両者の間には暗黙のうちに了解され観念化された時間の常識化が出来あがっているからである。
この「時間の創作」が斉らす全てを二次元のキャンバス上に表現する従来の西洋美術の伝統に対し、その否定的潮流として現れたのがキュビズム(立体主義)運動だとされる。
つまり、キュビズムは旧来の「時間の創作」による視覚的な錯覚から生まれた空間を拒否し、それに代る触覚的空間に立体する外形が持つ本質的精神性を見出そうとするのである。それはルネッサンス期に大いなる隆盛をみた「真理に不可分な真実」の追求に対して「同時性」のもと、対象を多面体に解体し、その新たな積み重ねによるコントラストから立体内部の真実を見るという事のようである。しかし、この一見「時間の創作」の否定かに見えるキュビズムの「同時性」だが、その意気込みとは裏腹に、それは従来の西洋美術の「時間の創作」から依然として抜け出す事に成功してはいないのである。
つまり、キュビズムの「同時性」といわれるものは、従来の「時間の創作」を単に「輪切り」にしただけのもの、つまりその「同時性」は「時間の創作」の前提なくしてはそれ自身が成り立たない、立体と言っても「時間という本質によって組立てられた三次元的立体」の「同時性」であり、そこには時間から逃がれた真摯で独創的な革新性は認められないのである。
キュビズムの同時性は「時間の創作」のくびきから脱する事ができず西洋美術の伝統を覆す程のものとはならなかったが、それは当然といえば当然で、視覚的空間から触覚的空間へと言った所で、所詮どちらも対象を見、そして描くのはとどのつまり人間、つまりそれは西洋キリスト教人間中心主義社会をエートスとする「時間を創作」する人間表現者の視覚、脳内作用に他ならず、解体し平面化した対象には依然として生起した時間が取りついている事に変りはないのである。
ともあれ問題はピカソが奇しくも言っているように「私は対象を見えるようにではなく、私が見たままに描く」にあるのである。つまり、表現者は自らの目に映じた「降っている雨」を素直に表現すればよいだけの話なのだ。天走る雨滴が残した時々刻々の軌跡を時の「流れ」をもってなぞらえた実存の「天から大地までつながっている(かに見える)雨」は、我々の日常の経験知からしても誰もが首肯する明らかな真実であってそこに科学に事寄せた「時間の創作」というバイアスがかけられる事は真実を汚すことであり許されないのである。つまり、今ここにキャンバス上に表現されるべきは真実のみであって、科学的真理は要求されていないのである。真理は一つである。しかし、真実は一つではない。何故なら科学的真理は誰もが認める揺るぎないものだが、真実と思われているものは、人それぞれにおいて相違している。科学の目を通して見れば一粒の雨滴が一本の線となって降り注ぐなどという事は明らかに真理とは言えない。しかし、今我々の現前に降っている雨を見つめている目の網膜にはそれは「一本の線」としてありありと映じている、これは紛れもない真実である。又、雨滴は透明でその動きを目で確かめる事はできないというのも一面の真実であろう。つまり、ターナーの絵も一つの真実である事は間違いない。しかし、そこに作為的な常識化された時間の創作がなされる事によって誰もが認める明らかな真実が歪められ否定されるとすれば、それは真実に対する冒とくである。日本と西洋の真実へのアプローチの相違、それは先に述べたシャッタースピードの速度の相違に還元されるという問題ではない。西洋人間社会が自らの創作になる時間に裏付けられた「真理と不可分な真実」をもって「今降っている雨」を見ているという事が問題なのだ。
日本民族は非時間的世界に生きてきた民族であり、浮世絵においても「天から大地までつながっている(かに見える)雨」、即ち事象の変化、継続を実存する時の「流れ」に止どめ置き降っている「風雨は時に順う」雨に雨の持つ真実(リアル)を見てきたのである。要するに日本の自然と風土の真実(リアル)が時間の創作を許さなかったのであり、言うなれば日本の四季の移ろいの確かさが人々に時間の創作の必然性を与えなかったのだ。連用する「降っている雨」に雨の真実(リアル)を見る日本人は「生きている、今」に人生の真実(リアル)を見る。雨は「降る」のではない、「降っている」のであり、人は「生きる」のではない、自然に連用して「生きている」のである。「生きている」真実、それは一見静的に見えるが、動的な平衡である。「生きている」という秩序は状態である。しかし、それはただ単に停滞し存在している状態ではない。それは絶え間のない時の流れによって斉らされた膨大なエネルギー、言うなればエントロピーの増大を孕みながら沸きたっている動的な平衡秩序である。
つまり、広重の「土山春の雨」「庄野白雨」にみる正に「時の流れ」を押し止どめ「降っている雨」は静的なしじまの中にも動的な平衡秩序がみてとれる一幅の情景であるのに対し、ターナーの絵は動的平衡秩序を懸命に表現しようとしているのであるが、それはあくまでも説明されて初めて鑑賞者に理解される、つまり説明されなければ理解できない光景、風景なのである。
連用し実存する「生きている」互いが織りなす情景、それは「生きていることの申し訳なさ」という思いが織りなす確かな情景である。「生きている」という単なる実存には意味がない。情景を形作る互いの内省、つまり、日本に自性(本心)する利他的な実存が内省された自己の内では単なる「生きている」のは存在意味はない。
この「生きていることの申し訳なさ」という思い、実存的内省は西洋人間社会にはなく、日本衆生の有情の世界(時間)においてのみ見い出される。浮世絵に見られる雨滴の軌跡、時の流れという実存の軌跡である直線の雨は有情の情景世界に生まれた実存的内省の軌跡である。つまり、日本画のみならず、日本芸術による美的衝動はなべて「生きていることの申し訳なさ」という思い、実存的内省によって生起するのである。日本の自然、風土の真実は光景、風景ではなく、情景として捉えられた有情の世界が表現者をして実存的内省を励起させ、真実(リアル)を描かしめるのだ。日本美術は今なる時の実存に美的真実を表現しようとするのに対し、西洋美術はターナーの絵のように自らが創作した時間を手立てに美的真実を描こうとする。この常識化された時間に対する西洋人間社会の絶対的信頼は真理と真実の混同を疑うことはない。しかしさりとてこれは優劣をもって論ずるべきものではなく日本と西洋の「降っている雨」という有無のない心理に向きあう態度の相対的相違だといえる。従って、広重の浮世絵に見られる雨の表現を非科学的として冷笑する事は許されない。何度も言うように真実(リアル)は一つではない。又、真理と真実は同一ではない。それでよいのである。我々日本人は観念化された時間を手立てとせずして広重の「雨」の真実を通して真理を「想い」みている、つまり日本人は情景の中に時を間を想いみる「時間の想作」を通して真理を「想い」みているのである。浮世絵のみならず日本美術がすべからく見い出した真実、それは有情の芸術家の実存的内省によって斉らされたつきせぬ日本的情景が描きだす真実に他ならない。
こんなエピソードがある。時代小説作家の佐伯泰英は故あって譲り受けた岩波書店ゆかりの惜楽荘を新ためて後世に残すべく修復を思いたったが、その上棟式の折、岩波書店の関係者からポーランドの名作「灰とダイヤモンド」の映画監督アンジェイ・ワイダの描いた一枚の画が寄贈されたそうである。この絵は、過ぐる日、惜楽荘を訪れた彼が室内から窓越しに見た雨降る外の庭園風景を描いたものだが、ここに描かれている雨は広重の「庄野の雨」よろしく斜めに突きささる直線の雨として描写されている。この時、彼の脳裏によぎったもの、それは映画「七人の侍」の雨のシーンであったかもしれない。ひるがえって思いみれば祖国ポーランド、ワルシャワの街頭にたたずむアンジェイ・ワイダが重くたれこめた灰色の空から石畳に降りそそぐ雨を見た時、果して「直線の雨」をイメージしたであろうか。「直線の雨」、それは多分に日本の文化、そして自然が彼をして描かしめたのである。此処に自らの内に生起した「時間の創作」を忘却させられた彼は、見たまま、そのままの実存の「真実の雨」である今「降っている雨」を無心のうちに描かされた、つまり、アンジェイ・ワイダは目の前の雨の情景に時を間を想い「時間を想作」している自分に思い及び気づく事はなかったのである。