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ヨハネ福音書序詞は何を語ろうとしたのか

— 声と〔言〕その否定性の軌跡を追って —


ヨハネ福音書1章1節~3節
「太初に言あり 言は神と偕にあり 言は神なり 万の物これに由りて成り
成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし」

頭(こうべ)を深く垂れ苦悶の面(おも)を俯す心なる「十字架上に死する」イエス・キリストの形象を前にこれを仰ぎみたヨハネは信仰の真理を通して言葉にならないことば、つまり文字をもってして到底書き起す事の不可能なイエス・キリストに黙示された〔声〕」が「生きよ!」の〔言(ロゴス)〕である事を確信したのである。それは将にヨハネの信仰決意の中でしか理解し得ないイエス・キリストと「偕にある」事においてそれ自身が神である沈黙の〈声〉「生きよ!」の呼びかけなのである。

「神は言葉でいい表わすことも表出することもできない。それは(言葉を持たないことば)沈黙の声をもって語られる(ヘルメス.文書一・三一)」。死へと向かうべく宿命づけられた存在であるイエス・キリストは自らが今ここに存在することの不可能性の可能性(再生、よみがえり)、つまり「可能性の先取り」を経験していることを告白しているのである。この明確化された死すべき存在である自らの「可能性を先取りする」、言うなれば「時間を創作」する、それはイエス・キリストが「生きよ!」の〔言(ロゴス)〕に託した否定性の経験である。つまり、イエス・キリストの「生きよ!」の沈黙の〈声〉はその否定性に意味を与える本源的な根拠なのだ。「沈黙は啓示と〈ロゴス〉(神のことば)の最初の否定的根拠であり、深淵によって産み出されるものすべての「母」である(テオドトスからの抜粋)」。

ヨハネ福音書序詞の理解の深層には、世界創生の必然性を原理ずける否定性の根源にある「生きよ!」という言葉にならない、ただならぬ一方的な「生」の投げかけ(投企)が憑依しているのである。ヨハネによれば太初(はじめ)に〔言(ロゴス)〕「生きよ!」があったのであり、イエス・キリストはその「十字架上の死」をもって語られる、この「生きよ!」という言葉にならない「いかなる言語にも属さない」沈黙の〔声〕を旧約聖書にみる「父なる神」の宇宙創世の「生ぜよ!」の「ことば」を引き継ぎ、新ためて世界を創生する自らの〔言〕として信徒に啓示し言継いでみせた、とヨハネは言っているのである。

キリスト教徒にとって、その信仰の確信の根源にあるもの、つまりキリスト教信仰の本質的核心は一義的に文字で書かれた聖書の内にあるのではなく、目の前に、そして自らの心の内に立ち現れた「十字架上の死せるイエス・キリスト像」への経験的「視覚」から全てが生まれるのである。言うなれば形象するイエス・キリストから沈黙の〈声〉をもって語られる神のことば「生きよ!」の〔言(ロゴス)〕こそがキリスト教信仰の真理なのだ、(仏教信仰は、ひたすらに沈黙を湛え泰然として座し、そして立する釈迦像、諸仏像群へ注がれる全ての「ことば」を排除した純粋な「視覚」経験から生まれる。ちなみに、仏教におけるブッダの死(涅槃)は多くの場合、イエス・キリスト像とは対称的に静穏な横臥という構図で表現されている)。

要するに、キリスト教信仰の第一義にあるのは聖書ではなく、イエス・キリストの「十字架上の死」の形象が信徒に語りかける死の否定性であり、ここに自らの死を否定するイエスの「生きよ!」の〔言(ロゴス)〕が指し示す「可能性の先取り」つまり「時間の創作」に託された生、再生(よみがえり)がキリスト教信仰の核心的なテーマになっているのである。生も死もコスモス秩序の表象として否定的構造を持たない「生きている人間」に静謐と唯なる落ち着きを与える仏教の仏像に対し、将に正反対の不安と怖れそして悲痛を呼び起す生の絶対性、死の否定性を訴えかける衝激的な「十字架上に死せるイエス・キリスト」からの「可能性の先取り」である「生きよ!」なる沈黙の〈声〉のよびかけを「ことば」としてヨハネは確かに聞いたのである。「舌でもなく、話でもなく沈黙をつうじて認識されるあの声、肉体的な耳に入らず、滅ぶ運命にある物体のなかで聴きとられることのないあの声、この世界のなかには存在せず書物に書かれているわけでもないあの声・・・(ペトロの殉教第10章)」を。

ヨハネはどのような表現方法をもってしても不可能と思われる他者に伝え得ないこの沈黙の〈声〉をもって語られる「たんなる音声ではなく、なにものかの記号であることはわかるが、それがなんの記号であるかわからない『知られざる言葉』、音声と意味とのあいだの無主の地に住まう言葉(アウグスチヌス)」をギリシャ語のロゴス〔言〕の持つ論理的、理性的なポテンシャルに託し伝えんとしたのであるが、ヨハネにしてみれば否定的構造を持つ「生きよ!」の〔言(ロゴス)〕が疑いもなくイエス・キリストからの指示子(シフター)の役目を荷なったよびかけ、つまりイエス・キリストから信徒に啓示された指示行為に他ならないという事において、ヨハネが神のことば〔言(ロゴス)〕を神と偕にある、それは神そのものである(論理と倫理の一致)としたとしてもそれは当然であろう。

つまり、太初に言(生きよ!)あり 言(生きよ!)はキリスト神と偕にあり 言(生きよ!)は神イエス・キリストなり 万の物これ〔言(生きよ!)〕に由りて成り 成りたる物に一つとして之〔言(生きよ!)〕によらで成りたるはなし、とヨハネは断言するのである。

創世記第一章に見られる世界の創世にかかわる「父なる神」の「生ぜよ!」のことばが旧約のことばだとすれば、それを承けたイエス・キリスト神と偕にある「生きよ!」の〔言(ロゴス)〕はこれに対応する「新天新地」の創生を確信させる新約の〔言(ロゴス)〕である。旧約の父なる神、そして新約のその神の御子なるイエス・キリスト神、両者は「時代」こそ異にすれ、どちらにおいても「ことば」の意味する本源的内容の目指す方向(創世・創生)は同じである。つまり、イエス・キリスト出現以前の旧約の創世記が記しているのは「生ぜよ!」の天地創造と父なる神との契約であるが、新約のヨハネ福音書においては、それがいかにして御子イエス・キリストに顕現し、イエス・キリストから信徒への指示子(シフター)である「生きよ!」の〔言(ロゴス)〕による新約のもと新たな世界が創生されたのか記しているのであり、ここに他の福音書には見られないヨハネのただならぬ決意が読みとれるのである。

一方、キリスト教確立以後の古今の聖職者、神学者達は聖書の数ある書の中で、ヨハネ福音書のみに記されているこの「言と神が偕にあって、なおかつ言が神であった」とする一見論理的に正合成のとれない表現についていかに解釈すべきか数知れぬ論争の末に主流となる結論は(イエス・キリスト没後90年を経て書かれたこの書がギリシャヘレニズム文化のもとにある人々への布教を目的として書かれたという事情を前提に)「ギリシャ哲学における本来の〔言(ロゴス)〕が持つ意味の背景には知恵、意志、理性という世界を構成する論理がある。イエス・キリストはこの〔言(ロゴス)〕の最も忠実な成就者である。つまり、ヨハネ福音書序詞に見る〔言(ロゴス)〕はイエス・キリストの本質を言いあてているという事により、〔言(ロゴス)〕はイエス・キリストの別称であるという事ができる」とする見解に落着したのである。いわゆる「別称論」である。そして、この「別称論」を正当なものとする為に辻つま合わせの読み代えが行われるのである。つまり、多くの訳出を見ると、1章1節の〔言〕は常識的な解釈としての「ことば」であるが、1章2節に至って何等の理由、説明もなく突如〔言〕を〔この方、彼〕とイエス・キリストを予感、示唆させる人称代名詞に言い代えているのである。これはもはや誰が見ても、そして信仰に忠実な信徒にしてみれば尚更の事納得のいく解釈ではない。しかし「論理と倫理の一致」のもと別称論を成立させる為には後ろめたくもこのように読み代えざるを得ない事情も又確かなのである。

ある牧師はその説教の中でこの箇所にふれ「イエスは神が完全に表現されている神のことば」だとするも、その矛盾に耐えきれず続けて「もはや人間の理性では説明することはできない」とし、この問題から逃げ出しているのである。説教者として当然ながら理性的解釈を求められる牧師が何のことはないギリシャ語で理性を意味する〔言(ロゴス)〕が人間の理性では説明できない、ただただ信ずる他はないというのである。そして最後にはこれを神学専門用語だという「超越」なる語をもって、その不明を取り繕うとするのである。

この序詞におけるヨハネの意図はあらためてなへんにあるのかと言えば旧約の「父なる神」の宇宙創世にかかわる「神言いたまいけり」の「ことば」と新約のイエス・キリストの創生の「太初(はじめ)言あり」の〔言〕の質的相異を知らしめる事にあったのである。ヨハネによればイエス・キリストにおいて創世から創生へ時代は代ったのであり、創世の「生ぜよ!」の「ことば」によって生まれたこの世に創生を斉らすイエス・キリストの「生きよ!」の否定的経験が指示子(シフター)となり、新約のもと新たな新天新地が切り拓かれたのである。この序詞はヨハネ自身が「十字架上に死せるイエス・キリストの形象に思いをいたし、これを心の内に仰ぎ見た時、彼の信仰決意に啓示された「生きよ!」という沈黙の〔声〕の否定的経験、これを信仰を偕にする信徒達へ新ためて不可能を可能にする「一度として書き録められたことのなかった〔声〕」を〔言(ロゴス)〕の一語に託して伝えんとし書き記されたものなのである。

第1章 4節~5節
「之に生命あり この生命は人の光なり 光は暗黒に照る 而して暗黒はこれを悟らざりき」

前節に続き聖書の正統派を自認する註解者は、「之」を「彼」もしくは「この方」と解説する。つまり「之」とはイエス・キリストのことだと言うのである。それにしても「救い主」イエス・キリストを「之」よばわりするとは何と恐れ多い事であろう。そうではないのである。「之」はイエス・キリストに沈黙の〈声〉をもって黙示された「生きよ!」の〔言(ロゴス)〕なのである。「之」なるイエス・キリストの「生きよ!」の〔言〕には永遠の生命が宿っており、「万の物」はこの〔言〕により生命を与えられるのである(之〔言(生きよ!)〕に生命あり)。つまり「父なる神」の創世を承けたイエス・キリストの「生きよ!」の〔言〕により、トマス・アクィナスが言う所の「事物(レース)に対する存在(エッセ)の無償の供与」である生命が与えられ、ここに新天新地の創生をむかえるのである。それはこの生命ある「生きよ!」の否定性がこれに答えた信徒人間の「生きる意志」の否定性をよび起す光となることに他ならない(この生命〔言(生きよ!)〕は人の光なり)。将に生命ある「生きよ!」の〔言〕は暗黒のこの世に漂う信徒人間の「生きる意志」を照し導き出す一条の光なのだ(光〔言(生きよ!)〕は暗黒に照る)。しかし、このあずかり知らない身におぼえのない光の出現に暗黒は何等の興味も示す事はない。暗黒に光である〔言(生きよ!)〕を理解し捕える術も意志もないのである(而して暗黒はこれ〔言(生きよ!)〕を悟らざりき)。それは当然と言えば当然で、そもそも暗黒は「父なる神」の「光よあれ」のことばに関わらず論理的には先に存在していたのである(何をか言わん、光の中の「光よあれ」は有りえない)。「父なる神」が生と善を象徴する光を創造した事に対して、悪、死を象徴する暗黒を意図的に創ったという記述は創世記に見あたらない。アウグスチヌスが言うように「神は世界を善をもって創造した」のであり、光の創造により暗黒が結果的に生まれたのではない、「よきもの全ては光の一字をもって示される」のである。悪は神の最高存在の敵対者なのだ。

つまり、光という意志的存在があって暗黒が生まれたのではなく、善悪二分のキリスト教においては、「光は敵対者暗黒に照る」事のみにおいて光たりうるのである(ついては、現代科学がこの宇宙世界は目に視えぬ圧倒的な暗黒物質によって満たされており、惑星、恒星などの光世界は取るにたらない存在である事を明らかにしているのは暗示的である)。

十字架上のイエス・キリストから啓示された神と偕にある〔言(ロゴス)〕「生きよ!」はまさしく人々に生命を与える光である。しかし、注意すべきはトマス・アクィナスが言うように、その光を与えられる存在(エッセ)は私イエス・キリストの教えに従う者」でなければならないのである。イエス・キリストの沈黙の〈声〉「生きよ!」の〔言(ロゴス)〕を信ずるが故にその存在は与えられている、生かされている、つまり「選ばれた民」である信徒人間への恩ちょうが「神の愛(アガペー)」であり、ここに神のゆるぎない誠の意志である「生きよ!」の〔言(ロゴス)〕が愛を形として信徒人間に受肉されたのである。

「生きよ!」の「ことば」は自己が自己に言いあてることはその二重性において自己矛盾であり、成立しない。又、他者が他者の自己にかけるその「ことば」は単なる助言にすぎない。この自己や他者に関わる「ことば」とは異なり、沈黙をつうじて信徒に啓示されるイエス・キリスト神の〔言(ロゴス)〕のよびかけは、「無主の地に住まうことばにならないことば」沈黙の〈声〉という信仰の真理によって聴きとられた〔言〕である。この「一条の恩ちょうの光」に例えられるべき受け手の有り様をいっさい考慮しない一方的で無条件に投げかけられた(投企された)紛うかたなきイエス・キリストの指示子(シフター)である「生きよ!」のよびかけを「救いのことば」として信徒人間は「神の愛(アガペー)」とよぶのである。

救い主イエス・キリストは多くの正統派論者が語るように「十字架上の死」という事象をもって「神の愛」を啓示したのではなく、人間信徒はイエスの「十字架上の死」の形象が「沈黙の〔声〕」をもって語る「生きよ!」の〔言〕のよびかけに「神の愛」による信仰の真実を得たのである。

トマス・アクィナスが言うように、「神の愛とは事物(レース)に対する存在(エッセ)の無償の供与」である。つまり無償の愛である。しかし、その中にあって人の存在は、信仰によって条件ずけられる。キリスト教における「父なる神」は、善をもって世界を創造したのである。従ってその神を信ずる者は善的存在である。つまり、キリスト教徒として存在することはそれ自体が善であり、ここに存在(エッセ)の欠如が生じたとすれば、それはにわかに無であると同時に悪となる。善悪が織りなされるこの現世において人がキリスト教を信仰し「人間」となり存在するという事実こそ否定的構造を持つ「神の愛(アガペー)」顕現の証しなのである。

このように「神の愛」は、イエス・キリストの「生きよ!」の〔言〕が斉らす否定的構造を持った愛であり、別称論においては、ヨハネが苦心のうちに伝えようとした〔言(ロゴス)〕の意味する本質と「神の愛」の否定的構造について正しく理解できていないのである。つまり、イエス・キリストによる神の愛、「生きよ!」なる否定性は信仰の力をもってこれに答えた信徒人間に性起する「生きる意志」の否定性に受け継がれたのであり、信仰を介した相互依属の両者は否定的構造という関係のもとにあるという事がここに明らかになるのである。

この「神の愛」を「神への愛」をもって答える「生きる意志」を性起させる「生きよ!」の〔言〕(ロゴス)〕こそキリスト教の歴史の中で多くの曲節を経て成立した三位一体論で言う所の聖霊に関わる存在に他ならない。アウグスチヌスによって定義化された三位一体論の聖霊は「神である父が神なることば(御子イエス・キリスト)をつかわし、見えざる父を子が顕わし、子は天の父のもとに帰るが代りに父のもと(父と子、とも)から御子の名においてこの世に「助け主」「助け手」なる聖霊が発出(プロシード)される。これにより聖霊には、父なる神、御子イエス・キリストに同位する位格(ペルソナ)が与えられる」というものである。

キリスト教信仰の中でこのような位置づけを与えられている。聖霊とは「人に宿り、創造主の神意の啓示を感じ、精神的活動の鼓吹力となるもの」であり、「イエスをキリストとして信仰することを可能ならしめる唯一の力(コリント前書12-3)」、そして「信仰者の内に倫理的聖化を可能ならしめる唯一の力(ガラテヤ書5-22~23)」とされる。

本稿の冒頭で「ヨハネは心なる『十字架上に死するイエス・キリスト』を仰ぎみた時、信仰の真理を通して『ことば』にならない、文字をもってしても到底書き表わす事の不可能なイエス・キリストから黙示された沈黙の〈声〉が『生きよ!』の〔言(ロゴス)〕である事を確信した」と述べたが、正しくはイエス・キリストの沈黙の〈声〉は、イエスをキリストとして信ずる信徒の内に宿った聖霊の力を介し、それは「生きよ!」の〔言(ロゴス)〕であると聞きとられたのである。

つまり、神と信徒の間に介在する聖霊は「神から発出(プロシード)され、創造主の神意の啓示を感じ、精神的活動の鼓吹力となる」信徒に宿った「助け主、助け手」なのである(この事からして聖霊を父なる神、神の御子イエスより格下とする、つまり聖霊を実体と認め位格を同じとする事に異義を唱える宗派も存在する)。

教会における牧師の説教は、「ことば」として信徒人間に伝えられる。しかし、キリスト神の沈黙の〈声〉は聖霊を介して信徒に「ことば」として初めて立ち現れるのである。つまり三位一体論における聖霊はそれ自身が「神の愛」である「生きよ!」の〔言(ロゴス)〕を信徒に受肉させることを「可能ならしめる唯一の力」であり、これなくしてはキリスト教の信仰世界は成立し得ないが故に、是否もなくその位格は認められねばならないのである。聖霊は、ヘブライ語で息、吹、気などの意味(「風」のようなもの)を持つとされる。それは生物の内に宿る活力、言うなれば神により創られた人間の生命原理なのであり、信徒に啓示された「生きよ!」の〔言(ロゴス)〕は信徒の生命原理が現わにした聖霊によって斉らされるのである。

この聖霊によって斉らされた「生きよ!」の〔言(ロゴス)〕は神の意志であると同時にそれは先に述べたように「神の愛」である。この「神の愛」は人間信徒に性起した「生きる意志」が「神の愛」を大いなる意志(信仰)をもって「神への愛」として神に答えることによりキリスト教信仰は完結されるのである。この愛と意志についてアウグスチヌスは次のように言っている。

「愛は人間の意志を動かすものであり、物体が重力によって動くように、意志はその重みとしての愛によって動き、最高の愛の対象である神へとひきつけられる」。「愛は人間の意志を動かす」、ここでアウグスチヌスが「人間」とよんでいるのは、他でもないキリスト教信徒のことであり、この「人間」に信仰を持たない一般名詞の人間の意味あいはない。

かくしてここに「神の愛」そして信仰を通してこれに答えた「神への愛」という相互依属により結ばれた人間信仰集団が、それをシュティムング(環境、気分)とするキリスト教人間中心主義社会を誕生させるのである。このキリスト教人間中心主義社会の核心にあり、マグマとなるのが神の愛「生きよ!」の〔言(ロゴス)〕によって性起した人間の「生きる意志」である。

シェーリングは主著「人間的自由の本質にかんする哲学的研究」のなかで、「究極的には意志以外の存在はない。意志こそ本源的存在である」と断言して(「意志」なるものの存在の有無については他稿において論ずる)いる。まさに否定的構造を持つキリスト教人間中心主義社会は「重力」としての神の愛に性起した「生きる意志」という否定性なくしては成り立ちえないのである。

イエス・キリストがその死の際に得た不可能性の可能性、つまり「可能性を先取りする」否定性の経験、つまり、「時間の創作」とその所有は愛を仲立ちとする「生きよ!」の〔言(ロゴス)〕に性起した人間の「生きる意志」に承け継がれたのである。かくしてキリスト教人間中心主義社会の基盤を形作る知の全ては、この人間の「生きる意志」による「時間の創作」を否定的根拠とする事により徹頭徹尾「否定的なもの」によって隴断されることになるのである。

信徒人間の「生きる意志」の否定性は絶え間のない恒常的な「可能性の先取り」の経験である。それは「生きる」という「存在」そして「意志」による「可能性の先取り」という「時間の創作」、つまり「存在と時間」の経験である。人間の「生きる意志」はハイデガーが言うところの「存在と時間」を共属させているのだ。ここにキリスト教人間中心主義社会における人間の「生きる意志」はキリスト神の「生きよ!」の〔言(ロゴス)〕が指示する否定性を成就させる為に「時間の創作」という「可能性の先取り」をもって言語活動を生起させる事になるのである。

イタリアの哲学者J・アガンベンが答えを求め執拗に指摘する「言語活動の生起そのものを『指示する』ことははたしてどのようにして可能なのか」という西洋近代言語学につきつけられ未解決のまま誰も答えられず意図的に放置されている問いに対する答え、それは「西洋形而上学はキリスト教人間中心主義社会をシュティムング(気分、環境)とするキリスト教徒人間により成り立っている。従って、その言語活動はイエス・キリスト神の「生きよ!」の〔言(ロゴス)〕の否定性を指示子(シフター)として性起した「生きる意志」が、その信仰を介した相互依属の関係性により生ずる否定性継承の必然性からして、ここに生起される言語活動の可能性は当然否定的な構造を持つ事になる」というのがその答えである。

この明確な指摘に対して、キリスト教人間中心主義社会をエートス(住み慣れた住処)とし、そこに何の疑念もいだかず安らう多くの識者、論者は、はなからこのプロセスを理解し、思考しようとする気配は全くないのである。つまり、冷静で客観的な視点を欠いた信仰に浸りきった彼等は井の中の蛙であり、自らの文化的、宗教的核心にある「否定性」がイエス・キリスト神に黙示された沈黙の〈声〉「生きよ!」の〔言(ロゴス)〕に性起したものであるという事を探り当てる事ができないでいるのだ。では、ここでいま一度ヨハネ福音書序詞を思い起してみよう。ヨハネは自らの心の内に立ち現れた十字架上のイエス・キリストの形象を単なる祈りの対象としての形象ではなく、自らに語りかけてくる「ことば」を持った生身の形象として仰ぎ見ているのである。この沈黙の〈声〉をもって語りかけてくる「知られざる言葉」、それはヨハネの祈りが信仰の力となり、神から発出(プロシード)された聖霊を介して聞きとった「生きよ!」の〔言(ロゴス)〕である。ここに沈黙の〈声〉を表象する「生きよ!」の〔言(ロゴス)〕は、神から託された否定性を「生きる意志」に引き継ぎ、もって言語活動を生起させる指示子(シフター)である事が理解されるのである。「神は言葉でいい表わすこともできない。神は沈黙の声をもって語られる(ヘルメス文書一・三一)」そして「(その)沈黙は啓示と<ロゴス>(神のことば)の最初の否定的根拠であり、深淵によって産み出されるものすべての「母」である(テオドトスからの抜粋)」。キリスト教信仰の「母」なるイエス・キリストの沈黙の〈声〉はその「子」信徒人間にしてみれば深淵の根源から発せられた指示行為そのものである。つまり沈黙の〈声〉はイエス・キリストから信徒なる「子」へ、そこにあるのは指示子(シフター)の役割を荷なった「生きよ!」なる〔言(ロゴス)〕の否定性である。キリスト教信仰に論理と倫理の一致をみるキリスト教人間中心主義社会における言語活動はその否定的根拠である「母」なる沈黙の〈声〉を指示子(シフター)とする「生きる意志」による生起によってそれは生み出されるのである。

今や、西洋形而上学にみる全ての存在論、論理学は、この沈黙の〈声〉の「生きよ!」の〔言(ロゴス)〕を本源とする言語活動の否定性の上に、それはあたかも自明の真理であるかの如く「安らっている」のである。

しかし、そんな「安らぎ」の中にあって、この否定性の問題の重要性に気づいていたのがハイデガーである。ハイデガーは主著「存在と時間」の中で次のように指摘している。「あらゆる弁証法が否定に逃げ道を求めながら、そのこと「否定」自体を弁証法的に基礎づけることをせず、それどころか問題として固定させることすらできないでいる。・・・・・・そもそも人はこれまで否定的性格の存在論的起源を問題にしたことがあるだろうか。・・・・・・あるいはその前にその否定的性格とそのさまざまな可動態の問題を立てるための地盤となるよう諸条件だけでも捜し求めたことがあるだろうか。そして、これらの条件を探し求めるとすれば、それは存在一般の意味を主題的に解明することのうちにおいてではなくて、それ以外のいったいどこに見いだされるというのか」

では、ハイデガーはこの問いに答える事ができたのか。残念ながら「『存在と時間』の地平では、どうやらこれらの問いに答えがあたえられないまま残されている(J・アガンベン「言葉と死」)」のである。

ハイデガーは弁証法は勿論のこと西洋哲学史における形而上学(論理学、存在論)が「否定的性格そしてその存在論的起源」の問題について無関心無頓着であることを嘆き苛立ちをつのらせているのである(言うまでもなくこの問題意識は、先にみたアガンベンが提起する言語活動の生起問題と根底において通じている)。そしてこの否定性の問題に自らの重要な哲学的命題(テーマ)であるダーザイン(現存在)を介して解明を試みるのである。ハイデガーによれば、ダーザインという用語は「空間性を開示した<ダー>〔(そこ)〕であること」と説明される。つまり、ダーザインとは存在者が示唆された「ここ」「あそこ」として存在すること、そしてその意味する所を理解しつつ存在への問いを止めない独自の有りようを言うようである。

「存在するものとして、ダーザインは投げられたもの〔被投的存在〕であって、自発的に自らの<ダー>に押し入ってきたものではない。存在するものとして、ダーザインは存在しうるものとして規定されている。しかし、その存在しうるということはダーザイン自身に属するものではあるけれども、そもそもダーザイン自身があたえられて自分のものとなったものであるかぎりでは、ダーザインに属するものではない。・・・・・・ダーザインは自ら根拠を築いたものではないにもかかわらず、その重みに支えられている。そして、その重みがダーザインに〔重荷だな〕という気分を生じさせるのである」(ハイデガー「存在と時間」)。

ダーザインは自ら希んでダーザインになったのではない、存在するものとして示唆された<ダー>〔そこ〕に被投された、あたえられたものとして存在するのである。つまり投げられた、投企という構造、そこに生じる配慮、そしてそれを受け容れる被投という構造それら全てが本質的に否定的性格をもっているという事において、ダーザインは否定性に徹頭徹尾、浸透された存在者となるのである。

しかし、これは一方的に否定性が外部から斉らされたという事を意味するものではない。「存在しうるものとして規定」されたダーザインは、自らの<ダー>そのものから発してくる脅威(死の可能性の経験)に「自らを開く」のである。「何物」かに導き入れられ「自らを開く」否定性はダーザインにそれ自身の<ダー>からやってくるとされる。では、存在者をダーザインたらしめる空間性(覆われていない、開け放たれた)を開示した「ここ」「あそこ」を示唆する<ダー>、その否定性が襲いかかる場所<ダー>は一体どこにあるのか。それは、ダーザインそしてそれを後見するハイデガーの存在に先んじて既在する〔(何物か)〕、つまりそれはキリスト教徒人間自身が作りあげたキリスト教人間中心主義社社会のシュティムング(環境、気分)により用意され、示唆「規定」された〔(そこ)〕なのだ。つまりダーザインの否定性は「それ自身」の<ダー>から無媒介にやってくる、それはまさに今立っている<ダー>の足元〔(そこ)〕にすでに「開示された空間性」として自存しているキリスト教人間中心主義社会という否定的根拠により準備され導き入れられるのであり、ここにダーザインは心おきなく自らを開く事ができるのである。ダーザインは「それ自身」の<ダー>自らがキリスト教人間中心主義社会を紛れもないエートス(慣れ親しんだ住処)として了解しており、根拠であるそのシュティムングによって今の自らの否定的存在に意味が与えられているという事、つまり形而上学の克服を掲げる「反哲学」のハイデガーは、一キリスト教徒(ハイデガーはカトリックからプロテスタントに改宗したようだがキリスト教徒である事に変りはない)として否定性にろう断されたキリスト教人間中心主義社会という空間世界を今ここに了承し「自らを開く」自分がいるという矛盾に気づかねばならないのである。つまりダーザインはキリスト教人間中心主義社会という「重み」に支えられているのだ。しかしキリスト教人間中心主義社会の根底にある沈黙の〈声〉によって語られる否定性に浸りきったダーザイン自身が否定性と一体なる人間形而上学を否定する、それは「反哲学」のもとダーザイン自らの自己否定に通ずるキリスト教信仰という社会合理性への背判に他ならず、キリスト教信徒にとってそれはいかなる弁明をもってしても許容し得ない自家憧着である。

ここにハイデガー哲学の破たんの真の原因があるのである。つまり、ハイデガーにあっては「人間」に関わる根源的な理解が充分になされていないのである。これについてJ・アガンベンはその著「言葉と死」の中で「『存在と時間』におけるハイデガー思想の出発点にある本源的な根拠を構成しているダーザインとしての人間という規定そのものをより近くから問い、なによりもその言葉の意味自体について問うてみなければならない」と正しく批判している。

ダーザイン(現存在)は、ダーザインである以前に紛れもしない「神の愛」そして「神への愛」という「相互依属」の愛を絆としたキリスト教人間中心主義社会をエートスとし、これを構成する一人の「人間」である事、そしてダーザイン自己は、それを有無のない絶対的なものとして了解している事、これはダーザインを後見するハイデガーをもってしても同じである。

つまり、ダーザインは人間という存在了解を自らのうちに共有する共有存在者なのだ。さすればキリスト教人間中心主義社会を隴断し、これを根拠づける否定性の矛盾を共有存在者として正当に引き受ける決意と責務がダーザイン、ハイデガー両者には当然要求されるのである。

要するにこの否定的なものによって隴断された「人間の本来的住所を開く言語活動の能力」を形作るキリスト教人間中心主義社会についてダーザインは自らの「世界」観との関係そして相違を当然語らねばならないにもかかわらずハイデガーは何等言及していない、いや出来ないでいるのである。ハイデガーによれば、ダーザインという用語は<ダー>〔(そこ)〕であると説明される。「『世界一内一存在』という全体構造における存在者は<ダー>(ここ、あそこ)という仕方で存在しており、この時点ですでにその空間性は開示されている」のである。つまり、「世界一内一存在」のダーザインは「開け放たれ、覆われていない空間の<そこ>」を自らが世界とする「間伐され、明るくなっている森の中の空地」に存在しているのである。

ここで言われる<そこ>なる「世界」という全体構造についてハイデガーは「人間の空間的な在り場所ではなく、われわれの実践的関心にとって『手許にあるもの』<道具>の意味をもって存在する種々の事物の<有意義性>の総体」と説明している。

「実践的関心にとって手許にある道具の意味をもって存在する有意義性の総体」、つまりキリスト教人間中心主義社会において、キリスト教徒人間の手許にあり、実践的生活全般の有意義性を荷ない、それを総体化するもの、それは<道具>としてのそして最高の<道具>としての聖書をおいて他にないであろう。さすれば単なる「人間の空間的な在り場所」ではないハイデガーが「世界」とよんでいる<そこ>は何のことはない聖書により規定され総体化された世界、つまりそれはキリスト教人間中心主義社会の“信徒人間により空間化”された「開け放たれ、覆われていない間伐された」「世界」そのもののことであり、それをエートスとするハイデガーの「世界一内一存在」というフレームワークは旧来の西洋の形而上学的人間世界の範ちゅうから一歩も踏み出していない事になるのである。

要するに、ハイデガーには「形而上哲学の克服」を掲げ自らが作り出したダーザインが「人間」と内実を共有する「ダーザインとしての人間(J・アガンベン)」であるという認識が欠落しているのである。

キリスト教人間中心主義社会をエートスとするキリスト教徒が真の「人間」であるとすれば、それを存在了解するダーザインも当然紛れのない真の「人間」でなければならない。つまり両者に見られる空間世界は同じであるにもかかわらず人間とダーザインを差異化するハイデガー哲学は自らの思想的営為の誤りの原点が実はここにあるのである。旧来の形而上学から抜け出せず、これを乗り越えようと苦闘するハイデガー、これを戯画的に例えてみるならば、イエス・キリストならぬ仏陀の掌(たなごころ)の上で、その果てのない動きに疲れはてた<そこ>からふと仰ぎみる開け放たれ、覆われていない空間世界、それは何のことはない自らの手許にある「道具」聖書をもって作られた“見なれた、慣れ親しんだ世界空間”である事をあらためて思い知らされ愕然としているハイデガー、とでもなろう。

要するに、ハイデガーが掲げた「形而上学の克服」は<存在の声><良心の声>といった呼びかけを意志の地平において提示し、西洋形而上学を基礎づける沈黙の〈声〉による「生きる意志」の否定性に対抗させようとした(それは当然ながら「生きよ!」の〔言(ロゴス)〕を探り出し理解した上でのものではない)が、いかんせん自己が自己によびかける自己の内に完結するその<声>は「たんなる経験としての意味あい」にとどまるのであり、「形而上学の克服」というハイデガーが掲げる大いなる目論見は全てキリスト教人間中心主義社会のシュティムングという“仏陀のたなごころ”の上での次元、つまり「無駄な動き」となってしまっているのである。

重ねがさね言えば、ハイデガーが目途する「反哲学」が本実の反哲学たらんとするならば、それはハイデガー自身が薄々気づいているように「存在一般の意味を主題的」に論じたところで、それは所詮既存の形而上学というコップのなかでの議論であり、否定性そして人間存在に関する問題の根本的な解明は不可能なのである。

さすればヨハネ福音書序詞に黙示された「生きよ!」の〔言(ロゴス)〕の否定的超克、つまり否定的性格を捨てきれない西洋形而上学そのものの全否定(否定性の否定)こそがハイデガーの目途を忠実にかなえる事になるのである。しかし、それはハイデガーには到底受け容れ難いキリスト教棄教、そして自らがエートスとするキリスト教人間中心主義社会からの離脱であり、それはハイデガーに人間滅亡を要求する。この要求は、ハイデガーの「反哲学」が「形而上学による形而上学の克服」であり、自らの足元を自らの手で堀り崩す事「人間ダーザインによる人間(自己)の否定」に他ならないという矛盾、つまり、それは自家憧着であることを暴露するのである。

居並ぶ多くの形而上学者を横目に「人間存在論」の根底にある「否定的性格の有在論的起源」を「捜し求め」たがそれが「生きよ!」の〔言(ロゴス)〕である事を探り当てる事ができず、彼等共々に否定性の地平に今やころげ落ちんとするハイデガーが西洋哲学史に残したものは何か。それは「形而上学の根本問題のたんなる反復であり、それをあたかも形而上学の克服であるかのように思い違いをしている(J・アガンベン「言葉と死」)」ことだったのである(しかし、かといってハイデガーを論難するJ・アガンベンにしても、否定性問題の本質がどこにあるかは正しく認識できているわけではないのである)。ハイデガーの反哲学は西洋形而上学のうちに霧消したが、では真実の反哲学は一体どこにあるのだろうか。それともそれはどこにも無いのだろうか。いや、答えは「ある」のである。それは否定性にろう断された西洋キリスト教人間中心主義社会の対極に位置する幸いにもイエス・キリスト神の「生きよ!」の〔言(ロゴス)〕、そしてその否定性の軌跡を辿ることのなかった肯定された自然に連用し実存する自らが内省そして代謝する事により新たな自らを生み出す「生きている人間」、つまり西洋形而上哲学から遠く離れたハイデガーが言う所の「それ以外」の<ダー>〔そこ〕なる日本の他律する利他的な実存的内省者の「新たな生きている人間」にそれは「見いだされる」のである。