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「すみません」の文化

— 日本の自性その利他的な言葉 —


私は「すみません」という言葉が好きである。単に好きで良く使うという意味ではない。正確に言うとこの言葉の周辺、つまり、この言葉が機縁となり呼び起されるその情景が好きなのだ。それは礼を述べている、頼み事をしている、赦しを乞うている、私にとって何という事もない日本人の日常生活に繰り広げられるつつましやかな一幅の情景がそこにある。私は詳しくは知らぬが外国の同様語には、これ程多用の意味内容を持ち素朴でしかも趣きのある言葉はないのではないかと思う。思い起せば私は生まれてからこの方、この言葉をどれ程口にし、そして心の中で念じたことだろう。しかし、世の中は不思議なもので見るべき人が見ると全く違った解釈をするから驚きだ。近刊の「日本人といううつ病」(芝伸太郎著)によると「すみません」は日本人の「うつ病気質を反映する代表的な言葉」だそうである。オヤ、オヤである。

球形という極めて不均等な形状を有するこの地球世界にはその土地に根ざしたそれこそ様々な民族が異なる言語、気質、肉体的特質を天与のものとして生きている。従ってあらためてそれを指摘されたとしても「だからどうした」と答えればそれで終る話であり、別段驚く程のことでもないのだが、著者は明らかに日本人(医師)でありながら(たぶん?)自身は日本的特質を持っていないかの如き鼻持ちならぬ言説には全くあきれるばかりだ。しかし、まあそれは一先ず置くとして、では「すみません」という言葉はどういう成り立ちを持っている言葉なのか、ここであらためて考えてみるのもいいことだ。

「すみません」は「済みません」とも書かれるが、この「済みません」の終止形「済む」の意は同じ音を踏む「清む、澄む」に通じている。同様に「住む」は「巣む」からとも言われるが、居所を定める、居着く、落ち着くの意であり、いずれも「清む」に通じている(大槻文彦著「大言海」より)。つまり、「清む」は汚濁した水がきれいな水になる、今まさに「青い水」になる、戻る意である。当然これは事象を観ている者に事が決着した事を知らしむると同時に、その心を落ち着かせ、安定、平静にさせるのである。又、「済む」の済(サイ)という漢字は「物がでこぼこでなく斉(ひと)しくそろったありさまをあらわす象形文字の斉と水の扁で「川の水を過不足なく調整すること、不足を補って平等にならす、ととのえる、まとめあげる」の意がある。つまり、これも結果とする所は「事が終り、落着する」のである。要するに「済む」をサイムはなくスムと読ませるのは「清む」の会意が「済」の会意に通じるが故にこれを「済む」とするのである。

いずれにしろ、三つのスムに共通するものは「一時の乱れが治まり、平常な常態に落着する、戻る」の意である。ちなみにこの「清む」「済む」「住む」の意をかけた和歌には良寛を始め、多々あるが、特に知られているのが高杉晋作の辞世であろう。

おもしろきこともなき世をおもしろくすみなすものは心なりけり

「清む(自然)」べき筈のものが「清まない(不自然)」状態にある。つまり、自(おのず)からしかるべくなるものが自(みず)からによってそうならない状態、言うなれば期待されるあるべき結着がなされない状態、事の動き、流れが中途半端で終っていない状態を不自然として人は気掛りにする。

それは相手が衒いない自然体にあるのに対して今の自分は極めて不自然な状態を作り出しており、平静調和する自然世界の逃れ難いかく乱者であるという自覚による。かくして人は、この気掛りな不安定な心の状態を身の廻りの生活上の出来事に引き移し、他人との間の物事がうまく決着せず、又自分の気持ちが落ち着かない、然るべくならないの意を比ゆ的に重ね合わせ、感謝、依頼、赦し等に「すみません」という言葉にして用いるのである。つまり、ここに「すむ」の否定形「すまぬ」に強く日本的感性の移入がなされ、連語化した丁寧語の「すみません」という全くオリジナルな日本語が生み出されることになったのである。

ところで、先の「日本人といううつ病」によれば、日本ではすべてが金銭に還元される、つまりあらゆる日常生活の行事が一種の債権—債務関係としてとらえられるとし、その証拠に「ありがとう(感謝)もごめんなさい(謝罪)の相手への負債の弁償が終っていない“す(済)みません”という言葉で置き換えられる」としている。しかし、誰でもが少しく考えてみれば訳るように、債権—債務関係は当事者以外の第三者の存在がなければ関係自体が成立し得ない。たとえば無人島に漂着した二人がいたとしよう。その二人の間に社会通念上、明らかに正常な経済的取引きが行われたとしても相手側の債務者が取り合わなければそこに債権—債務関係は成立しない。何故なら両者のやり取りを債権—債務関係とし見届け保証する第三者(ここでは倫理、道徳は除外)、普通世界では人間社会が無人島には存在しないからである。

そもそも行きずりの旅人が畑打つ老婆に「すみません」と声をかけ、道を尋ねる情景のどこに債権—債務関係がよみとれると言うのであろうか。夏の不意の夕立ちの中、立ち寄った家の軒先を借りて、家主に「すみません」と声をかけ雨宿りをさせてもらう情景のどこに債権—債務関係が生ずると言うのであろうか。(同様のシチュエーションに出てくる日本語の言葉に「お邪魔します」「お世話になります」などがある。「お」は動作に冠して話の場に対する丁寧の意を表わす接頭語だが、この一字によって二つの言葉は「すみません」に同位する。いずれにしろそこには「すみません」の言葉と同じく債権—債務関係などはない。)強いて言えば、そこにあるものは債権—債務関係ではなく偶然という拾われた時の上に生まれた意図されざる貸借関係である。いや、それは貸借関係とは呼ぶべくもない、たまさか“持つ者”と“持たざる者”という場に立たされてしまった人と人との時の出合いによって織りなされる縁(機縁)とよばれるべきものだ。つまり、「相感ずるは自然なり」という思いによって生まれた「すみません」という言葉には、債権-債務関係を見とどける第三者の介在は不要であり、又存在しないのである。

日本では古来よりこうした出合い、触れ合いを「一期一会」と呼び大切にしてきた。そこには西洋でいう時間はない。あるのは、自(おのず)からに拾われた今という時の実存だけである。「すみません」は時の上にのみ存する極めて日本的な言葉なのだ。一方、人間社会における債権—債務関係は全てそこに「時間」という裏書きがなければ関係自体が消滅してしまう(法的な「時効」がいい例)。つまり債権—債務関係は人間の「時間の創作」がその前提になければならないのだ(「時間の創作」による債権—債務関係は資本主義経済の基本にあるものである。資本を始めとして商品、利子、利潤、株式等全てが「時間の創作」によって生じた債権—債務関係に置き換えられる)。「すみません」という言葉は人と人を結ぶ言葉ではあるが、かと言って「時間の創作」を根底に持つ西洋人間中心主義社会の「人間」という関係性から生まれた言葉ではない。言いかえれば「すみません」という言葉を有する日本には西洋で言うところの人間と呼ばれる人達は存在しないという事である。つまり、「日本人といううつ病」の著者が言っている「日常生活の行事が一種の債権—債務関係としてとらえられる」というのは、ありていに言えば西洋かぶれの著者の思惑とは裏腹に人間中心主義(ヒューマニズム)を標榜する西洋人間中心主義社会にこそ当て嵌るのである。たとえば、路上を行きかう二人の人間の間に何らかの軽いトラブルが生じたとする。日本のように「すみません」という言葉を持たない両者は互いに自らの正当性を主張しあう破目になる。つまり、徒らに時間を創作し、自らの自由を真先に確保しようとして譲らない人間両者は、結局これを債権—債務関係として中立する第三者の判断に委ねざるを得ない事になる(古いある統計によると、ドイツでは年間40万件の隣人、隣家への訴訟があるという)。要するに、人間による「時間の創作」を文化的基盤に据える西洋キリスト教人間中心主義社会には、時間の埒外に立つ「すみません」という言葉の入り込む余地はないのである。つまり、そこにあるのは「時間を創作」する人間が見渡す単なる言葉の光景、風景であり「すみません」の言葉をもって描き直した親和的な情景はないのだ。

「すみません」という言葉は己れが平静する自然秩序の攪乱者である事を自覚し思い至った時に生まれる。そこには西洋キリスト教人間中心主義社会に位相し日本文化の基層に深く自性(本心)する「生きていることの申し訳なさ」という思いがあるのである。「生きている」という実存に対する内省、つまり、実存的内省である。連用し代謝を事とする万物万有相互は当事者の自らが、今ここに明確に「存在している」、それはただに他律する秩序を傷つけかねない矛盾した存在である。その内省から生まれた表象が利他的な「すみません」の言葉なのである。頼み事をしている、赦しを乞うている自他との間に見られる日本的情景はこの実存的内省によって生まれるのであり、これは西洋キリスト教人間中心主義社会の「時間の創作」によって展開される光景、風景とは全く相違する。

先の本の著者は、日本における自殺という行為についてこうも言っている。「(日本における)自殺は欧米のように逃避ではなく、自分の最も高価な財産(命)によって罪を清算すること」だそうである。つまり、これも一種の債権—債務関係だと言うのである。全くもって日本文化を理解しない西洋オタク人間の言葉である。

そもそもかく言う西洋キリスト教人間社会の罪からの逃避としての自殺、そして日本の罪の清算としての自殺、この場合両者の罪についての意味合いは全くもって違うのである。つまり、著者がこの場で言うところの「罪」は日本には存在しない。西洋キリスト教人間社会における罪は市中に見られるどのようなささいな罪であったとしても、それをたどり行けば、最終的にそこにあるのは、キリスト神から与えられた理性が形作る法理、道徳に、つまり「良心(理性)を植えつけた何ものか」である神に対する罪に行きつくのである。

一方、日本の罪は、「生きていることの申し訳なさ」という思い、つまり実存的内省にみる「人様に迷惑をかけてはならない」という極めて利他的な理由がそこにあるのだ。日本人にしてみれば「命」は生と死という「生死不二」の揺るぎない秩序の上に成り立っているものであり、著者に一方的に「命(生)」が「最も高価な財産」であると言われても、さて、一体何を言っているのか日本人はとまどうばかりである。しかし、それでもなお自身の関係をあがなう日本の自殺が「罪」の清算だというのであれば、それは今ある自分という矛盾した不自然な存在を受け容れてくれた世間、大きくは万物万有に対する「罪」の清算という事になろう。この平静秩序する他者への攪乱者としての「罪」の清算はことここに唯一存する「生きている」自己の命(生)をもって償いとする他に術はない。日本文化における死は本質的に利他的なのだ。つまり、日本の自殺は「生きていることの申し訳なさ」という思い、その表象である「すみません」の思いを全霊とし、実存する自らの肉体を全身とする全身全霊をもって償われるのである。これは何等恥ずべき事でも何でもない。それが言われる所の「罪」にあたらない以上、その償いは債務とはならないからである。被当事者においても、それが当事者自身に属する行動、思いであるからには、それをあえて罪として債権化する理由にはならないのである。ひるがえって、欧米における自殺は「逃避」だそうである。何からの逃避か。それはキリスト神との間に啓示を通して受肉された信仰契約からの逃避である。キリスト神の〔言(ロゴス)〕「生きよ!」の<声>に答えた人間の「生きる意志」、人間はこれを債務とし、神はこれを債権とする事により相互依属の信仰契約は成立する。そしてその不履行が自殺(自裁)という行為なのだ。キリスト教信仰における信徒と神との間の相互依属により結ばれた信仰契約には、三位一体ならぬキリスト教の三者一体を構成する信仰の立会証人である第三者の牧師、神父、教会が介在する(神と信徒を介する教会の第三者的立場はプロテスタント、カトリック両者に根本的相違はない)。従って、当然ここに債権—債務関係が成立するのである。生を絶対善とし、死を絶対悪とする生死二分を決して譲らないキリスト神は命(生)を償いの対象とする自殺(自裁)自体を認めず(自裁は神が有する債権者としての正当な地位、権利を脅かす)、あくまでも「生きる意志」に基づく債権—債務関係の履行を信徒人間に対し要求し続けるのである(西洋人間社会の“死刑廃止論”の根源にあるのがこれである)。つまり、何のことはない、欧米の自殺は相互依属のもとに成立する債権—債務関係の一方的な放棄、不履行という神への裏切り、神からの逃避を罪としてその関係「清算」の為に自らの命(キリスト教徒にとって「最も高価な財産」!)の消滅という行為をもって償いとするのである。要するに、著者の日本の自殺についての非難は全くもって筋違いもいい所で、その非難は実は欧米のキリスト教人間社会で発生する自殺について向けられるべきものなのだ。

ところで、先程来「日本の自殺」と言っているが実はそれは間違いである。正確に言うならば、それは自殺ではなく自死なのだ。つまり、西洋における自殺はキリスト神との相互依属の信仰契約に対する人間の一方的な契約破棄に伴う「自(みず)からを殺す」という意図的そして自己中心的な神への裏切り行為であるが、日本のそれは自死であり「生きていることの申し訳なさ」という思い、実存的内省から出てくる「自(おのず)から成される利他的死」である。著名な医師でもある評論家の松田道雄は、西洋の自殺を批判するにあたって、対する日本の自死(たとえば武士の況ゆる切腹)を「みずから死を選ぶこと」としている。しかし、誤解を恐れずいえば、それでは「自(みず)からを殺す」西洋の自殺と何等変わらない。自死は自己に持する「生きていることの申し訳なさ」という思い(実存的内省)、つまり、「自(おのず)から」という大いなる必然のもとにのみ存在するという自覚によりなされる。つまり、自死は「自(みず)から」なる直接行為を超越した「自(おのず)から」してなせる大義の死なのだ。母なる必然のふところに抱かれた「自(おのず)から」に肯定された実存的内省の利他的表現である自死の帰結は廻り廻って必然という「自(おのず)から」の内に解消されるのである。

西洋における自殺は神が許すことのない絶対悪であり、善なる生に対する冒とくとして否定されるべきものであるが、日本の自死には性が斉らす死の必然性が認識されており、その「自(おのず)から」という意味において常に利他的なのだ。西洋人間社会のように生があって死があるのではない、対等する死があってこそ生が生たりうるのである。いうなれば、死なくして生は有りえず生は「自(おのず)から」の死、即ち他律的にして利他的な死によってかろうじて成立しているのである。

さすれば、死と秩序を同じくする生に各段の意味を求める事は許されない。利他的ということからすれば西洋人間社会が声高に叫ぶ生ではなく死こそが存在にかかわる本質的な意味を持っているのである。日本の自死の内奥にある実存的内省は、このコスモス世界において普遍的に認められる利他的死であり、それは明確に日本文化の自性(本心)の内に組み込まれている。ひるがえって、イエス・キリストの死は、信徒によれば人間の原罪を一身に負った利他的な死と思われている。しかし、コスモス世界にあまねる秩序という意味においては、それは誰もあずかり知らない他者によって殺された単なる他殺死にすぎない。つまり、信仰の内に止どまるイエス・キリストの死はコスモス的利他性を獲得する事のない死であって日本の利他的で万物万有に連用、他律する死とは全く相違するのである。

日本文化の自性にある実存的内省、「生きていることの申し訳なさ」という思いが育む「すみません」の利他的文化は、自然に連用する他律という言葉を知らない西洋人間中心主義社会が主導する現代資本主義の再考、つまり「ポスト資本主義(新たな資本主義)」について重要なヒントを与えるものであり、さればこそ、この利他的な言葉「すみません」の文化から生まれ出る新たな人間、実存的内省に「生きている人間」は地球文化の新たな創造に極めて深い共感を指し示すのである。