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映画「眠る男」

— 実存的内省「生きている」人々 —

過日、久し振りに妻を連れ立ち群馬県民二百万人記念映画として今、話題の「眠る男」を観に行った。そのタイトル・クレジットに監督小栗康平、そして脚本小栗康平、剣持潔とあるのを見て驚くと共に、懐かしい思いが込みあげてきた。思い起せば剣持君とは前橋市立第一中学校で同学年だった。お互い家は近かったが何しろ一クラス五十五人、それが一学年十三クラスという戦後十数年とは言え安定した教育環境とは程遠い学校、それに人見知りする私の性格からか、それ程親しく言葉を交わした記憶はない。しかし、どういう事情であったか確と思い起せないが、生徒会長の君と私達は春休み、夏休み校旗を押し立てて野球やバレーボールの応援に駆けずり回ったのは良く憶えている。その後、君は進学校の県立前橋高等学校に進学し、いわゆる“戦争未亡人”の母のもと、私は働きづくめの母を助けるべく、すぐにでも就職しようとしたが、何とか工業高校に入り、そして社会へ出た。時は将にベトナム反戦、反安保闘争の高揚で暗い予感を秘めた騒然とした社会だった。両親が教師という恵まれた環境の君が進学もせず就職(?)し東京でバーテンダーをやっていると風の便りに聞いたのも、そんな怒号と投石の嵐のデモの中であったような気がする。昭和60年私は日本経済新聞の「交遊抄」欄に小栗康平氏が「風の又三郎」という題で親しみを込めて、君について書いているのを偶然読んだ。そこで君が前高で小栗康平氏の二年先輩で交遊がある事、そして君が小栗作品に少なからぬ関わりがある事を私は初めて知った。また、その中で小栗康平氏は「(君と)いつか仕事での真の邂逅があることを私は信じて疑わない」とも書いている。それが今回の映画「眠る男」である。ところで本題の映画だが、勿論私は全て目を通した訳ではないが、県内外そして中央から様々な評論、コメントが寄せられている。しかし、残念ながらこの映画の核心に触れたものは、いまだ出ていないように私は思うのだ(そんな中でも、評論家の花崎皋平氏の評論は評価されるべきものがある)。というのも多くの論者はこの映画のテーマがいわゆる人間と自然との共生共存という、ある意味では最も無難な「今日的問題」にあると思い込んでいるからである。これは製作に与えられた意図からしてあながち間違いではない。しかし、少なくともそれはこの映画の提起する重要な主題ではない。つまり、この映画では主人公の“眠る男”を中心的象徴として、はからずもこれを取り巻くその他の全ての登場人物は「時間の創作」に関わりを持たないというのがこの映画全編を貫く重要なテーマである事を指摘する論者がいないのはどうしたことだろう。この時間を創作しない、所有しない、つまり時間は無いものとする態度は仏教の教える所と深く共鳴する。これをシンボライズしているのがこの映画の中でたびたび見せる“眠る男”の横からの美しいショットであり、これは明らかにお釈迦様の涅槃、いわゆる寝釈迦像を暗示しているのだ。つまり「眠る男」は「生死不二」のひたすら「眠っている男」であり、彼を取り巻く全ての登場人物は、この「眠っている男」に連用して「生きている人々」である。時間を創作できるのは「生きる人間」だけである。いわゆる西洋人間中心主義社会が声高に叫ぶ「自由」なるものは人間の「生きる意志」が括る時と時の間に創作された時間の中にしか存在しない。つまり、「生きる人間」により創作された時間が空間に投げ入れられ斉らされた幻影錯覚が自由と呼ばれるものだ。
この時間を創作しない「生きている」人々、彼等は生物学者の中村桂子が言う所の「生きもの感覚を持った人間」であり、又自らを「仏教徒」だと言って憚らない全ての本質を時間の中に見る事を拒否するレビー・ストロースの「時間のらち外に立つ人間」である。
こうした「眠っている男」のそして「生きている」スクリーン上の人々が見せる自由、それは西洋人間中心主義社会の「生きる人間」が創作された時間の中に追い求めた自律的自由ではなく、時の実存の上に連用し「生きている」人々にみる時間に関わる象限の「らち外」にある利他的な他律的自由と呼ばれるべきものであろう。彼等には自(おのず)から必然する輪廻転生の他律の中に自(みず)からの自由があるのである。
とはいえ、時間のらち外に立つ連用する自然と共に「生きている人間」の彼等が逃れるべくもない目前の現実世界を担保されているという事を考えた場合、その矛盾について、現代の「生きる」人間が投げつける非難はもっともで正鵠を得ている。しかし、この矛盾を古来より日本人は他律する利他的な「生きていることの申し訳なさ」という思い(実存的内省)を寄り所として伝統的に解決してきたのである。花崎皋平氏は映画「眠る男」について次のように書いている。「この作品は、全体を通して競争と業績を軸とした生き方ではない生き方、つまり存在すること、生きていることに価値を置き、風や木の葉や月の光や水の流れを、おなじ生命として味わう生き方を映し出している。だから登場人物たちはだれもなにも特別なことを『する』わけではない。『ある』という仕方で自然の存在と等価なものとして横並びになっている」。花崎氏はこの映画の真実の半分程を言い当てている。それは「存在すること、生きていることの価値」である。しかし、残念ながら、真実は価値の多寡ではないのである。それでは単なる「存在すること、生きていること」という眼前に見られる光景、風景を人間が説明し評価しているにすぎない。問題は価値ではなく、今在る私がこうして全ての数ある存在と連用し奇跡的に存在している事、生きていること、そしてこの実存に対する私の本実に性起する「生きていることの申し訳なさ」という思い、実存的内省が描きだす情景にあるのだ。
この実存的内省は花崎氏が言うように人間の「ある」が「自然の存在と等価なもの」というだけでは生まれない。それには先に述べたように単に「存在すること、生きていること」という説明された光景、風景を「生きていることの申し訳なさ」という思いをして情景に描き直さなければならないが、花崎氏にはこうした認識がない。
この情景を介して生まれるもの、それは自然との共生共存ではなく、連用する共生共死である。西洋人間中心主義(ヒューマニズム)社会が声高に吹聴する否定性の愛を介した共生共存ではなく肯定された自然と共に生き共に死のうという日本の伝統的宇宙観にみる「生死一相」の共生共死である。西洋のキリスト教文明が「生きる」人間に代表される精神だとすれば、日本の自性が呼び起す「生きていることの申し訳なさ」という思い、実存的内省こそが我々と西洋の文化的対等性を保障する。つまり、キリスト教人間中心主義社会にはもともと「生きていることの申し訳なさ」という思いは無いのである。何故ならそういう思いは敗者である人間個人の弱さから出てくるものであり、それは神から授けられた強靭な自律した理性を宿す西洋的自我においては断じて否定されるべきものだからである。こうした自我的人間が信じて疑わないもの、それは時間と自由、そしてそれを生み出す人間の「生きる意志」が見せつける絶対的なパワーである。従ってグロテスクなまでに強調されるスピードとアクション、そしてこれらの表現者であるスーパーマンやヒーローの登場を必要不可欠な条件とする現代の多くの欧米映画を観なれた日本人がこの「時間の創作」とその所有を拒否した人々によって演じられる涙と興奮そして感動を極力そぎ落した非劇場的映画に不満や物足りなさを覚えるのも無理からぬ所だ(多くの論者がこの映画に否定的な評価しか与えないのはつまる所、この点にある)。しかし、この「つまらなさ」こそが実はこの作品の主題となっているものなのだ。こうした不平不満をつのる人達に対して「眠る男」は静かに次のように語りかけるのである。「不幸に満ちた人生であったとしても、はたまた逆に充実した人生であったとしても宇宙転生、すべからく「生死一相」のもと生起する全ての実存は肯定され、めくるべくして回帰するからには、『生きている』人間が想い出づるものは、只々感慨である。つまり、人生の真実は感動や興奮ではなく感慨なのだ」と。そして更に「人は何の為に生まれてきたのか。どう生きていかねばならないのか、その答えは誰にもわからない。いや何となく生まれて来て、何となく生きている我々にそれはわからなくて当然でそれで良いのである。人生の真実は答えようのない答えをあえて求める『生きる』人間の『時間の創作』により斉らされる感動ではなく、何ものにもとらわれない実存に生起する内省、代謝を通して生きながらにして生まれ代る『生きている』人々の『実存的内省』にみる感慨なのだ」と。
ブッダは次のように言っている。「過去にあったものを涸渇せしめよ。未来にはそなたに何ものもないようにせよ、中間(現世)においても汝が何ものにも執着しないならば、そなたはやすらかにふるまう人となるであろう」(「ブッダのことば」スッタニパータ一〇九九)。
つまり、未来に対する確信的な希望、絶望そして悔恨という煩悩を捨てよ、「時間の創作を放棄せよ、さすればやすらかな感慨が成就するであろう、と言っているのである。しかし、これに対し、花崎氏の言う「競争と業績」に生きる人間の絶対的精神は時間なるものを創作し、彼等が最高の価値を置く自由と感動への執着によって問題の全てを解決しようとする。しかし、それも今日の危機的状況を呈する完全に可視化されてしまった「時間の創作」が結果する全ての最終引受人である現実の地球の姿を見るまでもなく、その欲望は失望のうちに終るだろう。内省する今なる実存を冷静に見すえ自らをして代謝する事なく果つる事なき欲望のおもむく所、「時間の創作」のもと無窮の幻影の中に自我的自由をひたすら追い求め続ける現代日本人、その胸の奥底に秘そやかに追いやられた自性(本心)「生きていることの申し訳なさ」という思い、実存的内省をもう一度呼び起す手助けをこの映画が果たすことを私は願う。
それにしても“非商業的”とも言えるこの映画を企画し、理解を示した県知事のセンスは先ずは評価されてしかるべきであろう。この映画の主題から最も遠いと思われるそのポジションを考えてみればなお更であろう。ともあれ、詩人萩原朔太郎を始めとする上州人作家が最も得意とする短詩形式の画面は実に美しかった。それに、交される上州弁の乾いた響きを心地良く聞いた私はあらためて自分は上州人であると得心させられた。剣持潔君のこれからの健闘を祈る。