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真の規範性はいかにして生まれるか

— 他律的な常在する規範性 —


東京大学出版会発行の「UP(通巻461号)」誌上の書評欄で当大学教授中島隆博がクリスティーン・コースガード著『義務とアイデンティティの倫理学—規範性の源泉』そしてジル・ドゥルーズ著『経験論と主体性—ヒュームにおける人間的自然についての試論』両著の書評を通して「感情と規範性」なる題のもとこれを論じている。先ず中島は「道徳を基礎づけるにはどうすればよいのか。あるいはより一般的にいって規範性をどこから導き出せばよいのか。この問いは様々に姿を変えながら、あらゆる哲学の言説に入り込んでいる」とした上で冒頭にコースガードが掲げる「規範性—人間の生に行き渡っている心理的であると同時に論理的な『なければならない』『べきである』『必然性』—は何に由来するのか(傍点はコースガード)」をテーマに問いかける。これに対しコースガードは四つの立場を用意するが(一と二は省略する)、その三つ目の立場としてあるのが「道徳的価値をもっと科学的に人間の心理のなかに基礎づけることを求めたフランシス・ハチスンやディビット・ヒュームなどの感情論者、彼等は自然な欲求や衝動のなかには、それらのわれわれに対する影響をわれわれが反省に基づいて認証することができる、と思う時に規範的な権威を獲得するものがある、と考えた」がそれである。しかし、コースガードは自らが掲げた冒頭の答えとしてはこれに大いに不満であり、納得しないのである。中島は言う「要するにコースガードは規範性の基礎を感情を超えた反省する構造を持つ自己意識に置き、自己意識が行為を為すべき理由=規範性を創出すると考えたいのだ」とし、そして更に続けて「この方向を典型的に表現したのが第四の立場として定義されたカントであり、その自律という概念である」とする。ここにコースガードはカントになぞらえて自律について次のように述べる。「われわれが確証したのは次のことである。人間の意識の反省的な構造が自分の選択を統制する何らかの法則や原理に自分自身のアイデンティティを見出すことを要求する。それは自分自身にとって法則であることを要求する。そして、それこそが規範性の源泉なのである。このように、これまでの議論はまさにカントが言ったとおりのことを示している。われわれの自律が義務の源泉なのである」。これに対して中島はそれは良しとするも、この自律を規範性の源泉に置くカント的立場は「果して他者に規範性を課したり、他者から規範性を課されたりすることを説明できるのだろうか」と問いかける。この問いにコースガードは一の例をひいて自律によって立てられる規範性は私的なものではなく、あくまでも公共的な性格を持つことを例証し、反論するのである。
では「自律する規範性は公共性を持つ」とは一体どういうことか。そもそもコースガードやカントが言う自律や規範性の前提にあらねばならないもの、それは理性であろう。「自分自身にとっての法則」である、理性という存在がなければ人間の自律はあらず規範性もあり得ないのである。ならば理性とはいかなるものか。ハイデガー研究の第一人者の木田元(くしくも木田元は、ジル・ドゥルーズの上掲著作の翻訳者である)はいみじくも言っている「理性という概念は世界を創造した神の知性のわれわれのうちにある出張所である(朝日新聞“自己と出会う”欄)」と。キリスト教人間中心主義社会において良く言われる「人間に良心を植えつけた何者かが存在する」の何者かがイエス・キリスト神である事は言をまたないが、正しくは神が人間に植えつけたもの、それは良心と言うよりも、木田元が言う所の「神の代理人」である理性なのだ。つまり、コースガードが引用するカントの自律に基づく反省は信仰に裏づけられた理性的反省であり、それは情念に差配されないアプリオリな「自分自身にとっての法則」である理性による自律的反省に基づく規範性を創出するが、一方、それは揺るぎない社会合理性(キリスト教信仰)により生み出されるという点において広く公共的原則性を持つというのがカントの主張であろう。
一方、ヒュームにみる規範性は、個別する情念に基づく反省である。つまり、自己の内なる「自然な欲求や衝動」が規定された情念である人間的反省の助けを得てそれは獲得されると主張する。しかし、規範性の獲得を個を越えた理性にみるカント、それを自己の情念にみるヒューム、それはいずれにしても「自分自身にとっての法則」であり、「慣れ親しんだ慣習を経験させてくれる慣れ親しんだ住処(エートス)」である西洋キリスト教人間中心主義社会のもと、いずれもその言語、言葉は公共化(人間化と言ってもよい)され、もってその規範性を絶対化させているという事については、カント、ヒューム両者に相違は無いのである。要するにこの自律する西洋キリスト教人間中心主義社会が義務として持つ規範性は普遍的世界性を有しており、そこに異論をはさむ余地はないという事である。
コースガードは言う「あなたの言葉を言葉として聞くことによって私はあなたが誰かであると認める。仮に私がその議論に耳を傾けるならば、われわれの一人一人が誰かであることをすでに認めているのである」。つまり、人間という関係性のもとにある私とあなた、その相互の間に拡張、反省されながら交される社会的公共性を持つ言語、今ここで言葉が交されているという事実自体が、私そして言葉を言葉として聞くあなたが自律した理性によって立てられた規範性を持つ誰かであると認められているという事である。つまり、義務であり「自分自身にとっての法則」である自律する規範性は社会の持つその公共性によって裏づけられている、というのである。
ここでコースガードは、その「公共性」という事から、話を動物という他者と規範性の問題に引き移し、次のように述べている。「苦しむ動物を哀れむのは、あなたが理由を知覚しているからである。動物の叫びが苦痛を表現するとき、それは理由があるということ、状態を変えるべき理由があるということだ。そして、あなたは、動物の叫びをたんなる雑音として聞くことができないのは、人の言葉をたんなる雑音として聴くことができないのと同じである。———人間と動物に共通していることは誰かであるということだ。だから、もちろん、われわれには、動物に対する義務がある」。
動物の叫びを公共性を持つ言葉、つまり、“人間の言葉”として聴きとる。それが人間に与えられた義務である、雑音として聞くのではなく言葉として聴くこと、当然それはコースガードに従えば動物を大きな括りの中で人間中心主義社会を構成する「誰か」と認める事である。
これに対し、中島は、「これはもはや自律に基づく規範性ではなく、感情に基づく規範性ではないだろうか。コースガードはカントをはみ出して再びヒューム的感情論者の立場に近づいているように見える」と疑念を呈する。
まさにその通りであり、カントの自律的規律性に讃意しながらも、一方でヒュームの感情論に肩入れをみせるコースガードに一貫性はないかのようである。このコースガードにうかがえる動物の擬人間化された規範性の問題は、今日の現実する西洋キリスト教人間中心主義社会諸国の捕鯨反対運動の中に顕著に現れている。捕鯨反対運動には三つの立場がある。一つは科学的立場であるが、これが純粋に尊重される中立的立場である限り、ここでは除外される。二つ目は単に可愛相だとする感情論だが、これは論ずるに価しない。そして三つ目が鯨は人間に劣らぬ高い知能を持つ動物(科学をよそおった非科学的意見だが西洋では反対意見としてこれが最も多い)だからという理由である。つまり鯨の体内から発せられる音は雑音ではなく理性的に聞きとるべきであり、人間の規範性は「それを公共性を持つ拡張された言葉として聞く事」が要求されているのである。さすれば鯨は明らかに「誰か」と認められる事からして鯨にはしかるべき人格的ポジションが与えられなければならない。それを果すのは、神によりこの「地上の支配者」という権利を与えられた人間が負う当然の義務であり、又それこそが自律した理性的人間の規範性とよばれるものだと主張する。これはまさに、自律する規範的人間、即ちコースガードの立場と明確に一致している。このように反捕鯨運動、そしてコースガードに共通するものは、公共性を人間外に拡張することによって自律する自らが立てたキリスト教信仰が裏づけを与えた規範性がいかに理性的にして神の意志にかなった正しいものであるかを改めて相互に確認しあうことにある。コースガードは言う「動物の叫びが苦痛を表現するとき、それは理由があるということ、状態を変えるべき理由があるということだ」と(しかし、そんなキリスト教徒コースガードはかつての十字軍の「神の意志」に蹂りんされた異教徒イスラムの「苦痛の叫び」をたぶんに自らの理性に照らして聞くことはないのである)。
こうしたコースガードの主張の具現化が「ニワトリやブタにも福祉を」といういわゆる「動物の福祉」の名のもとに提案されたEU(ヨーロッパ諸国連合)の「家畜肥育法」である。それは市場に出荷する家畜を農場から処理場まで運ぶ間に何回休ませるの妥当なのか、といったような動物の苦痛をいかに和らげるかを主題とした肥育からと殺処理まで各段階を具体的に、法律をもって定めようというものである。つまり、利他的な実存的内省から生まれる連用する自然に対する「感謝」とう言葉を知らない神にひたすらな彼等は、この法律によって「手を尽くした上で、気持ちよく食べたい」という社会的合意に裏書きを与え、その「生」の絶対性に対するしょく罪としての罪悪感後ろめたさを減少させ自らの一連の行為の正当性に免罪符を与えようというのである。
(今ここに神の名において敬謙な食前の祈りをささげたコースガードが食卓上のビーフステーキを食する時、牛が屠殺される際に発せられる脳裡をよぎる苦痛の叫びを、この法律を根拠に思いわずらう事なく舌鼓みを打っている自身の光景のコッケイさを果して正気をもって想像できるのであろうか。)
つまり、コースガードには、中島が言うように、カントの冷静な自律した理性による規範性を首肯しながらも、一方でヒュームの感情論を捨てきれない自分がいるのである。しかしそのヒュームはこう述べている。「理性とはもろもろの情念の一般的で穏やかな規定に他ならない。すなわち、距離を置いてみると反省に基づく規定に他ならないのである(ヒューム「人生論」)。
これは先の木田元が言うように、キリスト教人間中心主義社会において、「理性は神による知性の差配であり、それはわれわれの出張所、つまり神から人間に手ずから与えられたもの」であるとすれば、ヒュームにとっての理性は、明らかにキリスト教信仰という社会合理性に規定された情念の反省から導き出されるものであり、この点に関してのヒュームの理解は充分に「一貫性」はなされているのである。つまり、感情論者ヒュームにとっての理性は、キリスト教信徒人間の反省に漏過された規定された情念に他ならず、ここにヒュームの規範性があるのである。
このキリスト教徒人間ヒュームの「規定された情念」は、先のコースガードによるカントの自律する理性に讃意する「自分の選択を統制する何らかの法則や原理」にかなっており、何等矛盾しない。「自分の選択」という自律は、キリスト教の「生きよ!」の〔言(ロゴス)〕に答えた信徒人間ヒュームの「生きる意志」の性起から生まれたものであり、又、それを「統制する法則や原理」は正しくキリスト教々理、聖書の教える所そのものであるからだ。
つまり、カントの理性も、ヒュームの「キリスト教的反省に規定された情念がみせる理性」も、その根元をたどれば、イエス・キリスト神に下しおかれた理性に帰着する事になるのであり、両者がキリスト教徒(次なるドゥルーズも)であるという事に疑いはない事からすれば、ここに新ためて両者の差異を考えなければならない理由は全くないのである(この点について、中島は全く触れていない)。それはドゥルーズについても同じ事が言えるのである。
ドゥルーズの立ち位置は「公け」の理性カントと個的情念ヒュームの中間の「文化」にある。ヒュームの「利害にとらわれた感情の方向を変化させることでしか情念はそうした感情を制御することはできない」という情念による反省についてドゥルーズは次のように指摘している。「正義とは利害的関心についての反省ではなく、利害的関心の反省であるということ、そして正義とは情念が変様する精神のなかでの情念それ自体のねじれであるということ、これを理解しなければならない。反省とはおのれ自身を抑圧する傾向の操作である(ジル・ドゥルーズ「経験論と主体性」)。
ドゥルーズによれば正義なる規範性は自らの利害的関心を基いにする情念、その「情念それ自体のねじれ」である反省にあるとする。それはヒュームの言う「利害的関心についての反省」つまり「(個別する)利害にとらわれた感情の方向を変化させる」というような軽々しい事にあるのではなくドゥルーズの場合「(感情を包摂する)情念それ自体のねじれ」に正義なる規範性はあるのである。何故ならば木田元が言うように理性は神(我)が一方的に人間(汝)に「手ずからを与えたもの」被投されたものであるならば、その理性を受け容れた純粋人間の「情念それ自体のねじれ」である反省、つまりキリスト教徒人間の場合その個を越えた人為をもってなされる文化という「ねじれ」を反省として、人間は自らの身を理性にすり寄せるのである。要するにドゥルーズの場合、反省とは社会合理性であるキリスト教文化の名のもとになされる、人間のおのれ自身の情念の抑圧、つまり「ねじれ」にあるのだ。更に同書においてドゥルーズは「正義は諸情念を迂回的に満足させるということ、ただそれだけのことである。正義は自然の一原理ではない。正義は人為である。しかし、人間は考案する種であるという意味で人為はやはり自然である。たとえば、占有の安定はひとつの自然法である。自然に属するのは諸習慣ではなく、諸習慣を身につけるという習慣である。自然は文化という手段を介してはじめておのれの諸目的を達成するのであり、心的傾向は制度を経由してようやく満足させられるのである」。正義は「情念を迂回的に満足させる」、つまり、それは自然世界にはない迂回した文化を介した満足を経て成就することからして、正義は自然とはいえない。しかし、「諸習慣(文化)を身につける習慣」のある人間は特別の動物種であるという事からすれば、人間にとってそれは自然である。「占有の安定」、たとえば道端に見る一塊の小石にしても、自然から見ればそれは単なる「在る」にすぎないが、諸習慣を身につけた人間の規範性を伴う「自然法」という目(文化、制度)を通して見れば、それは人間に肯定された「人間的自然」が意味づける「慣性の法則」のもとにある石となるのである。
つまり、キリスト教徒人間にとっては尋常な心的傾向である情念は、「情念それ自体のねじれ」である反省というキリスト教信仰に基づく文化を介して初めて正義という規範性を獲得することができるのである。要するに、ドゥルーズは「ねじれ」を有する人間が展望する人為による社会合理性としてのキリスト教文化の中に自らの正義を置きたいのである。
では、論者の中島は、この問題を最終的にどう結論づけようとしているのだろうか。これについて中島は先にコースガードがカント支持からヒューム的な感情的規範性に立ち戻ったかにみえる事について「わたしはこの立場のほうが、自律に基づく立場よりも規範性を基礎づけるにはより妥当であると思われる。なぜならば、規範性は自律よりも他律に、自己による立法よりも他者への応答可能性において考える方がより無理がないからである。」と言っている。しかし、その讃意はいささか当を得ていないのではないだろうか。つまり、カントの自律した理性的反省は当然としても、ヒュームの個別する感情がみせる反省も、又、ドゥルーズの文化を介した反省もヒュームは理性を「規定された感情」である事を認めている事からして、それは自律した理性に基づく反省であり、又、あえてヒュームとの差異をみせつけようとするドゥルーズにしても、その「情念のねじれ」による反省は、「正義は人為である」の一言(ドゥルーズにとっての正義はキリスト教文化の理性が意味を与える人為である)をもって理解できるように、そのキリスト教的理性への帰結という点について、カント、ヒュームと何等変わる所はないのである。要するに、三者にはよる所の立場の差こそあれその根にあるものは、聖書を教理とする「法則や原理」に基づくキリスト教信仰を背景にした自律する理性的反省なのだ。
中島は「道徳を基礎づけるにはどうすればよいのか、あるいは一般的に言って規範性をどこから導き出せばよいのか」というテーマを掲げ、三人の論者の主張を検討してきたのであるが、そこに見られたのはキリスト教が裏づけを与えた自律した理性的反省に基づく規範性であり、中島が冒頭で(密かに)期待していた他律的規範性をうかがわせる言葉はどこにも見あたらないのである。
しかし、それは当然であり、カント、ヒューム、ドゥルーズが自らのエートスとして了承を与え、そして慣れ親しんでいる何疑う事のない西洋キリスト教人間中心主義社会のシュティムングを基礎づけているイエス・キリスト神に啓示された自律する「生きよ!」の〔言(ロゴス)〕の否定性は他律に関わる事象に考えを及ばせる事は有りえないのである。つまり、イエス・キリスト神を面前にして神との間に信仰という他者との関係を絶った相互依属の契約を今ここに結んだ自律した信徒人間にそもそも他律という関係性から生まれる規範性が思い浮かばないのは言うまでもないのである。自律した理性を根源に持つ西洋キリスト教人間中心主義社会には他律という言葉そのものが存在しない。従ってそこからは中島が掲げたテーマ「規範性の根源」が「自律した理性的反省」にあるという予期された結論に落ち着くのは、当然の帰結なのである。
さればこそ、ここに中島が真の規範性を「自律よりも他律」にその可能性をみる、というのは当初の問題提起からして当然であるが、それをあらためて「他者への応答可能性において考える」としているのは明らかな間違いである。そもそも応答可能性とは他者との間に疎通する感情、情念の相互応答を意味するものとすれば、それは普遍的可能性として存在する他律的規範性にとってとうてい受けいれられるものではない。こうした応答普遍性を欠落させた他律する規範性を生半可に肯定した中島の結論「規範性は他律をもって基礎づけるのが妥当である」は他律についての考察が捷急で不分明の内に終ってしまっているのである。
では、中島が期待した他律による規範性を真に語り得るのは一体誰であろうか。真の規範性それは、人間の自律した理性的反省からは生まれない。それは反省ではなく内省、生きとし、生きている連用した「いのちとかたち」の全てが自らの実存に向き合う互いの内省によって生まれるのである。つまり、キリスト教徒人間カント、ヒューム、ドゥルーズの自律する「生きる意志」に対極する他律の利他的な「生きていることの申し訳なさ」という思い実存的内省からそれは生まれるのだ。
実存的内省の私的、公的偏りを持たない他律するその規範性は、利他的という事において、万物万有にあまねく受容される。実存的内省は、外容であることわりされた実存、そして内容としての内省つまり「生きていることの申し訳なさ」という思いから生まれた他律する利他的内省である。それ故に、中島が危惧する他者への「規律性を義務として課したり、課されたり」を伴わない。実存的内省にあるのは他者への応答可能性ではなく、利他的な応答普遍性である。それは自律した言語、言葉、感情ではとらえられない他律する応答普遍の沈黙のしじまの内に伝え及ぶ「生きていることの申し訳なさ」という思い、他者に対する利他的で親和的な畏敬をこめた思い、そこに中島が求めた他律する真の規範性が生まれるのである。
「もしも神が不在ならばすべてが許される」というドストエフスキーの言葉は西洋キリスト教人間社会の人間ならば至極当然の事として首肯する所であろう。しかし、キリスト神の不在する他律の実存的内省にあっては自律する人間の「生きる意志」的存在の立ち位置はない。そこには許すも、許さぬも人間の自律する理性的規範性が居拠するキリスト神はもとより、それを代替する天かける力は存在しないのであり、そこに在るのはただに理わりされた利他的な万物万有の実存的内省にあまねる他律的規範性である。つまり、イエス・キリスト神のいない「いのちとかたち(エイドリアン・ベジャン)」の世界においては自律する理性的規範性は、その与えられた意味する所の全てを失うのである。
この西洋キリスト教人間中心主義社会における自律する理性的規範性からの離脱はキリスト教の持つ宗教的呪縛からの解放を意味する。日本では余り知られていないがイタリアにおける「日本学研究の草分けであり、且つ民族学者、登山家にして著述家であったフォスコ・マライーニはこのキリスト教の宗教的呪縛を解き放った代表的な数少ない非西洋的文化人である(『フォスコ・マライーニの最後の弁明』「図書」No741号所収、谷泰著)。彼は自らの死の近きに際し、死後取り行われるであろうセレモニーについて、教会の儀式ではなく、世俗の告別式を望んだが、その理由を明記した(予め書き残された)彼の弁明文が死後遺族によって式場の参列者に配布されたのである。長い弁明だが、以下に抄約する。「私は・・・諸文明に向けての旅を重ね、それらにじかに触れる経験を通じ、はっきりと次のように思うようになった。つまり、ある特定の場所、特定の時点で、特定の人物に開示される<局在する啓示>ではなく、<常在する啓示>というものがあるのだと。それは自然の中でも、日常の人間世界の中でも、どこでも神秘的な語りかけとして受け取られるものであり、じつはそういう宗教的場にわれわれはいる。なにも預言者から聴かなくとも聴く、見る、読むだけでよい。すべては<啓示>としてそこにいつも示されているのだ、と。・・・(巧妙かつ天才的なパオロの創作でしょうが)イエスをわたしはどうしても「神の子」とはみなせないのです。<常在する啓示>の中にこそ、わたしは平和と安心とを見出してきました。多くの理由からわたしは<局在する啓示>よりも<常在する啓示>のほうがはるかに優れていると思えることをいま告白します。そう<常在する啓示>はそれこそ最初にこの世に到来した人類が不安と感謝、希望と不思議の念をもって天を見上げたそのときから、いつもそこに存在していたのです。・・・歴史とではなく、自然と一体化する<常在する啓示>こそが深く実感のこもった人類同志の精神的一体へとわれわれを導くのです。<常在する啓示>という考えの下でこそ宗教と科学、人間と自然とのあいだの対立は克服されるはずです。科学はその啓示を探求するものになり、隠された神との協力のもとに宗教的営為と一体化していくでしょう」。
「自然のなかでも、日常の人間世界のなかでも、どこでも神秘的な語りかけ」をもって啓示される<常在する啓示>の中にマライーニのアイデンティティーは、コースガードが言う所の「規範性の源泉」である他律する常在的規範性を見ているのである。<常在する啓示>が語りかけるこの「規範性の源泉」は、まさに利他的な「生きていることの申し訳なさ」という思い、実存的内省の規範性とその「源泉」において一なるものとなっているという事がここに知られるのである。
つまり、<常在する啓示>に観る「常在する規範性」は自律する理性的反省を否定する利他的にして他律という本質において実存的内省が内容とする所と全く同じくするのだ。<局在する啓示>は人間に自律をむねとする理性的反省を常に要求し続けるが、<常在する啓示>は、万物万有に肯定された啓示であり、その他律性からして、その規範性は他者に対して何等の「要求や制約」、つまり「否定性」を課したりはしない(本稿の冒頭でみたコースガードがテーマに掲げた規範性の持つべき条件としてあげた「なければならない」「べきである」「必然性」にみる西洋キリスト教人間中心主義社会を支え、ろう断するその「否定性」をここにあらためて思い起して欲しい)。それは中島が規範性に求めていた事を満たしており、従って、中島が下した結論「規範性は他律をもって基礎づけるのが妥当」はまさに正鵠を得ているのである。
マライーニの「歴史(時間)とではなく自然と一体化する<常在する啓示>」は、キリスト教人間中心主義社会の根幹をなす「可能性の先取り」である「時間の創作」を生起させる「生きる意志」を拒否した時の上に連用し「生きている人間」、即ち人間滅亡的人間による他律をもととする利他性に同意するのである。さすれば、ここに肯定された「自然と一体化」した真の他律的規範性が呼び起され、それがマライーニが希求する「新たな社会、新たな科学世界」を生み出す新たな力を与えるのである。キリスト教の<局在する啓示>のもと、その自律する理性的反省を疑うことのないカント、ヒューム、ドゥルーズの規範性は、まさにキリスト教に根源を持つ独善的な「局在する規範性」であり、他方、マライーニの万物万有にあまねる<常在する啓示>の規範性は時に広く利他的にして他律する<常在する規範性>にある。イエス・キリストが啓示した<局在する啓示>「生きよ!」の〔言(ロゴス)〕は、信徒人間の<局在する規範性>のうちに信仰の力を見届けるが、<常在する規範性>が指し示す規範性は、信仰の力に代る「生きていることの申し訳なさ」という思い、実存的内省を「常在する規範性」のうちに見届けるのであり、そこに本来の他律的規範性が生まれるのである。
我々が「生きている」この宇宙コスモスにおいては、エイドリヤン・ベジャンが言う所の「流れ」という連用によりことわりされた全ての「いのちとかたち」が生み出され形作られているのである。それは終焉のないという意味において成るべくして成ってきたのであり、これからも成るべくして成るのである。これに対してキリスト教の<局在する啓示>は、信徒人間にとって、在るべくして在る否定しうべくもなく自在するイエス・キリストの「生きよ!」の〔言(ロゴス)〕の啓示である。
ドゥルーズが事もなげに口にする「人間的自然」にしても、西洋キリスト教人間中心主義社会における地球という自然は神が造形した人間によって「人間的自然」に「在る」べくして「在らせられている」のである。つまり、ドゥルーズによれば、神に仕える人間の手に触れたもの、認識されたもののみが「自然法」のもと自然の名を与えられるのであり、それ以外に自然とよばれるものは人間中心主義社会には存在しないのである。
先に見たように、コースガードは規範性の本質にあるものとして否定を事とする「なければならない」「べきである」「必然性」をあげているが、ドゥルーズにとって肯定される「局在する規範性」のもとにあるその自然は「人間的自然でなければならない」のであり、「人間的自然であるべき必然性」があるのだ。
これに対して<常在する規範性>にあるものは、「人間的自然」ではなく、自然と「生死一相」する対等な伴侶として存在する「自然的人間」である。「人間的自然」から「自然的人間」へ、自律する理性的反省による「局在する規範性」から他律する実存的内省による「常在する規範性」へ、真の規範性は自律する人間の理性や情念文化ではなく、他律し連用する無言のしじまの内に伝え及ぶ利他的な親和力から生まれるのであり、それはフォスコ・マライーニが言う降りそそぐ、あり余る<常在する啓示>の光を浴びた「生きていることの申し訳なさ」という思い、実存的内省が育む「生きている人間」、つまり新たな人間「自然的人間」の他律的で利他的な<常在する規範性>にあるのである。
中島が言うように、まさにこれこそが全てにおいて「無理がない」のである。