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宮沢賢治の真実

— 隠された祈り実存的内省そして共生共死 —

もうお気づきのように、この“詩”はかの有名な「雨ニモマケズ」が宮沢賢治の「本質的表現」として書かれているのであれば、私の根底にある基礎的な態度といささか異なるという思いがふと浮かび、ならばと「雨ニモマケズ」のリズムを借りて書いたもので、決してパロディーを狙ったものではありません。従ってこの“詩”はあくまでも「雨ニモマケズ」を対照、比較しながら読む事が期待される極めて真面目な“詩”であります。願わくば、私と賢治との差異の中に私へのより深い真実と理解を見い出し下されんことを。

さて、それはそれとして、ここでは宮沢賢治並びに詩「雨ニモマケズ」についての疑問、戦前その詩的評価は全く問題にならなかったこの詩が戦後、俄かに脚光を浴びる事になった理由、更には宮沢賢治の真の魅力は一体どこにあるのか、といったような事を見ていきたいと思うのだが、それにしても、賢治への疑問や批判を口にするのは気の重い、そしていささか勇気を必要とするようである。何故なら、日本の近代詩人、作家のなかで彼程絶大な称賛、賛辞によって神格化され、結果その批判者をして恐れ萎えさせる社会的雰囲気が暗黙のうちに形成確立されている作家はいないからである。曰く、「農民啓蒙の聖者、純粋詩人、理想に燃える禁欲的宗教家(三好京三氏)」。更には戦後イデオローグを代表するあの吉本隆明でさえ「『雨ニモマケズ』の全体からやってくる宗教的ともいえる渾然とした匂いは、この詩人の人格的境地がそれ相当のもので、たんなる文芸の徒ではないと思われた。この詩人は偉大な魂の境地を持っている。この『雨ニモマケズ』にあらわれる詩と宗教的ともいえる境地の融合された調和感は背伸びでも、作為でもない本音からの希求であることを認めざるをえなかった」とし、学生時代は自分の部屋の天井に大書した「雨ニモマケズ」を貼って寝ながらにして読んでいた、とするに至っては彼ともあろう人が、オヤオヤと思わざるを得ない。

しかしながら、どうであろう。当時、自動車を持つ程の裕福な商家(質屋兼古着商)の長男の坊ちゃんに生まれ、「花巻一といわれる程の余りの注文の多さに東京のレコード会社から感謝状が送られたという、一枚6円50銭時代の100枚近くのレコード収集、1000枚に及ぶ浮世絵コレクションとその他の絵画収集そしてその母校への寄贈、国産とはいえ最高級のチェロ、“東京人にも外国人にも敗けぬ”と豪語する最新流行の衣服。『東京には飽きた』と言わしめる生涯13回にのぼる長期の上京、ひんぱんな活動写真と演劇鑑賞、チェロ、オルガン、エスペラント語などの習得の為の個人レッスン、ハイカラな西洋料理好き・・・等々」(“サライ”1990年2・6)」。その短い生涯にくり広げられた慌ただしいこうした彼の生活振りを冷静に俯瞰してみると、さてこれは上記の称賛と賛辞を浴びる詩『雨ニモマケズ』から我々が思い描く人物像とうまく調和するであろうか。勿論、作家個人の実生活と観念の産物である作品とは全くもって別物であることは言うまでもなかろう。いつの時代も作家の評価は作品で決まるのである。この点、賢治の場合、いつの頃からか「偉大な魂の境地を持つ作品」と人物像との結びつきが限りなく不可侵なものとして巷間イメージ化されてきたのは誰もが認める所であろう。従って、そうであればある程詩「雨ニモマケズ」の「完成された心象」と上記で見た彼の周辺から窺い知れる等身大の実像とのかい離はどうしても埋まらない、落ち着き所のない大きな落差があるように思われるのは私の思い過ごしであろうか。つまり、私には詩「雨ニモマケズ」は吉本隆明が言うようなその完成された「人格的境地」から生まれるべくして生まれたという誰でもが首肯する必然性が感じられないのである。さすれば、詩「雨ニモマケズ」に見られる「ヒューマニズム溢れる人間像」は自らの内外面の現実的俗性を元にそれを反転、対極化させたまさに観念の産物、フィクションそのものとみるのが妥当なのではないか。つまり、賢治の人格は巷間言われている所とは又、別の所にあるのではないか。

次の手紙は、教職を辞し、上京した折、父親にあてた金を無心する手紙だが、その辺の彼の実像が読み取れよう。「申しあげればまたわたくしの弱点まで見えすいて情なくお怒りになると思いますが、第一に靴が来る途中から泥が入っていまして修繕にやるうちどうせあとで要るし、廉いと思って新しいのを買ってしまったり、ふだん着もまたその通り、せなかがあちこちほころびて新しいのを買いました。授業料(注:タイプライター、エスペラント語)も一流の先生たちを頼んだので殊に一人で習うので決して廉くはありませんでしたし、布団を借りるよりは得かと思って毛布を二枚買ったり、心理学や科学の廉い本を見ては飛びついて買ってしまひ、おまけに芝居もいくつか見ました。・・・・・・わたくしは決して意志が弱いのではありません。あまり、生活の他の一面に強い意志を用ひている関係から、斯ういふ方にまで力が及ばないのです」。

これが分別盛りの教職を経験した三十すぎたいい大人が父親に宛てた金策の手紙かと驚かされる。そこには詩「雨ニモマケズ」に見られる強い“精神性”は全く見られず、弱々しさを逆手にそれを武器として開き直り、相手を上目づかいに弁明する小児に近い大人の姿がそこにある。人間はなべて可能性を取捨選択し子供から大人へ成長する。つまり、自分を限定、納得させながら生きていく、これが人間の自立であろう。しかし、この手紙を見る限り、賢治にはこれが全く見られない、性的に成熟した男の匂いがないのである。ともあれ、金の必要な理由をるる述べているが、その理由には、重い真実が感じられず、怪しいものである。又、巷間こういう人間に限って応々にして吝しょく家なのだ。同郷の中学校後輩のよしみで石川啄木が生活苦から“商家の坊っちゃん”の、賢治に借金を申し込んだが、ていよく断られ、憤慨したという話は良く知られている。貧困に苦しむ啄木から見れば、賢治はまさに当時の世間が言う所の「高等遊民」に見えたに違いないのである。つまり、宮沢賢治は「理想に燃える禁欲的宗教家にして高等遊民」という極めて奇妙な存在なのである。さすれば、詩「雨ニモマケズ」は高等遊民たる賢治のある種の「冗談」だったとも言えるのである。賢治の数ある作品の中で漢字混じりのカタカナ文で書かれているのは手帳に書きつけられた詩「雨ニモマケズ」だけだそうである。とすれば、この詩が他の作品とは違う特異な背景と動機、つまり放縦な過去を背にした賢治が今まさに死期を悟り、病床に伏せる中、過去を清算し自らが理想とする新たな自画像として書いたいわば真面目な“冗談”であったと見るのもあながち間違いではない。さすれば、詩「雨ニモマケズ」の中のキーワードは最後の「ソウイウモノニ ワタシハナリタイ」である事が容易に理解できよう。死に際し、自らの俗物性を悟った彼はめくるめく過去の自らの生活態度を深く観照、反省し、フィクション化された理想とする生活そして人間像を思い描き「ソウイウノモニ ワタシハナリタイ」と真底願ったのではないだろうか。「ソウイウノモニ ワタシハナリタイ」は自らの実践者としての衿持を謙遜し、又、なぞったものではなく、読者の深読みとは裏腹に自らの俗物性を悟った全くの本心であり、そのまま素直に受け取るべきで、これこそが吉本が言う「本音からの希求」、作為された「本音からの希求」なのである。つまり、病床において自らの先行きが決着された賢治は過去における放縦な生活をジクジたる思いで清算し、あらためて清廉にしてヒューマニスティックな「ソウイウ」生活を憧憬したのである。こうした悔恨の感情は死期が近づくにつれ、増々強くなっていったとみられ、詩「雨ニモマケズ」に先立つ2ヶ月前に両親や弟達宛てに書かれた「遺言」にも色濃くそれが感じられる。「この一生の間、どこのどんな子供も受けないやうな厚いご恩あるをいただきながら、いつも我慢でお心に背き、たうとうこんなことになりました。今まで万分の一もつひにお返しできませんでした。ご恩はきっと次の生、又次の生でご報じいたしたいとそれのみを念願いたします。どうか信仰といふのではなくてもお題目で私をお呼びだしください。そのお題目で絶えずおわび申しあげお答えいたします(両親あて)」。「たうとう一生何ひとつお役に立たずご心配とご迷惑ばかりを掛けてしまひました(弟達あて)」。「お心に背きたうとうこんなことになって」しまったのは自分の我ままな生活態度に原因があり罰が下ったのだ、という思いが行間からうかがい知れる。しかし、自らの死をあらためてわびるそんな賢治にとって「ソウイウモノニ ワタシハナリタイ」という思いと、手帳の最後に書かれた「南無妙法蓮華経」の題目だけは真実だったのである。後の人達はこんな賢治を聖人化してしまったが現実の彼は自らの俗物性を十分承知しており、そして書かれたのが詩「雨ニモマケズ」だったのである。

では、ここで詩「雨ニモマケズ」は賢治が自分そして自分を取り巻く現実をどのように反転、対極化させ書かれたものなのかをあらためて見てみよう。

「雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケズ 丈夫ナカラダヲモチ」
これは言うまでもなく賢治が37才という短い生涯であったという事実を見れば充分で、実際彼はもともと虚弱な体質だったのである。因みに他の学科はともかく学生時代の体操はいつも“丙”であったという。

「欲ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシズカニワラッテヰル」
「欲ハナク」には苦笑させられる。彼は“何をやっても長続きしなかった”ようだが、その為に絶えずモノを欲しがった。レコード、絵画、楽器、衣服しかり習い事、観劇しかりで際限のない欲望は短い生涯、止む事はなかった。そんな彼が「イツモシズカニワラッテヰ」なかったのは当然であろう。そもそも笑っている「聖者」賢治を想像できようか。止まぬ欲望にいらだつ賢治は“笑い”が欲しかったのである。「真に無欲の人間」にあるものは「瞋らず」ではなく「妬まず」であり、それのみが何者にもとらわれない無から生まれた憧憬(あこがれ)に引き継がれるのである。

「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」
花巻時代“ハイカラ”を自負する彼が西洋料理好きで市内の洋食屋に足繫くかよった美食家だったと言う事はよく知られている。

「アラユルコトヲジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ」
彼の生活態度は常に自分中心(遺言書にもある通り、両親には「いつも我慢でお心に背き」又、尋常ならば家督を継ぐべき身でありながら、放縦な生活により弟達には「ご心配、ご迷惑ばかり」掛けていたのである)であって「アラユルコトヲジブンヲカンジョウニ入レ」ていたのであり、冷静さを欠き夢中になった果てにすぐ“ワスレル”という繰り返しだったのである。

「野原ノ松林ノ陰ノ小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ」
実感のない“裕福な実家”に対比させた完全に童話的世界の空想である。

「東ニ病気ノコドモアレバ・・・・・・北ニケンカヤソショウガアレバ・・・・・・」
ここにあげられた中学生の作文に見られるような誰でもが思いつくヒューマニスティックな行為は彼にはなかった。全くの理想化されたフィクションである。彼には農学校の教師、農業指導者、砕石工場の技師という文化的教養をバックにしたインテリとしての少なからぬプライドがあり、こうした行為には明らかな距離感がある。要するに彼はこれをありたいものとして対極化しているのである。人の悲しみ、苦しみは誰も(神をもってしても)救う事はできない。他者にできること、それは見えすいた押しつけがましい行為ではなく、対象に目をそむけずひたすら寄りそい静かに見守り続けるしか方法はないのである。人も又、それを強く希んでいるのである。

「ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ」
このシチュエーションは彼の「グスコーブドリの伝記」を思わせる。技術そして科学に対する万能感を持ち得ない現実の自分の不がいなさに対するいらだちが見てとれる。

「ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ」
賢治にしてみれば、その経歴からして他者からのこんな露悪的な言葉、態度は思いもよらない事であり、望むべく事でもない。つまり本心は裏腹であり、「格好をつけている」のである。

「ソウイウモノニ ワタシハナリタイ」
自らの意志の弱さと節操のない生活態度を悔恨し、それを昇化反転させた新たに生まれ変った自画像「ソウイウモノ」に自己再生の思いを託したのである。

このようにして完成した詩「雨ニモマケズ」は吉本隆明いう所の「宗教的ともいえる偉大な魂の境地」を持った「見事な作品」に仕上がった訳だが、その実は死期を悟った賢治が過去と決別した自己を再生化し、対極に反転させた全くの作為と虚構によって作られた「虚像」に自らを思い入れた詩だったのである。

しかし、そんな戦前低い評価しか与えられなかった詩「雨ニモマケズ」は一変して戦後もてはやされる事になったが、浅薄な日本の民主主義そしてヒューマニズム(人間中心主義)は、その詩の中に隠された悔恨と祈りの根源にあるもの、それを読み取ることはなかった。その代りに皮相にも詩「雨ニモマケズ」の冒頭の数行のフレーズをもって戦後日本復興の応援歌とし、更には詩全体から日本が“手本”とする西洋人間中心主義社会(ヒューマニズム)が絶対的主題として掲げる「生きる意志」の描く“生の賛歌”を読み取ろうとしたのである。つまり、死に臨む賢治の隠された祈りの言葉に気づく事はなかったのである。では、賢治の真実、その魅力の真相は一体どこにあるのだろうか。宮沢賢治をして自己の独善的な自己中心的生活態度を悔恨、反省し、詩「雨ニモマケズ」を「書かしめた」もの、それは彼の胸の奥深くに抱かれた日本文化の自性(本心)を成す利他的な「生きていることの申し訳なさ」という思い、実存的内省である。今、死期にのぞみ、家族に対して「迷惑と心配」ばかりかけ生きてきた自らの人生を省りみてあらためて湧き起る他者に対しての「生きていることの申し訳なさ」という思い、それはすぐれて他律する利他的な思いであり、西洋人間中心主義社会の人間からみれば精神的弱さとしかみなされない極めて日本的な思いである。そして、それはまさしく賢治の場合、西欧のヒューマニズムによって、お墨つきを与えられた「農民啓もうの聖者」賢治にあるのではなく、日本の世俗的「高等遊民」賢治の側にあるのである。つまり詩「雨ニモマケズ」を書かしめた「高等遊民」賢治が抱く利他的な「生きていることの申し訳なさ」という思いこそが宮沢賢治の魅力の真のテーマとなるべきものなのだ。しかし、日本人はともかく、戦後日本の民主主義、そしてヒューマニズムが作り出した迷もうする賢治像とは無縁であり、ステレオタイプの先入観を持っていないと思われる外国人にあっても賢治の真の魅力はなかなか理解されにくいもののようだ。中国人で東京の法政大学で教べんを取る日本研究家の王敏氏は中国に賢治の作品を広く翻訳紹介しているが、次のように述べている。「私はいろいろな機会に賢治の魅力を語ってきた。しかし、どこか中国人にすんなり理解できないところがあることにも気がついていた。例えば私の好きな「よだかの星」では鳥のよだかが虫を殺して食べていることを悔い、死を覚悟しながら空高く舞いあがる、星になったのである。「烏の北斗星」では主人公の烏の大尉が敵の山烏と戦う直前、苦しみ悩む。悪いと決めつけた敵にちがいないのに何故悩むのか、———中国人はまず首をかしげる。『死者を鞭打つ』行為をとくに異常に思わないのが中国的である。賢治の作品を読んで『虫は鳥からすれば食べられる為にある』『敵の山鳥を殺さなければ自分が殺される』と中国人は思う(朝日新聞1999年9月22日)」

ここで浮かびあがるのが宮沢賢治の、そして日本文化の自性にみる「生きていることの申し訳なさ」という思い実存的内省、そしてそれが共有された時に生まれる「共生共死」という反ヒューマニズム、反儒教的実存なのだが、王敏氏はこれに気づいていない。虫を食さなければ一時たりとも存在しえない自分、生を存続させる為には今ここで敵を殺さなければならない自分、しかしここに実存する自分は「生きていることの申し訳なさ」を思う事実存在的自分であり、自分が「生きる」為に選択した手段、行為は「人間」の名において正当化されると考える本質的存在の自分ではない。詩「雨ニモマケズ」を称賛して止まないヒューマニスト達が見落としている宮沢賢治の真の魅力はこの事実存在的自分にあるのである。では、それを王敏氏が言及していた「烏の北斗星」の最後の場面に見てみよう。「わたくしが、この戦いに勝つことがいいのか、山烏の勝つ方がいいのか、それはわたくしにはわかりません。みんなあなたのお考え通りです。わたくしはわたくしにきまったように力一ぱいたたかいます。みんなみんなあなたのお考え通りです」。そして戦い終り、山烏を葬りながら「ああマヂェル様どうか憎むことのできない敵を殺さないでいいように早くこの世界がなりますように、その為ならばわたしのからだなど何べん引裂れてもかまいません」と祈る。王敏氏は勿論のことだが、西洋人読者においてもこのくだりを読んで、すんなり理解できないもどかしさを感ずるに相違ない。確かに、全体を貫くテーマは人間愛、相互愛のようにも読みとれる。キリスト教徒であれば聖書の「汝等の仇を愛し、汝等を責むる者の為に祈れ」の言葉を思い浮かべるだろう。しかし、それにしても彼等はこの場面に納得のいかない、腑に落ちない思いが残る筈だ。

それは自らの「生きる意志」を放棄したとも思える「憎むことができない敵を殺さないでいいように早くこの世界がなりますように、その為ならばわたしのからだなど何べん引き裂れてもかまいません」の言葉であろう。

人間は人間という関係性の中にあって、自らの「生きる意志」により自立している矛盾した存在である。従って当然ながら自らの自立に敵対するものは憎かろう。そんな憎まれてしかるべき対象である敵を殺さないでいいように、憎しみを越えた愛を仲立ちにした世界になりますようになら訳るが、それ以前に、そもそも自分はどのようになろうとも相手の敵を「憎むことができない」とは一体どういうことか、それが解らないのである。つまり、西洋のヒューマニズムにしても、中国の「修己治人」の儒教にしても、初めに主語としてあるのは自律した自分であるが、ここには主語としての自分そのものが存在しないのである。王敏氏を当惑させる疑問がここにある。

では、その疑問の答となるものは何か。それは、「高等遊民」賢治の内に奥する「生きていることの申し訳なさ」という思い、実存的内省にその答があるのである。つまり、そこには「生きていることの申し訳なさ」を思う自分、そして他律する同様の思いを持った敵がいるのであり、こうした肯定的そして他律的関係にある自分と敵との間には、キリスト教でいう所の否定的構造を持つ愛は成立しない。つまり、「勝者さもなくば敗者である自分は敗者さもなくば勝者である敵を憎しみを越えて愛する」のではない。

そこには目の前の敵のみならず全ての存在に対して自らが「生きていることの申し訳なさ(実存的内省)を思う(ここには主語としての自立した勝者、敗者は存在しない)」が故に憎むことができない相手を肯定する利他的な自分がいるのである。主人公の大尉と敵対する烏との間には西洋でいう否定性を伴う人間愛は成立しない。そこには矛盾する二律背叛の克服としての人間愛が声高に叫ぶ「共生共存」はなく、あるのは肯定された互いの他律する実存的内省により織りなされて生まれる生死を越えた利他的な「共生共死」である。言うなれば「生きていることの申し訳なさ」という思い、実存的内省を介し、生と死を「生死一相」の秩序としてきた日本文化の自性(本心)に生まれたものが「共生共死」であり、「生きる意志」による自立する生に絶対的価値を認めることが不断に要求される西洋キリスト教人間社会に生まれたものが、否定的構造を持つ愛を仲立ちとした「共生共存」である。

中国人の王敏氏が宮沢賢治にひかれ、翻訳紹介を思いたったのは、「賢治の“共に生きる”生き方は中国人にも理解しやすいと思った」からだそうだが、実は賢治にあるのは王敏氏が思い描く「共生共存」ではなく、「共生共死」であり、ここに王敏氏を「当惑」させる真の原因があったのである。

王敏氏は「満開の桜は美しい。どこの国の人もそう思う。ところが日本人は散る桜にも美を見い出し『あはれ』を歌に詠んできた」といっている。しかし、これに対し、「共生共存」を唱え、生は善であり、死は悪と断ずる二律不存の人間達は、満開の桜に迷うことなく「生きる意志」による“生の躍動美”をみることだろう。そして散りゆく桜には“敗者”への少なからぬ侮べつを感じるだろう(王敏氏も言うように「死者を鞭打つ」行為を特に異常と思わない儒教国の中国人、岳飛廟の岳飛の前にひざまずく“敗者”秦桧の夫婦像にツバを吐きかける人は今も後を絶たないそうである)。しかし、日本人の自性はそこに「生きていることの申し訳なさ」を思い、共に生き、共に死にゆく今ある自分と桜に、他律する利他的な勝者、敗者を越えた「共生共死」の思いを託すのである。つまり、日本人はそれを西洋人、中国人のように断定、説明された光景、風景として見ているのではなく、情景に描き直し見ているのである。

「共生共存」は互いする人間側から一方的に観察される光景、風景であるが、「共生共死」は彼我の「言葉」を必要としない無言を介して伝え及ぶ「会話」によって描かれる情景である。宮沢賢治はその死に臨むに際し、あらためてよび起された日本人の自性(本心)である実存的内省のもと、救いようのない過去の我がままな俗物的生活態度、そして成熟しえていない脆弱な精神性を、今ここに絶ち切り、それを反転させ、思い望んだ理想の「虚像」を再生した新たな人間の自分像として描きだそうとしたのである。

そんな賢治が描いた「虚像」に吉本隆明は、「偉大な魂の宗教的境地」を見い出し賞讃しているのだが、すでに自らが「聖者」ではなく俗人俗物である事を明確に自覚している賢治にしてみれば、それは本実見当違いもいいところで、その評価は迷惑以外の何物でもないだろう。詩「雨ニモマケズ」を読みかえしてみれば分かるように、それはおおよそ軽々しくも白々しいヒューマニズム(人間中心主義)的現実感のない思わせぶりの詩であるが、これが宮沢賢治の書いた、そして手帳につづられていたというドラマチックなものであったという事によってその評価が全く違ったものになったのである。詩「雨ニモマケズ」は決して文学的評価の高いものではなく、失敗作だといえる。しかし、その根底に透かしみえる賢治の深いざん悔と悔恨は、まぎれのない真実であると同時に彼をして詩「雨ニモマケズ」を「書かしめたもの」は、他でもない、日本文化の自性(本心)に秘められた利他的な実存的内省(「生きていることの申し訳なさ」という思い)であるという事だけは確かなのである。

宮沢賢治の実像そして真の魅力は、作品の中に隠された悔恨と再生への祈り、そして自らの性格の脆弱さ、おぞましさを悟り、それを自覚することによってあらためて見えてくる実存的内省、そしてそれが紡ぎ出す「共生共死」を想いみることによって初めてみえてくるのである。