小説『空席のある教室』2

 かつて私自身の席が教室の中で空席になっていたことがあった。小学四年の秋頃のことだ。
 そのひと月ばかり、私のクラスでは、そこに不在であるはずの私が形成する、埋め合わせられることのない一つの空白が存在していた、のだろうと思う。思うには思うのだがしかし、それを私としてたしかなことだと言えないのは、もちろん私自身がそれをこの目で見たわけではないからなのだが。

 そのひと月ほどの間、私は日中の大半を自室(と言っても、私だけの個室というわけではない。団地の2DKに私と両親、それに父方の祖母と暮らす狭苦しい住居で、DKにつながる居間替わりの部屋には、主に祖母が寝起きしていた。そのもう一方の居室に、私と両親が布団を重ねるようにして寝ていたのだったが、一応そこを私は、自分の部屋として使っていたわけだった)で、ひとりラジオを聞いて過ごしていた。
 私は殊に、NHK第2で放送されていた、世界の気象現況を聞くのが楽しみだった。ウラジオストクだのリオデジャネイロだのといった、なんだか不思議な名前を持った町の天気が、日本と同じように晴れとか雨とか曇りとかであるのが妙に可笑しかった。
 パートに出ている母が用意していった昼食を、私と同様に日中の大半をひとり居間でテレビを見て過ごしていた祖母と一緒になって食べ、夜には仕事から帰った母や父もともに夕食を摂り、それから両親と同じ部屋に寝て、朝になれば7時にセットした自分用の目覚まし時計の音で起きた。それ以前とほとんど変わらない段取りの生活を、私はそのひと月の間も送っていた。ただ、学校に行かないことを除いては。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 その期間中に何度か、私は催眠療法の教室なるところに連れていかれた。通勤電車に貼られた広告を見かけた父が、早々に申し込んできたようだった。
 仕事を休んだ母と二人連れ立って、バスと電車を乗り継いで一時間ほどの街にあるマンションの一室に、私は週に一度か二度通った。昼間から黒のカーテンを閉め切った暗い施療室で、担当となった三十歳前後の若い男の療法士に、私は毎回一時間程度の治療を受けた。
 あなたのみぎうでがあ、だんだん、だあんだんおもたく、おもたあくなっていきまあす。
 珍妙な抑揚をつけた言い回しで私に呼びかける、その若い療法士の声に合わせて、私は右腕をだらんとさせた。私は彼の熱意に応えようとして、何を言われても彼の言う通りに動いた。よくテレビなどで、催眠術と称して紹介されているような、自分の意に反して身体が勝手に動くということは、私には一度もなかった。しかし「フリをする」ということもある意味では、一種の催眠状態にあるのだったかもしれない。それはもう、今となってはよくわからない。
 その教室には、私が再び学校に通うようになってからも何度か行った。前払いで契約した、10回セット15万円のチケットがまだ何回分か余っていたのだ。私は毎回大体同じようなことを、その若い療法士との間でやり取りして帰った。
 また、その年末には、教室の院長が主催する講習会に、わざわざ東京まで出かけて行った。それも一応パッケージに含まれていたので、フイにするのももったいないから、という理由だけだった。
 講習会では、いつも療法士と二人でやっているようなことを、そこに集まった十数人の人たち(子供と言えるのは私はじめニ、三人くらいで、後はほとんど中年女性や年寄りばかりだった)と一緒に、蛍光灯が煌々とする会議室で行なった。
 院長直々の治療経験者だという、中学生くらいの男子が出てきて、円周率の暗唱を長々とみんなの前で披露した。君も彼のようになれるよ、と、院長はなぜか私の方を見ながら誇らしそうに言った。しかし私は、それきりその教室に行くことはなくなった。余っていたチケットは、その講習会に行ってなんとか使い切ることができたので。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 そのひと月の間、当時の私の担任教員が、何度も私の家を訪ねてきたが、私は彼に会うことはしなかった。
 四十ちょっと過ぎの、青森出身で素朴な人柄の男性教員は、私のクラスの担任になる以前から子供たちに人気なことで知られていた。私も、それまではこれといって彼と交流する機会もなかったけれど、しかしけっして悪い印象は持っていたわけではなかった。
 ただ、そのひと月丸々連続欠席する以前からすでに、ポツポツと休みがちになっていた私を、ある日曜日に学校へ一人呼び出し、なぜ学校に来ないのか?と、彼は語気強く詰問してきたことがあった。
 私はそのとき、彼の私について語る言葉や、私の私自身について知りうる言葉に変えられるようなもの以外の何かが、そこにはあるような気がしていて、彼の問いにうまく答えられず黙りこくっていると、業を煮やしたように彼は、黒板に『緘黙』という字を強い筆圧で書いて(その通りに彼は漢字で書いたのだった)、その文字をバン!と手の平で叩き、お前はこういう子供だ、と私に言ったのだった。
 言いたいことがあるのならはっきり言わないと相手に伝わらないぞ、と彼は私に言った。それはそうかもしれない、と私も思った。何も言いたいことがないのか?とも彼は言った。私はけっして、言いたいことがないから黙っていたのではなかった。逆だ。ありすぎたのだ、きっと。
 しかしそれは、担任教員の考えているようなことどころか、私自身でさえ思ってもみないようなことで溢れている気が、私にはしていた。そしてそれが、『このこと』にどうつながっているのか、私にもよくわからなかった。それでもそれが、『このことにつながって溢れ出てきた言葉』であるのはたしかなのだ、と私は思っていた。
 ただ私には、それを一つの考えにつなげて語る力がなかった。逆に、彼が考えているようなことに合わせた言葉で、私が何か言おうとするならば、それは逆になんだか私にとって、空々しいことであるようにも思えた。その言葉に合わせたウソを作ってしまう気が私はした。それだけではないのだ、と、そのときの私は言いたかったのだろう。しかし、『だけじゃないこと』を表現する言葉を、私は見つけることができなかったのだった。そのジレンマが、私自身にもじれったかった。だから私は黙っていた。
 ところが、そのような私を見て彼は、この子供はきっと何も言いたいことがないのだ、と受け取ったようだった。あなたには何も言うことはない。私の沈黙は、自分に対してそう語っているものなのだ、と彼はきっとそう受け取ったのだろう、と私は思った。そして、この子は『そういう子供』なのだ、と、彼は私をみなしたわけだった。
 それからもしばらくは、学校に行ったり行かなかったりの同じような日々が続いて、そしてある日私は、ピタリと学校に行かなくなった。

 いつもだいたい夕方頃、私の母が仕事から帰宅するのを見計らって、担任教員は私の家を訪れ、玄関先で10分くらい、母と二人で、私には届かないくらいにトーンを落とした声で何かやり取りしているのを、私は部屋の襖ごしに聞いていた。
 そんなことが幾度か繰り返されたある日、彼はいつものように私の家にやって来て、しかしその日は、母との会話もそこそこに、いきなり私のいる部屋の戸をガラッと開け、私の腕を強く掴んで引きずり出そうとしてきた。
 玄関から団地の外廊下、さらに階段へと、寝転がったまま足をジタバタと蹴り出し、必死に抵抗しようとする私を、担任教員は最終的に抱え上げるようにして、自分の車に押し込んだ。車に乗せられた途端におとなしくなった私を、彼はそのまま自宅へと連れて行った。
 彼の住む、小ぢんまりとした家族向けの集合住宅に到着した頃には、ちょうど夕食どきになっていたので、彼の妻が作った食事を、私は彼の家族と一緒に食べることになった。その晩の献立は、鰹節のかかった大根の煮付けとワカメの味噌汁だった。正直、大して美味くはなかった。他所の家の飯とはこんな程度のものなのか、と思ったが、しかし私は出された食物を完食した。残さずに食べて偉いわね、と担任教員の妻が私に言った。それに対して私は何も言わず、ちょっと卑屈にお追従笑いを返しただけだった。
 小学一年だという、彼らの一人娘と少し仲良くなって、彼女とトランプで遊んだりした後、いつもより少し早い時間に、私たちは床に就いた。赤の他人の家に泊まるのがそれがはじめてだった私は、なかなか寝付けず何度もトイレに起きた。
 そうこうしているうちに朝となり、私は再び担任教員の車に乗せられて、学校へと向かった。
 担任とともに教室に入ると、クラスメイトたちが一斉に、私に向けて拍手をしてきた。私はその乾いた響きを、なんだかボンヤリと遠くに聞いていた。それから、ひと月ばかり空席になっていた自分の席に着き、その日一日を過ごした。なんだかとてもフワッとした一日だった。いつもと違う一日、いつもと違う生活の中に、私は今いるのだ、というように思えた。私は、無性にラジオが聞きたくなっていた。今日のウラジオストクの天気が知りたかった。
 結局私は、それから再び、毎日学校へと通うようになっていった。
 その担任教員は、翌年三月には他校へ転任していった。もしかしたら、『させられた』のかもしれない。当時は、学校に出てこない子供が学年に一人いるかいないか、という時代だった。そんな時分に、そういう子供を自分のクラスに抱えるというのは、おそらくそれだけで教員としては、少なからず失点の評価になったのかもしれなかった。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 それから同じクラスのまま持ち上がった小学五、六年の二年間、私のあの空白期間について、クラスメイトとの間で話題に上ることはなかった。
 ただ一度、六年生の秋のとある日に、その当時の私たちの担任が出張で不在となり、他学年で教務主任をしていた中年の男性教員が、一日だけ私たちの授業を受け持ったことがあり、そのときにある出来事があった。

 短めの髪をワックスか何かでペタッと七三になでつけ、細く筋肉質に締まった身体に張り付くようなジャージをいつも着用していたその教務主任の男性教員が、私は以前からどうにも苦手だった。
 どうやら、私と同じように感じていた者も多かったようで、その反動か、前述のような格好をしながら妙に身体をくねらせるようなその歩き方や、◯◯だねえ、などと甲高い声色で語尾を上げるその話し方のクセは、子供たちによるモノマネのネタになっていたようだった。
 五年生の頃、ある日の下校前の校内清掃のときだった。たまたま通りかかった彼に、私は、自身には何の身に覚えもないことで、ずいぶんネチネチと叱責を受けたことがあった。私が壁に雑巾を投げつけて遊んでいた、と彼は言うのだった。私は、そんなことはしていない、と抗弁したかったが、有無を言わせない彼の威圧感に、ただ黙ってうつむいていた。すると彼は、私の太ももをバシンと平手で打ち、そしてどういうわけか鼻歌交じりでそこから立ち去っていった。
 それ以来私は、校内で彼の姿を見かけるたびに、目を伏せてなるべく彼から遠ざかろうと気をつけていた。それでも時折、彼の粘り着くような視線に私は捕捉され、彼は硬直した私に対して、しゃんとしろだのハキハキ話せだの、何とも漠然とした理由で小言を浴びせてきたものだった。要は私は、彼に一種の餌食として、完全に目をつけられてしまったわけだ。私を見つけたときに、どういうわけだかニヤリとする彼の、狡猾な蛇のような目つきは、今も夢にまで出てくることがある。

 その日の国語の授業は、教科書に載っていた外国の児童小説が題材だった。
 その話の主人公である少年にはどこかものぐさな気質があって、何かと言えば学校をサボろうとするようなキャラクターだった。そのようなくだりを朗読した後、教員は呆れたような笑いを口の端っこに浮かべながら、日本にも似たような子供がいるねえ、と例の口調で言った。すると、クラスの何人かが私の方を見て、教員と同じような薄ら笑いを浮かべた。その視線に私は、不意に胸を抉られるような思いがした。
 彼らは、普段おくびにも出さなかったのに、実は、そのように私のことを見ていたのか。私は、かつて黒板に『緘黙』と大書されたときのことを思い出した。
 そうだ。私は、『そのような子供』なのだ。あのときの担任にとってのみならず、今ここにいるクラスメイトたちにとってもそうなのだ。思わず突きつけられた事実に、私は衝撃を受け、打ちのめされる思いがした。
 しかしそれは、そのような彼らの私に対する見方が私自身に覆い被せられている、あるいは貼り付けられているということであるよりも、むしろ私自身の方が、そのような彼らの視線の渦の中に吸い寄せられ、呑み込まれていくかのような感覚で、私はすっかり、その感覚に捕らえられてしまった。
 私はたしかに何か、クラスメイトたちに裏切られた気持ちになったのだが、しかしそれ以上に、彼らの隠されていた心というものに、言いようのない恐怖を感じたのだった。私を呑み込もうとしているのは、まさしくそのような、私には見えないところで黒々と渦を巻く、彼らの心である気がした。
 そんなようなことがあって、私は件の教員がますます嫌いになった。と同時に、クラスメイトたちへの警戒心もまた強まっていった。
 彼らに自分からは、けっしてこれ以上のエサを与えてはいけない、スキを見せてはいけない。もはや私は、それまでのように呑気にあけすけに、彼らとは対すること接することはできなくなった。
 そしてそのまま、私は小学校の卒業を迎えた。

(つづく)

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