小説『空席のある教室』4

 六月に入って、私たちのクラスでもいじめがはじまった。
 Kというその男子生徒も、やはり私とは別の小学校の出身だった。テレビドラマで有名になった放浪画家に雰囲気がとてもよく似ていたので、あだ名もそのままその名前を取ってつけられていた。背が高く、身体つきもすっかり大人の男のものになっていた彼だったが、しかし誰に何をされても、ずっと幼児のように笑ったままの表情でいるのが特徴的だった。少し前にせり出した前歯をニッと剥き出しにした顔で、彼はいつも笑っていた。たとえ涙を流して泣いているときにでも、いつもと同じ顔をして、変わらず彼は笑っていた。それ以外の表情をした彼を、今も私は思い出せない。
 出席番号が4番だったKは、クラス替えしたての頃は私のすぐ後ろの席に座っていた。一目で多分そういう子供なのかな?とも思ったが、しかしそういうことで人を区別してはいけないのだと思い、私はなるべく彼に、優し気な素振りと口調で話しかけるようにしていた。それに対して彼は笑った顔のまま、何でも受け答えしてくれた。
 どちらかというと彼は、私にとって話しやすい人だった。ある意味当然なのかもしれなかったが、彼の言葉には裏表がなかった。だから私は、彼にそのままを話し、彼の話をそのままに聞いた。

 そんなあるとき、私はたまたま彼と一緒に下校することになった。
 通学路の途中で、私たちは同じクラスの男子数人と出くわした。そこにいた彼らは、やはり皆Kと同じ小学校だった者たちだった。
 どうやら待ち伏せをしていたらしい彼らは、K一人を手招きして自分らの輪の中に呼び寄せた。一方私に対しては、お前はもうここでいいよ、と追い払うようにした。彼らはKを連れて、通学路を外れてどこかへ行ってしまい、残された私は、ただ黙って彼らを見送り、そのまま一人で家路を辿った。
 それからほどなくして席替えがあり、Kと離ればなれになった私は、次第に彼と個人的に会話する機会もなくなった。

 後にあの下校時の出来事から推測すると、彼らのKに対する行為は、実際にはおそらくその小学校時代から、水面下で行われていたものだったのかもしれないと私には考えられた。そこへ来て、この中学二年のクラスでKとはじめて一緒になった、私の出身小学校でボス格だったグループが加わることで事態は苛烈化し、いよいよこの時期になって表面に出てきた、ということだったのだろう。
 新しいクラスになって、まだまだ流動的だった人間関係と、そのパワーバランスが、ある一定の方向に向かってまとまった状態に形成され、そしてクラス全体をも巻き込んで、互いに拘束し合うように一定に固着していったのが、まさしくこの頃だったのであり、その象徴と、一種の供物として浮かび上がってきたのが、要するにKに対するいじめ行為だったのだ、というように私には思われる。もちろん私自身においても、そのような力関係からけっして免れていたわけではない、ということは一言付け加えておく。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 そんな梅雨空のある日、屋外での体育が中止となり、加えて担当の教員に所用があって、授業がまるまる自習になった私たちは、教室で、成長期に摂取するべき食物についての作文を書かされていた。しかし誰もそんな退屈なテーマに真面目に取り組む者はいなかった。各々おざなりに保健の教科書を丸写しにするようにして原稿用紙一枚に文字を埋めた後、それぞれ周囲の者らと私語を交わしていた。
 やがて教室の後ろの方で、Kを囲むようにして、このところ彼らの間でトレンドになっているらしかった、入り乱れてもみ合うようなスタイルのプロレスごっこがはじまった。バトルロイヤルなどと称してはいるが、とどのつまり、集団でKのことを小突き回すだけの古典的なものだ。いたぶられているのはK一人であるのは一目瞭然だった。まるでラグビーボールのパスを回すように、連中の間で押され投げられしているKは、やめろよう、などと言いながら、やはり笑っていた。
 私は彼らから少し離れたところで、前の席にいる男子と、土曜の夕方にやっているロボットアニメの話に興じていた。教室の後ろで起こる騒がしさに、私は何も気にとめることはなかった。すでに私には、Kに対する個人的な関心はなかった。彼はもう、単に同じ教室にいる人間の一人にすぎなかった。もはや日常化していた、連中のKに対する行為も、私にとってはただの風景になりつつあった。こうして、他の者と雑談していることと、Kをめぐることのそれと、一体どこにどう違う意味を持つものか、私は区別をつけて考えることはなかった。
 思うにそれらのことというのは、ある日突然、他とは違う、それとしての意味を持って私たちの眼前に現れてくるわけではないのだろう。日常の中からいつの間にか枝分かれして、知らぬ間にそれとしての意味を持つのだ。ゆえに、これはきっと言い訳になるのだろうが、それらの区別をつけることができなかった私は、もちろんそのときも、彼らのKに対する行為を、止めに入る気には全くならなかった。

 突然、痛い!と、Kらしき大きな声が上がり、私は振り返った。いつの間にかKへの行為はエスカレートしていて、Kは床に倒され、パンツをズボンごと膝まで引き摺り降ろされていた。局部が露出し、それに対して女子たちは、いや!と拒否的な声を上げながらも、興味津々にチラチラと横目で見ていた。私は私で、Kの股間に生い茂る陰毛に、私なりの理由があって思わぬ衝撃を受けていた。そして、Kをいじめている連中は、まさにその彼の陰毛を無慈悲に毟り取るようにしながら、ゲラゲラと笑い転げ合っていたのだった。
 Kは無理やりに毛を引っ張られる痛みに顔を歪め、時折堪えきれず声を上げながら、それでもなお、やめろよう、と弱々しく言いつつも、まるで抵抗の姿勢を示さずに、いつものように笑っていた。私は、その異様な光景に言いようのない恐怖をおぼえ、それから目を背けた。
 騒ぎを聞きつけて、隣のクラスで授業をしていた教員が、何をしているんだ、と私たちの教室のドアをガラリと開けた。Kをいじめていた連中は、さして慌てた素振りもなく、早くしまえ!とKを急き立てながら、その身繕いの壁になるようにして、何でもありませえん、などと教員に対してごまかすように笑った。それでも不審を解かずに、教員が彼らに近寄ってきた頃には、Kもすっかりズボンを履いて、あたかも彼らの中の一人として、同じように笑っていた。
 ちゃんと自習していろ!と彼らのことを怒鳴りつけ、肩透かしをくらった形のその教員は、ドアを勢いよくピシャンと閉めて教室から去っていった。苦笑のような含み笑いのような顔でそれを見送った彼らは、Kと共にそれぞれの席に散っていった。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 午後のホームルーム終わりから下校までの間など、担任教員らの眼が一瞬なくなる時間帯を利用して、Kに対する暴力的ないじめはその後も教室の中で引き続いていた。もはや、以前に私が遭遇したときのように、帰り道にちょっと脇へ入って、誰も見ていないところでこっそりと、などという、姑息な隠蔽を図ろうという考えすら、彼らいじめ集団にはないようだった。
 あるいはそれは、クラスの他の者たちに対して、わざとパフォーマンス的に見せていたものだったのかもしれない。その証拠にというべきか、Kへのいじめが催されるときは、生徒たちの下校率も、特に申し合わせたわけでもなく低くなっているようだった。何となく帰りづらいのと興味本位と、その両方が理由だったのだろう。

 一方、女子にもKと似たタイプの生徒がいた。
 彼女はKとは違い、その顔に表情を浮かべることはほとんどなかった。時折こもった低い声で短い言葉を発する以外に、誰かと話すこともあまりなかった。
 青白い顔で、ただ黙ってボンヤリと周りに目をやる彼女を、クラスの生徒たちは陰で『ぬりかべ』と呼んでいた。後に、アニメ映画に『カオナシ』というキャラクターが登場してきたのを見て、私はふと彼女のことを思い出したものだった。
 そんな彼女がその時点までに、しかし何か表立ったいじめの標的になることはなかったのだった。それでも、クラスの生徒たちから彼女が忌避されていたのは明らかだった。『ぬりかべ』はK以上に、私たちにとってアンタッチャブルな存在であるということが、クラスの暗黙の了解事項になっているのだと言えた。
 それでも義侠心のある(あるいは皮肉な言い方をすれば、そんな自らの義侠心に自分自身で酔うことのできる気質の)、クラスのリーダー格の一部の女子たちが、教室移動の折などにまめまめしく彼女の面倒をみていたようではあった。しかしそれに対して何か、『ぬりかべ』の方からはかばかしい反応が返ってくるわけでもなく、その報われない奉仕に彼女たちも、次第に興ざめしつつあるらしい様子が、私にも見て取れた。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 その日のいじめ集団の行動は、最初からトップギアだった。Kの白シャツを引きちぎるように脱がせ、ベルトを強引に引き抜いてズボンをずり下げると、あっという間に彼らはKのことを全裸にしてしまった。
 柔道の払腰をかけるようにしてKを教室の床に仰向けに引き倒し、むき出しになったKの局部を手でしごき始めた。反応して形を変えるKの局部を見て、いじめ集団の連中は下卑た笑い声を上げる。遠巻きに事の成り行きを見守る他の生徒たちは、さすがにこれはむごいのではないか、と内心で思いながら、一方ではこの後の展開に、どこかで期待している風でもあった。
 いじめ集団の一人が、教室の端にいた『ぬりかべ』のことを発見し、こっちへこい、と強く手招きした。しかし一向に動こうとしない『ぬりかべ』に業を煮やしたように、彼女のブラウスの襟首を指先でつまむようにして教室の後ろへと引きずって来、横たわるKのそばに放り投げた。
 なあ、こいつらセックスさせようぜ、と彼らのうちの誰かが言った。すると他の者らも、セックスさせよう!妊娠させよう!と囃すように呼応した。
 一気にヒートアップした連中は、Kの股間をしごく動きを加速させ、同時に『ぬりかべ』の服を脱がそうと、そのブラウスの胸元に手をかけようとした。
 すると『ぬりかべ』は、平素の様子からは信じられないほど、力強くその者の手を払い除け、両腕を抱え込むように身を固くしながら、ズズズッと素早い動きで後ずさりした。いじめ集団の連中のみならず、その周囲を取り巻く他の生徒たちも、彼女の常ならぬ様子に呆気にとられ、誰もが身動きを止め静まり返った。やがて『ぬりかべ』は、天井を見上げるようにしながら、おおおう、おおおう、と低い掠れた声で泣き始めた。
 静かな教室に響くその、まるで野生動物が悲しげに唸っているかのような『ぬりかべ』の泣き声を耳にして、そこでスッと憑き物が落ちたかのように、いじめ集団はそこまでの行為をいっさい停止させ、白けた様子でその場を離れてそれぞれに散っていった。Kもまた、あたかも自分は事の当事者ではなかったかのように、腰の引けた様子で、あたりに散乱した服をただ黙ってそそくさと身につけ直していた。

 この出来事をピークにして、Kに対する暴力的な行為は、むしろ表立ったものとしては減少していったかのように、私には見えた。もちろん、陰では依然として継続していたのだろうが、少なくとも私たちの見える範囲では、せいぜい悪ふざけでいじる、という程度には収まっているかに思えた。
 一方『ぬりかべ』に対しては、この件以来いっそう誰も、やむをえない必要最低限の事柄以上には、積極的に彼女に関わろうとする者はいなくなった。必然的に彼女は、いながらにしてこのクラスにおいて、あの空席と同等の、『無』なる存在になっていったわけだった。
 あの頃、『ぬりかべ』自身の心の中では、一体どのようなことが起こっていたのか、私にはわからない。しかし、あれから時を重ねた今となっては、たとえどのような意味においても、それを過大あるいは過小なこととして捉えようとは、私は思わない。ただ言えるとすれば、その『過大にも過小にも捉えない』という観点さえ、あの当時の私たちはもち合わせていなかったということだ。無とみなす、ということはまさしくそういうことであろうと、私は考える。

(つづく)

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