小説『空席のある教室』8

 二学期が終わりへと近づくにつれて、私の足はどんどん学校からは遠のいていった。それまで何とか維持しようと努めてきた、何事もない日々への配慮に対する意欲が、まさしく日毎に減退していっていることを、私自身でも感じられるようになっていた。そのようなことについて考えるのさえ虚しく私には思えてきていた。
 その頃の私はしばしば、朝、普通に登校するかのような体で家を出、しかしそのまま学校へは向かわずに、近くの駐輪場の陰に身を隠すようにして、しばらく時間をつぶした。そして母が仕事へ出かけた頃合いを見計らって家に戻り、欠席する旨をわざわざ自分で学校に電話して伝えると、自室にこもってマンガなどを読んで過ごしていた。
 欠席したことが母に発覚しないように、昼食はできるだけ摂るのをガマンし、自分は学校から帰宅後におやつをつまんだのだ、という芝居を自分自身に対して打って、午後の適当な時間にスナック菓子を食べて束の間空腹をしのいだ。そんな生活を私は、だいたい週二回程度のペースでしばらくの期間続けた。
 そういった日々の合間に、どうにかこうにか登校した折にも、自分は今、本当に体調が悪いのだ、というストーリーの辻褄を合わせるために、私は前にも増して頻繁に保健室へ行ったり、あるいは早退したりしていた。つまり私は、欠席しても登校しても、ほとんどあの教室にいる時間はなかった。無論、そんな私の行状を訝る教員や生徒も一部にいるようだったが、そんなことを気にしてかまっていられる心の余裕は、私にはもはやかけらも残っていなかった。どんなにチグハグであるように自分自身ですら思えても、私は、私のそのやり方を押し通した。それはもう、私にとって理屈抜きの最優先事項だった。
 だって、仕方ないじゃないか。私は心の中で繰り返しつぶやいた。こうしなければ、ここではもうやっていけないんだ。
 しかしどういうわけか、そんな私に対して陰で眉をひそめる様子をしながら、かといって特に表立って咎める者もなかったし、学校から家に何か確認等の連絡が入るようなこともなかった。きっと、誰もが私と同じように、そんな程度のつまらないことにかまっているヒマがなかったのだろう。

 年が明けると、私の欠席ペースは週三回となり、やがてあっという間に週四回になった。この頃には、保健室に行くと、また来たの…と、顔だけでなく実際に口に出して呆れたように言う養護教員の煩わしさに次第に足が遠のくようになり、そこからさらに早退の口実を考えるというのも面倒になって、ますます欠席への気持ちのハードルはどんどん低くなっていった。しかし、一週間丸々休んだときには、さすがに言い訳しなければならなくなり、インフルエンザにかかった、と言ってごまかした。周囲はその話にさして疑問も挟まず、そのまま受け入れた。ほら見ろ。要するに、誰も私にそれほどの関心などないのだ。
 書記の女子は、私がいないときに二人分の仕事を負担させられて、少し迷惑そうな様子だった。私が、彼女が書き起こしていたクラス会議のメモを整理する作業を手伝おうとすると、いいから、と、彼女は私の手をはねのけるようにさえぎった。私は少し傷ついたが、きっともうすでに彼女一人のやり方で成立してしまっているのだ、仕方がない、ジャマをしてはいけない、と自分自身に言い聞かせ手を引いた。
 Hがクラスのボスグループから直接的ないじめにあっているらしい様子を見て、私は少し衝撃を受けた。どうやらKは今や蚊帳の外に置かれているらしい。おそらく、ダルマ落としが一段飛ばされたというだけのことだろう、と私は思った。Tはと言えば、やはりボス連中のケツに如才なくくっついている様子だった。ああいう狡猾な立ち振る舞いが、Hは小学校時代からできないタチだった。結局、そういうところの差なのだろう、こういうことは。
 そんな風に、クラスの中でいろんなことが変わりはじめていた。私はブツ切りに垣間見るその状況の変化に、馴染むこともついていくことも出来なくなっていた。自分として何をするのが正解なのか、わからない。それを考える余力もなければ、関心そのものがない。ともかく、ここはもう本当に、自分の場所ではないのだということを、私はこういったことなどからも、現実のこととして感じていた。

 二月上旬のある日、またも数日連続して欠席した後に登校してみると、翌日の家庭科授業で調理実習があり、各自包丁とフライパンを用意しなければならないことを、私は急に知らされた。しかしもちろん、その知らせが急であったのは私だけだった。
 当時はまだテフロン加工のフライパンは普及しておらず、私の家にあるものも、鉄製の古びてサビが入ったものばかりだった。あんなもの、とてもではないが恥ずかしくて持ってこられない。また誰に何を言われるか、わかりはしない。この時点でもまだ私は心の片隅で、自分自身として何一つ目立つところを持たない『何もない人間』であろうとするプランに固執しており、この黒焦げのフライパンという躓きの石が、そのプランを破綻させてしまいはしないかと危惧していたのだった。
 私は思案した。どうしたらいいのだろう。しかし、次第にそういう思案自体が、私はだんだんバカらしくなってきた。
 一体そんなの、何のためなんだ。もう、ウンザリだ。
 私の頭の中で、真っ黒でボロボロのフライパンが手から滑り落ち、カラカラン、と床に転がり大きな音を立てた。その音を脳裏に聞き、そこで私の心は折れた。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 その朝私は、制服を着てカバンを担ぎ、登校することを装って家を出た。もちろん、フライパンは持っていなかった。それどころか、カバンには教科書もノートも、何も入れてはいなかった。
 空は重い灰色の雲に覆われ、今にも雨か雪が降り出しそうだった。とてもとても寒かった。
 私は、いつもの駐輪場には向かわなかった。もちろん、学校の方にも足を向かわせなかった。私は近くの停留所から、駅へ向かうバスに乗り込んだ。そして、ラッシュのピークにひしめく通勤客に紛れて、上りの電車の中に呑み込まれた。

 馴れない満員電車は、暖房と人いきれで圧倒されるような不快さだった。私はできるだけ遠くへ行きたいと考えてはいたが、あまり手持ちもなく、そしてあまりに気分が悪くなってきたので、結局、近隣の中核都市の駅で降りることにした。
 学生であることがバレないように、駅のトイレで制服の上着を脱いでカバンにしまい、薄手のセーター一枚に着替えた。真冬に外出するにはあまりに寒すぎる格好だったが、何か代わりになる上着を事前に用意しておく発想が、家を出るときの私にはまるで浮かばなかった。着の身着のままとはまさにこういうことだ。私はとにかく、どこかへ行きたいということしか考えていなかった。何の周到さもなかった。
 とりあえずの避難場所として目当てにしていた駅前デパートは、開店時間の10時にはまだだいぶ間があった。当時はまだ、街中にコンビニなどが多くあるような時代ではなかった。気軽に立ち寄れるところは何もない。
 ごった返す人波をかきわけて、しばらくの間私は、駅の周辺をぐるぐるとさまようように歩いた。次第にパラパラと氷雨が降ってきた。折りたたみの傘さえ持ってこなかったのを、私はとても悔やんだ。
 一体、私は何をしているのだろう?なぜこんなことになってしまったのだろうか?
 これから、どこへ行こうか?どこへ行けばいいのか?
 私には何もアテはなかった。ただただ少しだけでも、ここからあるいはあそこから遠くへと行きたかった。

 冷たい雨に打たれ、肩を震わせて街をふらふらと歩きながら、私は、私のいない私のクラス、あの教室の中の様子を思い浮かべた。おそらくその世界は、私がいなくても何の支障もなく動いているのだろう。Hはボス連中の言うなりにされ、『ぬりかべ』は一人黙ってうずくまるように席に座り、Yはもうすぐ最終回を迎える土曜日のロボットアニメの話をクラスの他の誰かとし、書記の女子は来週の予定を教室の後ろの黒板に板書していることだろう。そこに私がいなくても、何の問題もない。私自身ももうあの世界を、『私のクラス』であるという実感が持てなくなっていた。
 ならば、なぜ私は、あの世界にいるために、あんなに努力していたのだろうか?なぜあんなに私は、自分の身を削るようにしてでも、あの世界の中に自分自身の身を置こうと、執着していたのだろうか?
 また私は、あのとき担任が言っていた『普通のクラス』という言葉を思い出していた。
 普通とは、一体何だろう?
 私は、普通であろうと精一杯がんばった。精一杯、みんなと同じになろうとした。それは同時に、いつでも同じ、いつまでも同じ、ということだ。ヨコにもタテにも同じであること。そういう人間であることを私には、いや、私たちには求められているのだ、と私は信じた。だから私は、私自身としては何も特徴的なものを持たない、何もない人間であろうとすることに尽くした。
 しかし、やればやるほどそれは、どこにもいない人間であるように私には思えた。私はそういう人間に、いつまでも追いつくことができなかった。どこにもいない人間を追い求めて、何もない人間であろうとした私は、いつの間にか普通ではなくなっていた。それが『普通である』と言われていることが、どうにも普通であるようには私には思えなくなっていた。
 もし私が私としての普通に、私としての私の自然のままにふるまえば、私はきっと、あの世界にはいられない。あの世界は、自然を否定してでなければ普通ではいられない。でも、あたかもそれが自然なことであるかのように、普通のことであるかのような顔をして、私自身としては何もない人間であろうとすることには、私はもう疲れてしまった。たとえそれがうまくいったとしても、それで私は、私たちは、普通の人間になれるなどとは、私にはもはや思えなかった。とどのつまりはあの無気力で破綻した世界の、下衆で俗物な住人の一人になるか、あるいは、いながらにして不在者であるかのようにみなされるだけ。いずれにしても、私は私自身を損なうことになる。それが『普通』なのか?そもそも、あの世界自体、普通なのか?
 もう、疲れた。私は、あらためてそう思った。
 結局、みんな空席なんだ。誰もいない、何も起こらない、時間の止まった教室。それが、理想のクラスなのだ。私は、私たちは、本当は誰も、そこにいることを求められてなんかいない。
 冷たい雨で、薄いアクリルのセーターもしっとり濡れていた。頭がだんだんボーッとしてきた。鼻水もさっきからひっきりなしに垂れてきている。限界だ。とても、デパートの開店時間まで耐えられそうにない。
 私は駅に引き返すことにした。

 冷えた身体を引きずるようにして、ようやく駅にたどり着いた私は、ホームのベンチにうなだれるようにして座り込んだ。私は凍え切り、そして本当に疲れ切っていた。そのままの状態で、何本か電車をやり過ごした。通りすがる駅員が私の様子を不審げに見ていたことに私は気づいていた。
 そろそろ、ここに居続けることもできない。もう、決めなければ。私は思った。
 次の電車がまもなく到着するとアナウンスがあった。私は立ち上がり、ホームの端へと歩いていった。警笛を鳴らし、電車が入って来るのが見えた。まるでスローモーションのようだった。
 ドアが開き、私は下り方面の電車に乗り込んだ。車内は空いており、暖房がとても暖かかった。
 早く家に帰りたい。
 それが、私の一番自然な気持ちだった。

(つづく)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?