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「おもかげ復元師」 笹原留似子

「泣くことが、大事。泣けることが、必要です。そのために、復元があるのです。」



「おもかげ復元師」 笹原留似子



納棺師という職業。


亡くなられた人を見送る現場で、故人を安らかな表情にお戻しし、お身体を清らかにして仏衣をととのえ、棺にお納めする。


僕は映画の「おくりびと」で、この職業を知りました。


僕は、亡くなったおばあちゃんの最後の顔を覚えています。


亡くなった父や、おじさん、おばさんの最後の顔を忘れられません。


大切な人との最後のお別れ、最後に見た顔はずっと、ずっと、まぶたの奥深く、心のいちばん奥底から、何十年経っても鮮明に甦ってきます。


もしも、最後のお別れに


苦しそうな顔をしていたら


顔色が悪かったら


身体がゆがんでいたら


臭いがきつかったら


故人のことを思い出すたびに、その最後の顔が脳裏に浮かぶことになるでしょう。それは、苦しい思い出になるのかもしれません。


笹原留似子さんは、故人と過ごした「かけがえのない日々」を良い思い出にするために、一番良い顔を記憶してもらうために、生前の姿に近い状態に戻そうと日々努力されています。

人は死ぬと、時間とともに変化してゆきます。

たとえば、口が大きく開いてしまっている。

顔が土色になってきた。

目が閉じなくなってしまった。

表情がなんだかくるしそうだ・・・・・・。


笹原さんが切ないのはそのような状態のとき、故人のそばに誰もいなくなってしまうことなんだそうです。

実際、姿がどんどん戻っていくと、ご家族は本当に驚かれます。「寝ているみたいだ」などという声が必ず上がります。


笹原さんは変えるのではなく、戻すと言っています。復元なんですね。

僕が驚いた笹原さんの大きなこだわりが「微笑みを戻す」ことなんです。

わたしは表情筋の研究をくり返すことで、笑いじわをたどりながら処置をして、生前の微笑みに近いお顔に戻すことができるようになりました。


故人が安らかな笑みを浮かべていたら、生きている我々の気持ちがどれだけ救われるでしょう。

それほど最後のお別れの表情は、残された人を幸せにするか、不幸にするかを分けてしまうものなんです。

笹原さんは大切な人の死と向き合えるために「参加型納棺」を、自分の会社を立ち上げたときに考え出しました。

ご家族に見守っていただくのではなく、ご要望をお聞きしながら、一緒に納棺を行うという「参加型納棺」です。

たとえば、清拭をお手伝いいただく。死化粧をお子さんやお孫さんと一緒に行う。仏衣を一緒にととのえる。

どうしてこのような方法が思い浮かんだのかといえば、このほうが、ご家族が大切な人との死と向き合えるから。

かけがえのない人の死を、自分自身から起こる感情のなかで人生の大切な出来事として受け容れることができるようになると考えたからです。



3.11


東日本大震災


未曾有の自然災害。


笹原さんは、岩手で被災されます。

電気もなく、テレビも映らなかったわたしたちには、このときまだ、東日本大震災で何が起きたのかまったくわかりませんでした。


その後、テレビの映像を見た笹原さんは、このように語っています。

衝撃的でした。宮城県の平野を津波がどんどん駆け上がっていく。小さく映っている車が今にも飲みこまれそうです。

わたしは目を背けました。これは子どもには見せられない。


笹原さんは、以前から活動を共にしていた僧侶で、特別養護老人ホームでも働く太田宣承さんと、津波で大きな被害にあった沿岸部の被災地に入りました。

「何かできることはないか?」

その結果、太田宣承さんは被災地のお参りへ。笹原さんは復元ボランティアの活動を行いました。

犠牲になった人の安置所となった体育館を歩いていると、ある「なきがら」に釘づけになった笹原さん。

それは、小さな小さな、なきがらでした。


三歳くらいの女の子でした。「身元不明」と書かれています。

死後変化が始まっていました。皮膚の一部が薄い緑色に変わっています。津波にのまれたのでしょう。

顔に少し陥没があり、たくさんの細かな傷がありました。身体全体に膨らみも出てきていました。真っ先にこみ上げてきたのは、この思いでした。

「戻してあげたい」

車の中には処置をするための道具がありました。


今までの経験において、なきがらの状態でご家族の気持ちが大きく変わることを知っていた笹原さんは葛藤します。


身元不明のなきがらに触れることは、法律で禁じられていたのです。


笹原さんは警察の方にお願いしてみましたが、首を横に振るだけでした。技術的にはできたし、道具もありました。


笹原さんは、苦しみます。


辛くて、切なくて、涙が出てきます。


安置所を離れてから、はげしく後悔しました。


それから


はじめて津波被害者の納棺の依頼がきました。


17歳の高校生の女の子。


ご家族は身体のチェックもされていない。相当なショックを受けていると笹原さんは感じます。


お顔は損傷が激しく、変色も始まっていました。ご両親はどれほどつらかったでしょう。直視はできなかったのではないでしょうか。


長い髪には、砂がたくさん入りこみ、藻のようなものもいっぱい付着していました。津波の凄さは、遺体にもかなりの衝撃をあたえていたのです。


髪を何度も何度も洗います。
お湯は使えません。
腐敗が進むからです。


口の中にも砂がたくさん
入っています。

「お父さんも、お母さんも、待っているからね。おばあちゃんもいるよ。一人じゃないよ。淋しくないからね」


笹原さんはそう話かけながら、
2時間かけて復元しました。

ご家族を呼びました。目を閉じて微笑む娘さん。かわいかった。

真っ先に入ってきたお母さんは、大声で名前を呼んで、なきがらにすがりました。

ずっと無言だったお父さんは、肩を震わせて、娘さんの顔をじっと眺めていました。


ようやく振りしぼるようにして、お父さんは
娘に声をかけました。

「守ってやれなくて、すまん」


お父さんの目から、大粒の涙がこぼれ落ちました。


笹原さんはこう語っています。

泣くことが、大事。
泣けることが、必要です。
そのために、復元があるのです。


家族みんなが娘さんに、
声をかけはじめました。


おばあちゃんは、お孫さんの頭を
ずっといとおしそうになでています。


それから、笹原さんの方を振り向き

「本当に、本当にありがとうございます。
孫がようやく家に戻って来てくれました」


事故死や、自殺、死後長時間が経過するとそのまま棺に入れられ、家族と対面することなく火葬されるそうです。


笹原さんの想いはひとつ。

絶対に最後にいいお別れをしてほしいから。


このあと笹原さんは体力の限界、精神の限界まで復元に取り組んでゆきます。


笹原さんは、わずか300人しか・・・と書かれていましたが、よく300人もあのすさまじい現場で復元することができたと思いました。


それほど、遺体の損傷がひどいのです。


復元に欠かすことのできない、ウィッグ(人工の髪の毛)や、まつ毛もなくなり、笹原さん自身の髪の毛を切って使ったといいます。


「おもかげ」が戻らないと、いいお別れができない。


「おもかげ復元師」


笹原さんは命をかけて、「お別れ」の瞬間(とき)をつくったのです。


笹原さんの力となった唯一のもの

ご家族の方に「ありがとう」と喜んでいただけることが、わたしのすべての原動力でした。


明日で東日本大震災から12年目。

明日は「おもかげ復元師の震災絵日記」という笹原さんのスケッチと言葉をご紹介しながら、この本と震災について辿っていきたいと思います。


【出典】

「おもかげ復元師」 笹原留似子 ポプラ文庫



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