最近の記事

自炊とベビ蛇

京都に越してきてからというもの、全く自炊ができていない。これにはいくつか理由がある。一つは、引っ越しの際に色々と処分したこと。古くなっていた炊飯器や、微妙な量の調味料などを処分した。そしてより大きな要因は、ガスコンロにある。 東京の家から持ってきたガスコンロは京都の家にもそのまま置くことができたのだが、コンロとガスの元栓の位置関係が変わったことにより、ホースが届かなくなってしまった。ホースを買い直せばすぐに済むのだが、これをずっとサボってしまっている。 ガスコンロはどこか寂し

    • 日々の「す」と「だま」

      2月4日 物を書く時間は意識的に取っているつもりだが、思うように書き進められていない。早く書けることが必ずしもいいことだとは思わないが、時間を空けすぎると、文章の密度が薄くなってしまうように感じる。 空気の穴というか、「す」が入ってしまう感じ。「す」って漢字でどう書くのだろうと調べる。「鬆」と書くらしい。ウィキペディアには、「鬆(す)とは、本来は均質であるべきものの中にできた空間をいう」と書かれていて、「対義語として、均質であるべきものの中にその物質が著しく固まって存在する場

      • 白桃と金木犀

        私は白桃が好きだ。味や見た目はもちろんだが、白桃には文学的な魅力を感じている。それには明確な理由がある。野呂邦暢の短編小説『白桃』の影響だ。 この作品を最初に読んだのは、センター試験の現代文の過去問だった。調べてみたところ、『白桃』が問題文となったのは2003年らしい(ちなみに私が大学受験したのは2013年)。 『白桃』は食糧難の戦後が舞台の小説で、幼い兄弟が両親に頼まれたお遣いの中で、大人たちのいざこざに巻き込まれる。意地と弱気、惨めさと苛立ちの間を揺れ動く兄と、そうした

        • 換気扇の下

          父はよく煙草を吸う人間だった。今でも煙草を吸うが、いつからか点火式ではなく加熱式に変わった。私が子どもの頃、まだ家族四人で暮らしていた頃、父はよく換気扇の下で煙草を吸っていたのだが、加熱式に変えてからは自分の部屋で煙草を吸うようになった。加熱式は点火式のように副流煙や灰が出ないからだ。 かつてはご飯を食べ終わるとすぐにキッチンに行って換気扇を回し、一服していた。キッチンはカウンターになっていて、リビングを見通せたが、換気扇の下だけは目の前が壁になっていて、そこにはフライパンや

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          日_____記

          12月の日記祭に向けて、日記をまとめている。 日記と言いつつも、毎日は書いていない。こうして並べてみると、書いていない日付の方が多い。カレンダー上に並べてみたら、途中のビンゴみたいな歯抜けた顔が浮かびあがるだろう。 書いていない日は何もなかったのかというと、そうではない。日によって、書かれていない理由がそれぞれある。行間を読むように、日付と日付の間を眺めていると、それらの日々のことがぼんやりと思い出される。ページとページの間に透明の栞が挟み込まれている。目を凝らして、読み留

          ベランダ

          人と会う予定が急になくなってしまい、どうしたものかと思いながら、ベランダに出て本でも読もうと思い立つ。部屋は十階にあって、京都は高い建物が少ないものだから、南に面したベランダに立つと随分見晴らしがいい。空が広く、吹き抜ける風が心地いい。厳しかった残暑もようやく落ち着いて過ごしやすい季節になってきた。 ベランダにキッチンスツールを置いてそこに座る。そのスツールは部屋の中では持て余されていて、観葉植物でも置こうかと思っていたのだが、こうしてベランダに置くのがちょうどいいかもしれな

          ヤドカリとカニと僕

          ヤドカリとカニは不思議な関係にあって、それぞれ別種のヤドカリたちが長い時間をかけて、みな同様にカニっぽく進化していくという現象があるらしい(収斂進化)。ヤドカリがカニのようになることを「カニ化」と呼び、この逆の過程、つまりカニがヤドカリのようになることは「脱カニ化」と呼ばれる。 カニ化と脱カニ化が繰り返し起こることもあるようで、どうやら彼らはカニとヤドカリの間をナナメに行ったり来たりしているようである。 ヤドカリが宿を捨てて長い旅に出るとき、カニが縦歩きの夢を見るとき、彼らは

          ヤドカリとカニと僕

          金星 泡立った宇宙

          最近帰り道によく金星を見る。駅から家に向かって西側に歩くから、金星を目指して帰ることになる。 穴が空いているみたいだな、と思う。 夜のとばりに、針でぷちっと空けた小さい穴。 でももちろんそこは穴ではなくて金星がある。どちらかといえば周りの濃紺のカーテンが穴なのだ。 宇宙にはたくさんの星が集まった銀河があって、さらにその銀河が群れをなす銀河団がある。不思議なことに、銀河が群がっているところと、何もないところにはムラがあって、全体として泡のような構造を成しているらしい。銀河は幾

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          にっきニキ

          2023/1/26 揚げ足を取ることはそんなに重要なことだろうか。足元を掬いあっていても何も救われない。 小林秀雄が、批評とは生産の塩であるべきで、そうでなければただの消費に過ぎないというようなことを書いていた。批評の体で堪え性のない消費を繰り返していては、社会が摩耗するだけではないだろうか。 2023/2/13 小説を書き始めると、なんだかそわそわして他のことが手に付かなくなってしまう。頭の中で考えていること、浮かんでいるイメージ、言葉にしたいあいまいなものを、早く定

          にっきニキ

          2022年12月

          2022年12月3日 土曜日 物事はすごく漸進的にしか変わらなくて、相転移する臨界点は霧のようにつかみどころがない。漸進的で慢性的で粘り気のある世界、その干潟に足を取られてちょっと焦りながらも、そこでしか見られないものを観察していたいとも思う。 2022年12月5日 月曜日 日記の感想を送りあったときに、メンバーの一人が自分のことを「面白がりな人」と書いてくれて、それが妙に腑に落ちたし嬉しかった。 自分は「面白い人」になりたいわけでも、「面白くありたい」わけでもなくて、ただ

          2022年12月

          つんつんどくどく

          積読が増えている。なぜか。 読みきれないスピードで本を買っているから。 ここ1週間くらいで買った本たち。 安達茉莉子「私の生活改善運動」 古田徹也「このゲームにはゴールがない」 宮地尚子「傷を愛せるか」 大崎清夏「目をあけてごらん、離陸するから」 赤染晶子「じゃむパンの日」 平田基「居心地のわるい泡」 上妻世海「制作へ」 Donna J. Haraway「When Species Meet」 本屋に吸い込まれては、来たる冬に備えてどんぐりを集めるリスの懸命さで、背を丸め

          つんつんどくどく

          名前をつけてやる

          スピッツの曲に、「名前をつけてやる」という曲がある。スピッツの曲の中でも特に好きな曲。ちょっと投げやりな(?)歌い方もいいし、何より歌詞がいい。 名前をつけるというのは、同じように見える世界の中から特別な何かを切りだして、「それ」をちゃんと呼べるようにする行為である。名前は、名づけたものと、名づけられたもの、どちらか一方に所有されるようなものではなく、両者の間に存在する。 学部時代、社会学の授業で、「千と千尋の神隠し」を見せられた。 教授は一通り映像を流したあと、「湯婆婆

          名前をつけてやる

          視界を曇らせるもの

          私は目が悪い。視力が落ちたのは小学5年生の頃のことで、寝転がってナルニア国物語を読み耽っていたことが原因だと考えられている(諸説ある)。 目が悪いので、眼鏡をかけている。吉祥寺のパリミキで買った丸眼鏡である。最近どうも右目の視界が曇るのだが、これには訳がある。 まずは眼鏡の歪みである。無論、眼鏡が歪んでいるといえるのは、顔との関係性に拠るものであるので、歪んでいるのは顔であるとも言えなくはない。人の顔はどれだけ均整のとれたものであったとしても、完全な左右対称ということはない

          視界を曇らせるもの

          意識の川

          読んでいる本の文章を抜き出して書き留める、ということをやっている。いいなと思った表現、痺れた表現をスクラップしているのだ。一連の文章から、一部だけ切り取って書き写してみると、流れで読んでいたときとは違った印象を受けるのが面白い。それは、流れている川から掬いとった水が、もとの川とは別の表情、別の色と輝きと濁りを見せることに近い。 私はそれを一つの手帳に纏めている。本を並行して何冊も読む癖があるから、同じ本からの抜き書きが並ぶことはあまりなく、小説のとなりに旅行記が、エッセイの

          意識の川

          ちょっとずつ分け持って

          最近、自分にしては色んな人に会った。 高校時代の友達、大学時代の同期、前職の同期、インターン先の同期などなど。 時を経るごとに、会う頻度は少なくなっていく。毎日のように会っていた人たちが、それぞれの道で、それぞれの人生を歩んでいるということが、とても不思議に思えてくる。振り返ってみると、分け合った時間は一瞬だったように思える。でも、それが蝶番のように私たちを繋いでくれている。 思い出話をしていると、自分でも忘れていた自分の話が出てくることがある。逆もまた然りで、こっちは

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          移動と擦過傷

          午前中に仕事を終え、早稲田松竹へ。ヴィム・ヴェンダースの二本立てを観に行く。 「都会のアリス」と「まわり道」の二本。どちらもいわゆるロードムービー。登場人物は皆まさにオン・ザ・ロードの状態。途上であるがゆえに、常に充たされることはない。「まわり道」の原題は「Wrong Move」らしい。間違った動き。 移動の経験は、連続的であるはずなのに、なぜか断片的な印象を覚える。むしろ、一点に滞留しているときのほうが意識は持続的だ。それは、空間的な固定が時間的な幅を約束しているからであろ

          移動と擦過傷