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換気扇の下

父はよく煙草を吸う人間だった。今でも煙草を吸うが、いつからか点火式ではなく加熱式に変わった。私が子どもの頃、まだ家族四人で暮らしていた頃、父はよく換気扇の下で煙草を吸っていたのだが、加熱式に変えてからは自分の部屋で煙草を吸うようになった。加熱式は点火式のように副流煙や灰が出ないからだ。
かつてはご飯を食べ終わるとすぐにキッチンに行って換気扇を回し、一服していた。キッチンはカウンターになっていて、リビングを見通せたが、換気扇の下だけは目の前が壁になっていて、そこにはフライパンやらおたまやらが掛かっていた。そこに立つとリビングのテレビも死角に隠れて、回転するファンの音で食卓の家族の会話も聞こえない。ただ、煙草の先と自分の口から吐き出される煙が換気扇にするすると吸い込まれていく様が見えるだけだ。
当時住んでいたその家には父の部屋というのがなかった。だから家の中で独りになれる唯一の場所が、換気扇の下だったのではないかと思う。


お盆に実家に帰ったとき、どういう話の流れだったか、母が「もっと生産的なことをしないとなと思う」というようなことを口にした。母は専業主婦で、私と兄はとうに実家を出ているから、子育ても終わっているといっていい。母の周りの友人たちにはどこかに勤めている人もいて、それに比して自分は、と思ったのかもしれない。
私は少し言葉に詰まりながら、それは二つの点で違うと思うと伝えた。
一つに、専業主婦として、母はしっかり働いているということ。ケア労働を金銭的な価値でもって換算するロジックはいくつかの点でナンセンスだと思うのだが、そんなことを持ち出すまでもなく、母は働いている。
そしてより重要な点は、生産性だけが人間を計る尺度ではないこと。仮に生産的でなかったとして、それがその人の存在意義を否定する拠り所にはなり得ない。


実家に帰るたびに、そうした「家族」の軋みを覚えながら、それ自体が懐かしいものとして感じられるのである。ああそうだった、家族というのはこういうものだった、というような。一人でいる時の、間延びしたものとは異なる時間感覚。過去と未来が家の中に押し込まれていて、分厚い現在と混じり合って淀んでいる。

換気扇の下に立ってみる。ファンを回す。旋回運動の音が響く。滞留している時間はうやむやになって、室外機から街中に流れ出していく。

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