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ベランダ

人と会う予定が急になくなってしまい、どうしたものかと思いながら、ベランダに出て本でも読もうと思い立つ。部屋は十階にあって、京都は高い建物が少ないものだから、南に面したベランダに立つと随分見晴らしがいい。空が広く、吹き抜ける風が心地いい。厳しかった残暑もようやく落ち着いて過ごしやすい季節になってきた。
ベランダにキッチンスツールを置いてそこに座る。そのスツールは部屋の中では持て余されていて、観葉植物でも置こうかと思っていたのだが、こうしてベランダに置くのがちょうどいいかもしれない。湯を沸かしてインスタントコーヒーを淹れ、エアコンの室外機の上に置く。ベランダでの読書体験を充実させるために、もう少ししっかりとした椅子やテーブルを買ってもいいかもしれない。
大きな通りに面しているので、車の行き交う音や、信号機のぴよぴよという音響、バスが空気を吐く音などが聞こえてくる。こうした環境音があったほうが、いやに静かな室内よりも集中できて読書が捗る。先日図書館で借りた海外小説短編集の中からアリス・マンローとジュリアン・バーンズの作品を読む。
時折本から目を離し、空を見やる。午後三時の日はまだ高く、雲がかかっていることもあって眩しすぎることもない。こうやって日が暮れるまで読書をするのは、淋しくも充実した時間だ。

こうして半分外に出てだらだらと時間を使うことに対して妙な官能を覚えてしまうのだが、それには二つの小説が影響している。一つは野呂邦暢の「日が沈むのを」という作品。二十代半ばの女性が、まだ暑い八月の終わり、庭に面したアパートの廊下に椅子を持ち出して夕日が沈んでいくのをぼんやりと眺める。ついに夕日が沈んで眼の前が夕闇に浸されるころ、自分の元を去っていった男の影と視線を見て取るのである。

ときどき肌着をつまんではがしている。けれど躰の奥深いところが、夏の光につらぬかれ、全身をめぐる血液もあたたかくざわめく感じ。心臓の快い鼓動、躰の芯まで八月の夕べの光に浸って、けだるく物憂い。〔……〕右手にはタバコ、左手のとどくところにチョコレート。

「日が沈むのを」野呂邦暢

もう一つは楊逸の「盗撮」という作品。この小説でも、三十手前の女性が、風呂上がりに裸のままでベランダに立って夜風を受けながらぼうっと外を眺めている。建設中だった向かいの建物がどんどんと伸びていったある日、女はベランダでカメラのフラッシュを浴びてしまう。自分の裸を盗撮した相手を想像し、見られることを意識しながら「奇跡の裸」というダイエット本やセクシーな部屋着を買うという話である。

その間でも、風呂上がりに裸のまま、ビールを片手に窓際に立って、公園を眺めるつもりでぼうっとするのは、至福のひと時だった。開放感がたまらないというか、一日の疲れを、そよ風が優しいタッチでさらっていってくれるようで、気持ちよい眠りにも導いてくれるのだった。

「盗撮」楊逸

この二つの小説は、失恋した二十代の女性が夕方風呂上がりに半裸でベランダに立って、風で汗を乾かしながらぼんやりと外を眺め、男の視線を感じ取って自分の姿を意識しながら身を隠す、というところで共通している。こうして共通点を挙げ連ねたが、それぞれ異なる味わいがあることも付け加えておきたい。なんにせよ、どちらも夏の夕方の湿度やベランダの開放感の描き方が印象的で、それぞれの話の本筋は忘れてもベランダで女性が黄昏ているシーンが妙に心に残っていたのである。

私は半裸でベランダに出るような真似はしないし、ビールも持ち出さない。代わりにこうして本とコーヒーを手にしている。風がページをめくるのをそのままに、日曜日の午後の倦怠を天に晒している。
空には二匹のとんびが飛んでいる。それぞれ逆方向に旋回しながら、次第にその円を広げていく。二匹はぐるりと一周するたびに接近するが、徐々にその間隔が疎らになっていく。いつのまにか一匹は視界の端から消えてしまい、もう一匹は緩やかに滑空しながら二条城を囲む並木のなかに消えていった。

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