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ヤドカリとカニと僕

ヤドカリとカニは不思議な関係にあって、それぞれ別種のヤドカリたちが長い時間をかけて、みな同様にカニっぽく進化していくという現象があるらしい(収斂進化)。ヤドカリがカニのようになることを「カニ化」と呼び、この逆の過程、つまりカニがヤドカリのようになることは「脱カニ化」と呼ばれる。
カニ化と脱カニ化が繰り返し起こることもあるようで、どうやら彼らはカニとヤドカリの間をナナメに行ったり来たりしているようである。
ヤドカリが宿を捨てて長い旅に出るとき、カニが縦歩きの夢を見るとき、彼らは一体どういう気持ちなのだろう。

さて、7月の終わり、僕は日本列島を横歩きするように東京から京都へと越してきた。東京には、生まれ育った札幌を離れてからおよそ10年間ほど住んでおり、それなりに順応して楽しんだと思う。
あらゆるところから人が来ている東京と、古都として独特の磁場を持っている京都はやはりどこか空気が異なる感じがして、「京都に住んでる」と言えるようになるには東京以上に時間がかかる気もしている。

僕は引っ越しにあたって家具を整理する必要に迫られた。東京で住んでた家はそこまで広くはなかったものの、一時期同棲をしていたこともあってそれなりに物が多くなっていたし、使い続けてボロくなった家具も多かった。
とりあえず引っ越してから新しい家で検討しようとそのまま新居に持ってきた物も多く、さてどこから買い換えようかと頭を抱えている。
新しく住み始めた家が特別気に入っているわけでもなく、2年ほど住んで京都の街に少しか詳しくなったころにでもまた市内で新たな家を探したいと思っていて、それが悩みを大きくしている。今の家はあくまで仮宿のつもりなのだ。
ベッドも作業机も椅子も本棚も一新して、長く使い続けられるお気に入りのものにしたいという思いはあるものの、これからまた転居することを考えると、一旦無難に取り揃えておくかという気にもなる。
そもそもこれからどのくらい京都に住むことになるのかもわからない。今は職場が京都だが、この先転職をしないとも言い切れない。転職した場合、京都を離れる可能性は大いにあり得る。転々と宿を変える生活も魅力的ではあるが、腰を据えて生活を整えていくこともまた異なる魅力を持っている。

ヤドカリたちも同じ気持ちだろうか。もっといい家があるかもしれないと夢見つつ、馴染んだ宿も捨てがたい。
あるときヤドカリは思い切って宿から這い出てみる。柔らかくねじれたお腹に擦れる砂がくすぐったいが、我慢しながらずりずりと進む。波に洗われる背中はあまりに無防備で、周りの魚たちの視線を感じて時折縮こまってしまう。しかし次第に痺れるような開放感を感じてくる。このままどこにだって行けるのではないか? ずっと借り宿で仮の生活を続けていくのも癪じゃないかと、岩場をカリカリ引っ掻きながら考える。
通りがかったカニがその様子を横目に(いや、縦目に?)見ながら、そんな時期もあったかもしれないと思いを馳せる。身一つでどこまでも行けると思ってここまでやってきたが、結局随分重い鎧を背負ってしまったものだなと考えてカニっとわらう。
ヤドカリとカニが縦と横にすれ違ったとき、その上を無関係のエビがびゅーんと後ろ向きにひとっ飛びして、飛行機雲のような泡の筋を残す。

こんなことを考えながら、残暑が厳しい鴨川沿いを歩いている。賀茂川と高野川がぶつかって、それぞれの道のりをねぎらうように互いの水を分け合っている。そのうち桂川と合流して、宇治川や木津川と寄り合わさって淀川に名前を変え、大阪湾に流れ出る。
目的があるようでないような、抗いがたいようで制限のないような、夢見がちだが現実的な移動。
川の流れも、うんざりするほど長い時間をかけた進化の過程も、札幌-東京-京都と徐々に南西に流れる僕の旅路も似たようなものなのかもしれない。

僕は川沿いのベンチに腰を掛ける。日が暮れるまで、少しの間。

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